プロローグ
短編に上げていたものを長編化しました。
今回は短編をご覧になっていた方にはネタバレになる部分がございますが、前のことは忘れてお読みください。
「紗理奈ちゃん」
少し遅くなってしまった学校からの帰り道。
夕暮れの空を眺めながら歩いていた棚橋紗理奈は不意に誰かに名前を呼ばれて反射的に立ち止まった。
空に向けていた視線を前に戻せば、すぐ目の前に見知らぬ男が立っている。
顔は逆光になっていてよく見えなかったが、長い前髪の隙間から三日月形に歪む口元だけが嫌にはっきりと見えた。
男は紗理奈が驚きに動けないでいるとゆらりと幽鬼のように動き、一歩、また一歩と紗理奈へと近づいてくる。
「紗理奈ちゃん」
男は紗理奈の名前を呼ぶ。
面識どころか、会ったことがないはずの紗理奈の名前を。
「君はあの女とは違うよね?」
紗理奈の前で歩みを止め、ゆっくりと男の手が動く。
「ちゃんと僕の…」
その手は青褪め震える紗理奈の頬に添えられた。
「…ひっ」
けれど血の気を失っていた紗理奈の頬よりもその男の手の方が冷たく、小さな悲鳴が口をついて出てしまう。
だが男はそれを気にも留めないのか、頬に添えていた手を髪の中まで差し入れて、
「僕の愛を、受け入れてくれるよね?」
そう言ってうっそりと笑うように三日月を歪めた。
___
「はっ、はっ、はっ…」
目が霞む、膝が砕ける。
もう少しなのに、あと少しなのに。
自分の足はもうほとんど動いてはくれない。
「おねぇ、ちゃん…」
壁を伝って歩き、何度も転びながら、それでも中村鈴華は諦めない。
自分の唯一の家族の元に辿り着くまで。
「ねぇ…、ちゃ…」
そこまで、力尽きるわけにはいかない。
ほら、あと一歩で扉に届く。
「残念だよ鈴華ちゃん」
「っぁ…!!!」
そこで背に衝撃が走る。
先ほど腹に受けたのと同じ衝撃が。
見なくてもわかる。
犯人はあの男だ。
ずっと前から鈴華をつけ狙っていた、歪な笑みを浮かべる男。
「君もあの子と同じなんだね」
ぐじゃり、と嫌な音を立てて背中から異物が抜けていく。
同時に僅かに残っていた熱もそこから流れていった。
「君も、僕を見てはくれないんだ…」
男が言っていることの意味が鈴華にはわからない。
でもわからなくてもいい。
震える彼女の足は目的地に辿り着いたのだから。
「さようなら」
力がなくなり、倒れ込むように扉に背を預けた鈴華に男はそれだけ言って去って行った。
背後の扉が押し開けられる感触とカランというドアベルの涼やかな音、「何の音…鈴華!?」と自分を見つけて叫ぶ姉の声を聞きながら、鈴華は「理不尽だ」と思った。
___
「加奈絵ちゃん」
「っやだ、来ないでぇ…!!」
松本加奈絵は突然馴れ馴れしく自分に声を掛けてきた男を恐れ、咄嗟に逃げた。
可愛い顔立ちをしていたが引っ込み思案だった加奈絵は、基本的に男性が苦手であったがこの時はそんなことは関係なく、ただひたすらに目の前の男が怖かったのだ。
それは狂気に満ちた光のない目のせいかもしれないし、歪んだ三日月のような笑みを浮かべる口元のせいかもしれない。
必死に走る足は重く、呼吸はどんどん浅くなり、目には涙が滲んでくる。
けれど加奈絵は男から逃れるために足を止めるわけにはいかなかったし、どんなに苦しくても迫りくるような恐怖から逃れるためには止まることなどできなかった。
「ああ、君は僕の手を逃れて、遠くへ行ってしまうんだね」
そんな男の呟きが、やけに耳に残った。
___
「お前、お前だ!!」
自分の家を覗き込んでいた不審な男が自分を見た瞬間にそう叫ぶのを聞いて、野田芽衣子はとりあえず逃げなければと思った。
あの男が誰だか知らないが、自分を見る目が正気ではなかったからだ。
「お前があの時、俺の邪魔をしたんだ!!」
逃げる芽衣子を男が追う。
「俺は彼女を愛していたのに!」
意味の分からない言葉を叫びながら。
「彼女だって俺を受け入れてくれたはずなのに!!」
酷く憎々し気に芽衣子を追ってくる。
「アンタ、誰よ!?」
走りながら芽衣子が訊ねても男は答えない。
「許さない!」
代わりに叫ぶ。
「俺はお前を、絶対に許さないぞ!」
呪詛の言葉を。
「絶対に、逃がさないからな!!」
アスファルトが溶けそうなほどの炎天下にも負けない憎悪の炎がその背に揺らめくのを、芽衣子は確かに見た。
ああ、本当に今日は異常に暑い。
2つの炎に焼かれているのだから当然か、と思ったところで芽衣子の意識はなくなった。
___
学校からの帰り道。
大通りから一本逸れた脇道を歩いていた清水莉緒は、知らない男性が自分の後をついてきていることに気がついた。
まさか通り魔だろうか。
もしそうだとしたら下手に気がついていることを晒して逆上した男に襲われるより、このまま人のいる大通りに出た方が助けを呼べるだろう。
そう考えて莉緒は大通りに出た。
もし通り魔ならこれで諦めてくれるかもしれない。
淡い期待を抱いて確認してみたが、男は変わらず莉緒の後をついてきていた。
なんで!?
莉緒は男がついてくる理由がわからず必死に足を動かして距離を取ろうとするが、少女の早足に成人男性がついてこられないわけもなく、その距離は一向に開かない。
って、私、なんでこんなに必死に逃げてるんだろう?
悪いのはあちらなのに、と気がついた瞬間。
「あんたさっきからなんなのよ!キモいんだけど!?」
直情型の莉緒はすでに叫んでいた。
しまった、もっと言い方が、と思ったが口から飛び出てしまった言葉はもう取り消せず、莉緒は気まずい思いで男を見た。
よくよく考えれば、偶然同じ方向に歩いていたという可能性だってあったのに、初めから不審者と決めてしまうなんて失礼だったかもしれない。
叫んで冷静になった莉緒がそのことに思い至って青褪めていると、
「ああ、君も違うんだね」
男は失望したように頭を振り、無造作に莉緒に近づくと、その肩をドンと突き飛ばした。
「…え?」
キキキィィー!!!
ガッシャアアアンッ…
状況が理解できないまま、莉緒は左側から潰され、撥ね飛ばされた。
「わああああ!!?」
「あいつ、今女の子を」
「つ、つつ、突き飛ばしたよな!?」
「人殺しー!!」
自分の身体が道路に叩きつけられた後、そんな人々の声を聞きながら莉緒は意識を失った。
___
石橋秋奈には最近見かけるようになった男がいる。
その男は以前親友の野田美波につきまとっていた人物にとても似ていた。
もう2年以上も前のことだからはっきりと顔を覚えていないが、多分同一人物だろう。
なのにその男は昨日から、何故か今度は自分につきまとい始めたのだ。
「ううう、今日もいる…」
入院している先輩を見舞った帰り道。
彼はどこからともなく現れ、何をするでもなくじっと自分を見つめる。
光のないその目はただ見られているだけでも恐怖を齎し、常に三日月形に歪んだ口元には恐怖しか感じない。
「あーもー!!頼むからどっか行ってくれないかなー!?」
頭を掻きむしりながら苦悩する秋奈のこの悩みは、翌々日には何故か解消し、彼女は再び平穏な日を取り戻した。
___
「見つけた!!」
ある日妹を失った中村美涼は、それから3年の間犯人を探していた。
そして今日、ようやく犯人の男を見つけることができた。
あとはこの手にかけるだけ。
妹に、鈴華にしたみたいに、腹と背にナイフを刺すだけだ。
しかし美涼が手を伸ばす前に男は雑踏の中に駆け出して行った。
「くっ!」
何故男が急に駆け出したのかわからなかったが、もしかしたら自分を追っていた美涼に気づいて逃げたのかもしれない。
そんな、せっかくのチャンスをここで失うなんて!
歯噛みしながら慌てて男を追いかけると、
「お前が俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ!!」
男はポケットからナイフを取り出して叫びながら、とある女性を刺した。
突然のことに、女性は固まったように動かない。
「きゃあああ!!」
思わず美涼は叫んだ。
目の前の光景に重なるように妹の死に顔が脳裏に蘇ってきて、それ以上身体が前に進まなくなった。
「おい、あいつナイフ持ってるぞ!」
誰かが叫ぶ。
「血が、血がついてる!!」
また誰かが叫ぶ。
「あそこの女の子だ!誰か、救急車を!!俺は警察を呼ぶ!」
今度も叫ぶ誰かがそう言って、刺された女性に近づいていく。
美涼はただそれを眺めていることしかできない。
憎悪と悲しみと絶望が渦巻いて、目を開けていることで精いっぱいだった。
なのに。
ゆらりと起き上がった女の子は男が持っていたナイフを拾い上げて、
ドシュッ
振りかぶったそれを男の首目掛けて振り下ろした。
喧騒の中で、その音だけがはっきりと美涼の耳に届いた。
___
「え、誰?どういう、…え?人違い…?」
突然右脇腹に感じた激痛を齎した男を見れば、呆然としたように呟くそんな声が聞こえてきた。
「…は?」
自分が誰かに刺されたらしいと気がついた柳井美紀子は振り返って見た件の人物に見覚えがないことを不思議に思ったが、「人違い」という言葉に頭に血が上り、痛みを忘れて立ち上がった。
人違い、つまり自分はこの男の勘違いで刺されて、今、死にそうになっているということだ。
冗談じゃないと思った。
「ふ、ざけ、ん、なよ。ひと、さしといて、かん、ちがい、とか、そんなん、とおるかよ…」
今日は2年も待った新刊を手に入れて幸せだったのに。
どうしてここで死ななきゃならない?
一体私に何の罪があるって言うんだ!!
美紀子は血が流れるのも「お、おい!?君、動いちゃダメだ」という自分を助け起こしてくれた男性の声にも構わずに、頭を抱えてへたり込んでいる男に近づく。
そして男の前に落ちていた、自分の脇腹を刺したナイフを拾い上げ、
「これ、致命傷っぽいんだけど?もう助からないよね?…なら、お前も道連れ、だ」
最後の力を振り絞って、譫言を呟き続ける男の首にナイフを突き立てた。
___
一家のムードメーカーであった長女が亡くなった野田家は、それから3年が経ってもまだ灯が消えたように静かで陰鬱な空気が漂っていた。
今日もまた、少女のすすり泣く声が響いている。
「お姉ちゃん、莉緒先輩、秋奈…」
みんな、みんな死んでしまった。
大好きだった人たちは、私だけを置いていってしまった。
「……淋しい、苦しい、……辛い」
自室のベッドの上で足を抱え両手で自身を掻き抱いて震える少女の小さな身体は、涙と共に彼女の心情を吐露させる。
まだ私は生きなきゃダメ?
みんなの分まで、ずっと…?
「無理だよ、耐えられないよ…」
心が痛い。
まるで見えない手に心臓を握り潰されているかのように胸がきゅうっと痛む。
こんな時、優しい姉は黙って抱きしめてくれた。
元気で明るい先輩は気晴らしにとどこかへ連れ出してくれた。
唯一無二と思えるほど大好きな親友は、何時間でも黙って傍に寄り添ってくれた。
しかし今は、その誰もが彼女の隣にいない。
「ぅう、ううう…」
彼女の、野田美波の涙は今日も止まらない。
けれど彼女はその悲しみを抱えながら、それでも前を向いて生き続けた。
読了ありがとうございました。