第三話
「えー……それでは、空鎧殿、で宜しかったかな?」
「構いませぬ。好きなように呼んで頂きたい」
「鎧さんだよね! 鎧さん!」
幾つもの書物が収められた棚に囲まれた部屋、近頃は専ら退屈しのぎにばかり利用されているという村長の蔵所に通された我輩は、用意された椅子に腰を掛けながらそう答える。
居間に比べると小さめの電球に照らされた部屋は、とても良く整頓された本棚の並びもあり、どこか荘厳な雰囲気を感じさせた。
「申し訳ありませんな。このような狭苦しい部屋で」
「とんでもない。我輩、こうして話をさせて頂けるだけでとても有り難く感じております」
我輩の紹介を済ませた直後、あの場に居た人間の殆どが騒ぎ始めた。
「魔王軍だと!? おい冗談じゃねぇぞ!」と狼狽える者。「いや、ちょっとキツめの冗談だよ! 一体どれだけ昔の話だと思ってるんだい?」と信じない者。「握手させて貰ってもいいか」と心なしか目を輝かせて迫る狩人らしき者。
多種多様な反応を見せる人間に面食らいつつも、どうしたら良いものかと握手をしながら我輩が考えていると、村長がその場にいる人達をなだめてくれたのだ。
曰く、「どうあれ、あの子の恩人に変わりはない。どういうつもりであぁ名乗ったのかは分からないが、悪い人ではないはずだ。しかしこう騒がしくては話も出来ない。少し二人だけで話を整理させてはくれないか」とのことだった。
人間たちはこれを承諾。話し合った内容については後日改めて村の皆に報告するということで、話が終わるまで待っていても良いが今日の所はこれで解散という事にして欲しいとその場の人間たちに伝え、我輩は蔵所へと招かれた。
「さて、どこから聞かせて頂けば良いのか……まずは、カリンをこちらまで送って下さった経緯などは……」
「鎧さんが助けてくれたんだよ! 壁からどーんって!」
「……全く、お前は……静かにしていると約束しただろう」
村長からの問いに、膝に乗ったカリン殿が我輩よりも早く答える。
二人だけ、という話だったはずだが、何故彼女がここにいるのか。それは村長と我輩で蔵所に入ろうとした時に、我輩の足に引っ付き離れようとしなかったのだ。
「カリン。私達は今から大事なお話をするから、向こうで待ってなさい」
「ダメ! おじいちゃん、鎧さんを悪い人かもってちょっと思ってるんでしょ! だったら私がいてあげないと可哀想!」
「そういう訳ではないのだが……」
どうやら、我輩が叱られてしまうものだと思ったらしい。何度説明しようと一向に納得する気配はなく、仕方なしに彼女を交えて話し合いをすることになったのだ。
椅子を人数分用意して頂いたにも関わらず、何故我輩の膝に乗るのかは分からない。鎧の身である以上、凹凸が怪我をさせてしまわないか心配なのだが。
「では、我輩が彼女と会った所から話させて頂きましょう。事情が事情なので、少々分かりにくいやも知れませぬが……」
「じゃあ、そこに行く前の話は私がしてあげる!」
そう言うと、二人して身振り手振りで今日一日にあった出来事を話し始めた。
なるべく丁寧に話したつもりではあるが、我輩と出会う前のカリン殿の動向は、我輩には与り知らぬ範囲である。上手く話を繋げられたか少々自信はない。
特に精霊の事はどうあっても隠しておきたかったらしく、動機についてはかなり無理がある部分も少なくはなかった。
だが、起きた事象の細かさよりも、起きた事件の重大さの方が大事だったようだ。カリン殿が魔獣に襲われた事、それを我輩が救った事。基本的にはそこを詳しく聞き出されたので、 二人で繋げたリレー小説のような前半の解説はまるで必要なかったらしい。少し恥ずかしくなる。
「なんと……魔獣に襲われていたとは……この馬鹿者……」
「……え、えへへ」
あれでは全く叱り足りなかったか。そう言わんばかりの村長の表情に、カリン殿は目を合わせず空気しか出てこない口笛を吹く。
しかし一度終わった話を蒸し返しても仕方ないと思ったのか、深くため息をつくと、村長はカリン殿の右手を眺めて呟いた。
「では、この手当はその時の……?」
「うむ。我輩がその場を離れる時にカリン殿を抱えたのですが、扱いが悪かったようで。申し訳ない……」
「もう、だからこれは鎧さんのせいじゃないってば」
大事な家族に怪我を負わせてしまったことを悔い、謝罪をする。
カリン殿は我輩を気遣ってそのように言ってくれるのだが、それでは我輩の気が済まない。
しかし村長はその様子を見ると、ゆっくりと頭を下げて謝辞を述べた。
「改めて、感謝を。この子を救って下さって、本当に……本当に、有難う御座います」
全身で感謝を表す村長に、慌てて言葉を返す。
「あ、頭を上げて下され! 先に申した通り、我輩は感謝されるような事はしておりませぬ! 我輩は、ただ体が勝手に動いただけなのですから!」
「……本当にあなたは良いお人だ」
頭を上げ、こちらへと顔を向けると村長は満面の笑みでそう言った。外聞を気にしての言葉というつもりは無かったのだが、面と向かってそう言われると少々嬉しくもあり、つい落ち着きもなく頭を擦ってしまう。
膝の上の少女はまるで自分が褒められたかのように鼻を鳴らして自慢げにしていたが、「お前はもっと反省しろ」と呟いた村長にデコピンをされていた。
「しかし空鎧殿。今の話からすると、あなたはこの子が訪れるまで、ずっとあの場に居られたようだが……何か理由でも?」
「それが分からぬのです」
「分からない?」
「えぇ。実は我輩、あそこで目覚める前の記憶が何一つ存在しないのです」
「え!? 鎧さん、頭からっぽなの!?」
「うむ……」
ともすればただの馬鹿だと言わんばかりの言葉にも聞こえるが、事実その通りなのだから腹も立たない。むしろ的確であると称賛したい程だ。記憶だけでなく、物理的にも何も入っていないのだから。
最終調整前だったのか、或いは記憶領域の接続が上手くいかなかったのか。己の最も古い記憶は、少女の悲鳴で飛び出したあの瞬間であった。
「記憶が無い……にも関わらず、魔王軍所属であることは覚えておられたのか?」
「部隊識別の信号や、言葉などと言った情報は記憶領域とはまた別の部分なのでしょう。最も、言語や常識・倫理観は我輩を形成する深い部分の情報として、信号は必要に応じて塗り替え可能なように簡易領域として。重要度は天と地ほどの違いがあるでしょうが」
「なるほどのぉ……」
「ほぼ生まれたばかりの新品に近い記憶領域でも、真っ当に活動出来るのはそういう事でしょうな」
そう、記憶が無いのは確かに問題だ。だが、体は問題なく動き回り、言葉により意思疎通は出来る。となれば現状把握にもさほど困りはしないだろう。
であれば、次に確かめたいのは先程の騒ぎの中で聞こえた、どうも引っ掛かるあの一言。
「村長殿。不躾ではありますが、ひとつ我輩からも質問宜しいでしょうか」
「おぉ。えぇ、構いませんとも。何でしょう?」
「今は……今年の暦は、幾つなのでしょう?」
緩んでいた村長の顔が、少しだけ引き締まる。そう、これはある意味今回の話し合いの核心とも言える部分なのだ。
我輩が魔王軍だと所属を名乗った直後の騒ぎ。その時にある婦人の放った言葉。《どれだけ昔の話だと》。
俄には信じ難いが、もしかしたら我輩個人がどうこうできる事態では無いのかも知れないと、予感させていた。
「……そうですな、お答えせねばなりますまい。我々にとっても、あなたにとっても、今後を左右する大事な話なのですから」
「?」
先程よりも一段階重くなった空気を感じ取ったのだろう、カリン殿は我輩と村長の顔を交互に見やり、頭に疑問符を浮かべている。
「今はちょうど法暦1500年。人の歴史からすれば、法という概念が出来てこれだけの時間が経っているという事になります」
「人の歴史で計算すると……む? ち、ちょっと待って下され! それでは魔王軍は……!」
「えぇ、諸説ありますが、魔王軍との開戦はもっとも古い記録で554年。終戦は893年……人間の勝利で決着がついております。つまり……」
「魔王軍は、もう500年以上前に滅びているのですよ」
***
村長が選び取った過去の戦争について記されている書物を、机の上に広げてひとつひとつ丁寧に読み解く。地図や生物図鑑など、とにかく数百年単位の情報が載っている資料は全て揃えて貰い、理解できる範囲で目を通してみた。
結果として言えることは、魔王軍が敗北して既に数百年が経過している事。それは揺ぎのない事実であった。
「当時の戦争がどういった経緯から勃発し、どのような結末を迎えたのか、細かい部分は民間に残された資料では既に確認は出来ません。王都にもどこまで残っているのやら……ただ大雑把な流れは、おとぎ話として幾つもの伝承に残っております」
「確かに……戦争について直接言及している書物は推測や状況証拠の羅列が主で、それ以外は年表で触れる程度でしか無いようですな」
余程激しい戦争だったのだろうか、開戦から終戦までの間の時代を詳しく記した記録の類なども見つからず、当時の様相を伝える資料も日記などと言った客観性に乏しいものが主流のようだ。
基本的にはそれが吟遊詩人などにより物語性を与えられ、やがて世界中へと広がったおとぎ話として残されるに至ったらしい。
要約すると、平和であった人間の国へ、ある日どこからともなく現れた魔王軍が征服を目的に侵略を開始。人はみるみる内に数を減らされ、やがてひとつの国を残して全滅を待つばかりだった。しかしある日、絶大な力を持つ一人の人間が立ち上がる。神から力を与えられたというその人物は勇者として魔王に立ち向かい、国へ攻め入る主力を立ちどころに討ち払う。その姿に希望を見た人々もまた立ち上がり、これまでの劣勢を覆す。そしてある日、とうとう勇者が魔王の首級を上げた。その日を境に魔王軍は霧のように姿を消し、人々はついに平和を取り戻した。そして最後に残った人間の国が人々の生活を支える一大王国となり、これが今日の王都である……といった話のようだ。
なるほど、実に胸躍る英雄譚だ。いち魔法生物である我輩ですら、炉心が踊るのを感じる。
しかしこうなると、情けなくなるのは今の我輩の立場である。
「我輩……よもや数百年も寝坊してしまったのか……?」
子供向けの絵草紙で、簡素ながらも凛々しい顔で剣を掲げる英雄を見つめながら、我輩は項垂れる。
彼が華々しく活躍している最中、どうやらこの不肖の身は棺桶のような狭い寝床で惰眠を貪っていたようだ。慚愧に堪えない。
「しかし、不思議ですな……鎧殿は何故そのような場所に、お一人で?」
「それも分かりませぬ……もしかしたら、あそこで新しく生み出された空鎧だっただけなのかも知れませぬが……」
「おや、あなた方は人工的に生み出される存在なのですか?」
「すみませぬ、ただの思いつきです。出来ないことは無いと思いますが……品種改良が目的であったやも。まぁ、考えても詮無き事ですが」
記憶がない以上あの場に居た理由さえもまるで思い至らず、ひょっとしたら本当に居眠りしてた所を忘れられ、置いていかれただけなのかも知れない。そう自棄になってしまう程には衝撃は大きかった。何しろ己が覚えていた数少ない自分を知る為の情報が、数百年以上も前の化石であったのだ。これでは例え記憶を取り戻した所で、全ては手遅れと化しているだろう。
「我輩の帰るべき場所は、遥か昔に無くなっていたのか……」
「鎧さん……」
挿絵の中のおどろおどろしい魔王軍を見つめ、途方に暮れる。軍属としてこの身に所属が刻まれている以上、彼らと共に戦乱の時代を生きる筈だったのだろう。
しかし、そうはならなかった。己を知るものも、己を憎むものも、誰一人存在しない時代へとただ一人、取り残されてしまった。
この平和な世界で、何を果たせと言うのだろう。何故か軋み出す炉心に、思わず呻き出してしまいそうになったその時、カリン殿が我輩の顔を覗き込み、明るい声で提案した。
「ねぇ! うちに来ようよ!」
「む?」
「こ、これカリン! 急に何を言い出すのだお前は!?」
予想外の提案に、視認鏡が丸くなる。うちに来る、とはどういう事だろうか。
客人として寝泊まりを許可するという事であろうか。しかし、我輩の体は特別、寝床の安全性を考慮する必要はない。気遣いは有り難いが、そこまでしてもらう事は無いと断りを入れようとしたが……。
「いいでしょ、おじいちゃん! 鎧さん、お家無いって言ってるもの! 私のおうちに居て貰おうよ!」
「しかし、そんなすぐに決められるものでは……」
「ねぇ、いいでしょ! お願い、おじいちゃん! 私、あのおうちに誰も居ないのは、何だか嫌なの。一人は寂しいから、今はおじいちゃんと一緒にいるけど……でも、私のおうちが空っぽなのも、寂しいの」
「お前……」
「ねぇ、お願い。鎧さんもきっと、一人は寂しいよ。一緒に居てあげようよ」
目の前の二人のやりとりが、まるで頭に入らなかった。言葉の意味も、会話の内容も、全て理解は出来ていたのに。頭脳はこんなにも、正常に稼働しているのに。
カリン殿は、我輩ですら理解出来なかった感情を推し量り、それを慰めようと声をかけてくれたのだ。寂しいのだろうと。知り合いも無く、帰る場所も無く、時代を間違えた遺物に過ぎないこの我輩を、一人にはさせまいと!
「……そうだな。確かに、お前の命の恩人だ。幾ら初めて出会う存在だからって、無下にしてしまってはそれこそ筋が通らぬだろう」
「おじいちゃん!」
「さて、客人殿。聞いての通りです。行く当てが無いのなら、暫くこちらへ滞在していかれては如何かな? 元より魔獣の件で、あと数日もすれば王都から調査員が来る手筈になっているのです。何でしたらその時に調査の方に掛け合って、あなたを良い扱いで受け入れて頂けるよう、取り次いでもみますが……」
村長は、根負けしたというよりは、己に出来る最大限の施しを我輩に与えるつもりで、心を決めて話しかけて来てるように見受けられた。
不意に目頭が熱くなる。涙など流しようもない我が身が、まるで先程の村長とカリン殿のように、視認鏡の滲みを止められなかった。
例えようもない寂しさを感じた時よりも激しく炉心が回る。しかし軋むような苦しさは感じず、何故か暖かささえ覚えるようだった。
何なのだろう、これは。一体何という感情なのだろう。
「……感謝、致します……お二方……」
その答えは、口から自然と紡ぎ出されていた事に、自身では気づけなかった。
***
「話し合いは終わったのか?」
書斎から出ると、居間では狩人が一人、狩猟道具を弄りつつ座っていた。
どうやらずっと待っていたらしい。他の大人たちは帰宅しているようだが、一人残っている彼は何か用事があったのだろうか。
「おぉ、スレスタ。お主も帰って休んでおっても良かっただろうに」
「なるべく早く、そこの御仁の処遇が知りたくてな」
そう言うと、スレスタと呼ばれた狩人は視線だけ動かし我輩を一瞥する。
そういえば、彼は最初に我輩が自己紹介をした時も、特に慌てず握手さえ求めてきた男だ。何か考えがあるのかも知れない。
村長もそう考えたのか、書斎での話し合いで整理できた情報を、なるべく簡潔に伝えた後、我輩の扱いについて結論を述べる。
「――という訳でだ。暫く彼はこの村に滞在してもらう事になった。魔法生物ともなると、この辺りではあまり見慣れない故、不安もあるだろうが……話を聞く限り、魔王軍が復活したとかそういった話でもないようなのでな。心配はあるまい」
「大丈夫だ、最初から心配はしていなかった。そういう話なら歓迎だ」
「えらく話が早いのだな。何故だ?」
「そいつが大層懐いていたからな」
そういうと、狩人は顎でカリン殿を指し示す。急に話を振られたからか、カリン殿は少々気恥ずかしそうに目をそらすと、我輩の後ろへと移動してしまった。
「では……あー……すまない、アンタをなんと呼べばいい?」
「空鎧でいい。呼び捨てでも構わぬ」
「それは種族名だろう? アンタ自身の名前とかは無いのか?」
「我々は個体名で呼び合う習性は無かったのだ。作戦行動などで必要に応じて識別番号などが割り振られる事はあったようだが」
この辺りであれば、己の常識の範疇として記録されている。我輩たち空鎧は性格も嗜好もそれぞれ個体差はあったが、こと戦争以外では自ら機能を落としているか、或いは指揮官などの手により機能停止させられた上で保管されているかのどちらかで、基本的に他生物はおろか、同種とも交流する機会は限られていたのだ。やはり武具を元にして生み出された魔法生物なだけあって、文化的機能は必要なしと判断されていたのだろう。
「え? 鎧さんは鎧さんじゃなかったの?」
「言い得て妙であるな。カリン殿たちの立場で考えるなら、人が自らを「人間」だと名乗るようなものと考えていいだろう」
「そうなんだ……ふーん」
カリン殿は少し考え込むように呟くと、はっと気がついたように顔を上げる。
そして我輩の前に躍り出ると、満面の笑顔で言った。
「じゃあ、私が名前付けてあげる!」
「なんと!」
知識でしか持ち合わせてはいないが、名前とは幾らかの例外を除き、様々な願いを込めた個体名を新しく家族となる相手へと贈る、とても大切な物であるという。
そのような宝物を、まるで何でも無い事のように我輩に与えてくれるというのか!
あまりの衝撃に二の句が告げずにいると、なんと他の二人も同調し始めたではないか。
「なるほど、それはいい考えかも知れんの。実は私も少々堅苦しい気がしておったのだ」
「乗った。そういう事なら俺もひとつ、いい名前を……」
「ダメ! 私が付けるの!」
名付け親に立候補しようとする狩人をカリン殿が一蹴する。上げかけた右腕をそろそろと下げる狩人は、相変わらず無表情ではあったが、少し意気消沈して見えた。
その様子を苦笑いしつつ狩人の肩を擦る村長さえも目に入らないといった具合に、部屋中を彷徨きながら頭を捻らせていたカリン殿だったが、ふと部屋の壁に掛けられていた日付表を目にすると、天啓を得たかのように明るい声で告げた。
「千鉄!」
「ほう?」
「鎧さんの名前、千鉄というのはどう!?」
「どういう由来なんだ?」
「だって鎧さん、鉄みたいな体してるし……よくわかんないけど500年くらい寝ていたんでしょ? じゃあ同じくらいの時間を生きないと勿体無いかなって。だから千鉄なの!」
どうかな? といった具合に、期待を込めた顔でカリン殿は我輩の顔を見る。
当の我輩はと言うと、思わず返事を忘れてしまいそうになるほどの多幸感に包まれていた。
千鉄。それが我輩の、個体としての名。千年もの生存を願われた名。そう考えると、まるで己がたった今世界の一員として認められたかのようで、とても言葉にできない感情が胸部装甲を通し全身を貫いていた。
恐らく我輩は、今この瞬間、ひとつの生命体として完成したのだろう。
「千鉄……千鉄。良い。とても良い名だ。気に入った。有難う、カリン殿」
「えへへ……宜しくね、千ちゃん!」
「もう略すのか……もう少し馴染ませてからにしてやらぬか。しかし意外にもちゃんと考えられておったな。関心したぞ」
もっと突飛な名前が飛び出すと思っていたのだろう、村長はそう言うと、カリン殿の頭を撫でて称賛する。カリン殿もこの好評ぶりには気を良くしたらしく、されるがままだ。
我輩も新たに贈られた名を記憶回路に刻み込むように何度も反芻していると、狩人がいつの間にやら帰り支度を済ませていたようだ。
音の鳴る玄関に全員の視線が吸い寄せられると、背を向けたまま狩人が喋りだした。
「それでは、俺は帰るとする。お疲れさんだ」
「おぉ、そうか。スレスタ、今日は本当に苦労を掛けたな。礼を言わせてくれ。有難う」
「いいさ。思いがけない展開になったが、中々に楽しかった。また何かあれば来る」
そう言うと狩人は家の外へ踏み出し、扉を閉める直前に少しだけ顔をこちらへと向けた。
「アンタも、またな。千ちゃん」
照れくさかったのか、少しだけ頬を赤らめて我輩の愛称を口にすると、狩人は扉を閉める。
返事くらい待っても良かったろうに。そう思い、声をかける間もなく閉められた扉を少し残念に眺めていると、村長とカリン殿は呆気にとられたように、口を開けて固まっていた。
「どうしたんだろうスレスタさん。似合わないね」
「なんか気持ち悪いのう」
硬い表情の割に最初から気さくな人間であったと思っていたのだが、二人にとってはそうでもなかったようだ。
人によって他人の評価が変わるとは、なんとも不思議である。
***
日もとうに身を隠し、人々の営みの光さえ落とされた夜闇。
月の光だけが僅かに輪郭を映し出す寝室で、我輩は壁に背を預けていた。
傍らの寝具には、カリン殿が毛布を顎先まで被り、頭をこちらに向けて横になっている。
「千ちゃん。本当に一緒に寝なくても大丈夫?」
「心配無用。我輩は人と体の作りが違う故、これでもしっかり休息を得られている。それに我輩の体の鋭利な部分で、寝具やカリン殿に傷をつける訳にもいかぬ」
狩人が帰宅したすぐ後、夜も遅いという事もあり、我々も解散することとなった。
早速我輩を連れて家に向かおうとするカリン殿に、てっきり宿として貸すだけでカリン殿は今まで通り村長の家で過ごすのだろうと思っていたらしい村長が目を丸くして、そこからまたひと悶着あったのだが、結局カリン殿に押し切られる形で、せめて日中は村の皆の目の届く範囲にいるようにと約束することで交渉成立。元々村長の家から近い事もあり、事実上村長の家で過ごしているのとあまり変わらない措置であろう。
こうして我輩は、少しの間だけカリン殿と共に生活することとなった。
家につくなりカリン殿は緊張の糸が切れたのか、すぐさま船を漕ぎだした。そのままでは衛生的に宜しくないと思い、湯浴みは難しくともせめて着替えだけでも済ませるように言うと、カリン殿はのろのろと動き出した。
そしてカリン殿が着替えをしている間に我輩は家の間取りや家具の位置などを確認していると、寝る準備を済ませたらしいカリン殿からお呼びの声が掛かったのだ。
そうして今、ひとつの寝室に一人と一体が夜を共にしているという訳だ。
「ねぇ、千ちゃん。まだ起きてる?」
「うむ。如何致した?」
「千ちゃんってさ、私より歳下?」
「む? 製造年数だけで言えば遥かに上かも知れぬが……何故?」
「だって、生まれたばかりかも知れないって今日言ってたでしょ」
なるほど、記憶領域の空白について説明した時の事を覚えていたようだ。些細な言葉も逃さず頭に留めておくとは、洞察力でさえ見事なものをお持ちのようだ。
しきりに感心し、改めて我輩の今の状態を伝える。
「うむ、確かに我輩にはあの時、魔獣と交戦した瞬間からの記憶が始まりとして記録されている。稼働時間を人生経験として捉えるなら、確かにカリン殿より歳下であろう」
「そうなんだね。ふふ……じゃあね」
「千ちゃんは、今日から私の弟だね」
「弟?」
「うん。だって私達、一緒に住むならもう家族だもん」
本格的に睡魔に襲われているのだろう。いつもの顔つきよりも更に眠そうに目を瞬くと、嬉しそうにそう言った。
家族。その言葉に、今日何度目かも分からない暖かさを、この身の内より感じる。
人がこの世に生まれし時、多くは最初に結ぶであろうその絆。いずれ巣立つ日が来ようとも、簡単に無くなりはしない、その繋がり。
我輩に帰るべき場所は無いと、今日確かに思い知った筈だった。種族の特性上、家族などという繋がりは最初から存在はしていなかっただろう。だが、この少女が、もしそれを与えてくれるというのなら。
「弟、であるか……」
「うん。そうだよ。だからね、私のことはお姉ちゃんと思って……」
既に眠気は限界のようだ。自分でも何が言いたいのかよく分かってないのかも知れない。
そんな様子のカリン殿を、毛布の上からゆっくりと擦ると、まるで安心するかのようにその息遣いは寝息へと変わっていく。
「承知した。今日はもうお休みなされ。…………姉上」
「うん……お休みなさい……」
その休みの挨拶を最後に、カリン殿――姉上は、深い眠りについた。
僅かな月明かりだけを頼りにその寝顔を観察すると、ようやく訪れた睡眠に心地良さそうにその頬を緩ませている。
余程疲れたのだろう。無理もない、幼い身でありながら相当な距離の森の中を歩き回り、命の危機にさえ直面したのだ。あれだけ喋れていただけでも大したものである。
間違っても起こしてしまわぬよう、我輩はそっと寝具から離れ、改めて近くの壁に背を預ける。
我輩にとっても、今日は激動の一日であった。
目を覚ましてすぐに魔獣を撃退し、人間の子供を保護し、己の居場所が無くなっていたのだと知った。その上、滅ぼされた我輩の所属軍は人間と敵対していたのだと言うのだ。そんな危険な存在を前に、どれだけ不安にさせてしまったか。軽率な名乗りを上げた事に己が情けなくなる。
たった半日で、我輩は己を知る土台、それを全て失ったと言ってもいい。
だが、それ以上に沢山の物を与えられた。こんな我輩でも受け入れて貰えたのだという事実。名前や、家族という繋がり。
人と触れ合う度に生まれるこの不思議な感情は、我輩に何か大きな物を与えてくれているような、不思議な気分を味わわせた。
生まれた時から使命を与えられていた筈のこの生が、芯を全て失くしてしまったのだとしても。
それでも生きる理由があるとするならば、今日与えられた宝物に報いる何かでなければならないのだろう。
ふと、朝まで己の機能を切る前に、月を見上げてみる。
何者にも遮られずに遍く世界を照らし出すその月光は、我輩の炉心の奥にまで届きそうなほど眩く輝いていた。