第一話
「精霊さーん! 精霊さん、どこにいるのー?」
村から大分離れた森の中、友人を探して私は声を上げる。
背の高い木々が密集した空間では、木漏れ日だけが行き先を僅かに照らし、まだ日が落ちていない時間だというのにとても薄暗く、私の恐怖心を煽る。
普段であればここまで奥深く入り込む事はない。少しだけ森の中へ入り込んだ、誰にも知られていない開けた場所で遊んだりはしていたが、そこからでも村が視認出来る程度の距離であることは確認していたし、それ以上離れることはないように自制していた。
しかし今では村はおろか、数歩前に自分が通ってきた道さえも視認できない深部に入り込んでいる。
自身では真っ直ぐに、そして出来る限りゆっくりと進んできたつもりではあるのだが、これだけ後方が確認出来ない状況だと不安になる。迷いはしないだろうか、ちゃんと帰れるのだろうか。
「……うぅん! 大丈夫、大丈夫だもん!」
だが、今はただ怖がってはいられない。もしかしたら、友人が危険な目に遭っているのかも知れないのだから。
今朝、大人たちが村長の家に集められて、注意事項が伝えられた。
子供にはその後、それぞれの家で大人たちから伝達されたのだが、どうやら昨日狩猟に出かけたスレスタさんが森の中で魔獣を見たのだそうだ。
ここ数十年、ここらで魔獣が発見されたという報告はなく、スレスタさんが見たというそれが確かに魔獣なのだという確信はないのだが、それでも万全を期す必要がある。
直ちに王都へ調査を依頼するので、結果が出るまで子供はなるべく外に出てはいけないのだそうだ。
「魔獣は、子供を襲うの?」
「子供に限らん。腹が減っていれば大人でも襲うだろうし、何にせよ近づかないのが一番だ」
「……魔獣って、生きてるものなら何でも襲う? 動物とか、魔法生物とか?」
「魔法生物? また妙な所を気にするな。まぁ……どちらかと言えば、そっちを優先的に襲うかも知れんなぁ。他の生き物と違って、奴らの食事というのは血肉を欲しがってのものではなく、魔素を体内に取り込むのが目的だという話も聞く。であれば、より純度が高い生物を狙うのではないかなぁ」
その言葉を聞いて、顔色を悪くした私を村長は「心配いらん、魔獣にとってはこの村より森の方が餌が豊富だ。ここまでは来んよ」と頭を撫でて慰めてくれた。だが、その言葉こそが私をより一層不安にさせた。何故なら、森にはその魔法生物の友人が居たからだ。
精霊。おとぎ話の中でしか見たことが無かった、非現実的な存在。
ある日、森の中へ逃げ込んで、ただ一人落ち込んでいた私の目の前に現れて、友だちになってくれた大切な存在。
あまり多くの人間に存在を知られるのが好きではないという彼女の気持ちを汲んで、私は彼女の事を誰にも話さず、また彼女も自分以外の誰をも連れてくる事はなく、いつも二人きりだったが、そんな事は気にならないくらいに彼女と過ごすのは楽しかった。
その友人が、魔獣という脅威に晒されようとしている。そう思うと私は居ても立ってもいられなかった。
抜け出すのは簡単だった。この辺りでは馴染みが薄いとはいえ、魔獣という存在がどれだけ恐ろしいのかは物語や大人たちの伝聞で嫌という程聞かされて来たのだ。
そんな化物が村から視認できる森の中で息を潜めているという。そう聞かされれば、好き好んで外へ出ようとする子供など居ない。
大人たちもそう考えたのだろう、自分たちで積極的に見張るような事はせず、一言二言注意するだけでいつも通りの生活に勤しんでいた。事実、他の子供たちはしっかりと言いつけを守り、家の中で退屈に頬を膨らませていたようだ。
故に私は苦もなく家から抜け出し、森まで辿り着けたのだ。いや、実を言うと森へ繋がる道は両脇に畑があり、見通しがよく身を隠せる場所も殆ど無いため、人目につかないようにするのは多少の苦労があったが、それも数分だけ。恐らく数日後に来ると思われる王都からの派遣隊が来るまでは、森に近いこの畑は必要最低限の世話だけして早めに上がる事にしたのだろう。害獣対策を済ませた後は、すぐに人気が無くなった。その後に通り抜けてきたのだ。
そうして森へと辿り着いた私は、いつも精霊さんと遊んでいる場所へと急いだ。普段ならそこで待っているだけで彼女はどこからともなく現れてくれるのだが、今日に限っては待てども待てども姿を見せなかった。
心臓が早鐘を打つ。スレスタさんが魔獣を見たというのは昨日の話だ。もしその前からこの森で彷徨いていたのだとすれば? 最後に彼女と遊んだのは5日前。その間に魔獣の手に掛かっていたのだとしたら……。
頭に浮かんだ最悪の想像を、首を振って振り払う。そんな事あるはずがない。だってあんなに小さいのだ。私の肩に留まれる程に小さくて、しかも空まで飛べるのだ。そう簡単に見つかるはずがない。
だが、いつもなら、時間も日にちも定めずとも私が来れば必ず姿を表してくれる筈の彼女が、いつまで経っても出てきてくれない事だけは確かな現実だった。
不安が呼吸を荒くさせる。もしいつものように現れてくれたのなら、暫くは危険だから気を付けて欲しいと伝えて終わるだけのつもりだった。だが、彼女は現れない。
もしかしたら、怪我でもしてしまったのだろうか。魔獣が原因なのか、そうでないとしても、いつもと違う事態に巻き込まれてしまったが故に、来られないのかも知れない。
もしそうなら、助けなければ。手遅れになってしまう前に、私がどうにかしなければ。
浮かび上がる涙を拭い、私はいつも彼女が飛んでくる森の奥深くへと足を踏み出した。
そして今に至る。
常に湿気を孕んでいる空気は息苦しく、倒木はコケを生やし地面はぬかるみ、ただ歩くだけで足を取られそうになる森の深部では、次第に声を上げる体力さえも奪われていた。
もしこのまま動けなくなったら、私はどうなるのだろうか……。そんな不安が何度も浮かび上がるが、その度に友人の事を思い出し、気持ちを奮い立たせる。
「精霊さん……きっと無事だよね……」
そうして虫や小動物などの障害に悩まされながらも進むうちに、突然開けた場所に出た。
そこは先程までの獣道とは違い、さりとて精霊さんと普段遊んでいた広場とも違い自然に出来たという感じではなく、まるで人為的にそう作られた場であるかのように異様なほど広く、草花さえも整えられていた。
そしてその広場の中央に、ぽつんと佇む建物がひとつ。小屋のようなサイズでありながら神殿のようなデザインをしたそれは、殊更に私の目を引いた。
「……なんだろう? これ……」
そのあまりにも独特な雰囲気に私は先程までの疲れさえも忘れ、好奇心のままにその建物へと近づいていく。
外観を全て白で染められたその建物は近くでもやはり小さく、せいぜい牛二頭が入ればそれで一杯になってしまうだろうサイズだった。
中を覗くと、そこには何も置かれてはおらず、ひどく殺風景であった。ただし、中央には大きく真四角の穴が空いており、覗き込むとそこには階段が存在していた。どうやら、ここから下へと降りていけるらしい。
「…………」
恐ろしく思わなかった訳ではない。好奇心が無かったといえば嘘になる。
しかしそれ以上に、姿を見せない友人がここに居るのではないかという期待が、何よりも大きかった。
彼女が普段どこに住んでいるのか、聞いたことは無かった。精霊というくらいなのだから、森全てが住処なのではないかと漠然と考えていたからだ。
だが、今のような状況になって、ふと思いついたのだ。元々どこか現実感のない存在である精霊なのだ。だとすれば、このような不思議な場所で寝起きしてるのではないだろうか、と。
そんな希望的観測を胸に抱きながらも、私は足を踏み入れた。目の前の暗闇へと向かって。
後ろからの視線には、少しも気付かずに。
***
「わぁ……」
階段を下り終え、目の前に広がった光景に私は驚嘆の声を漏らした。
如何なる技術を用いてるのだろうか。先程の広場では建物と草花以外は何も存在せず、また足元から伝わる感触も確かに草や土のそれであったはずなのに、天井に広がる光景は、それら全てを透過したかのような青空だった。
そのお陰で陽の光は間断なく降り注ぎ、階段の通路のような暗闇を覚悟していた私はほっと一息つく。少なくとも、闇に怯える必要はなさそうだ。
「でも、なんだろう? ここ」
改めて天井以外を見渡してみると、一体なにを目的に作られた場所なのか、私にはまるで検討が付かなかった。
建物と同様白く染められていた室内は、村のどの家の部屋よりも広く思えたが、ほぼ何も残されてはいなかった。棚と見受けられる場所に2,3個透明な容器が置かれ、部屋の中央寄りに長方形のような机が2つ並んでいる。壁や床には様々な道具が置かれていたのだろうか。何かを留めていたかのような穴や、重いものを引きずったような跡は残されていたが、 今はどこにもそれらしきものは無い。
「あれ? あそこ……」
ふと、部屋を見渡す視線が奥の壁で止まる。そこには扉と思わしきものがあり、僅かに開いていた。
人が通るには小さすぎる隙間だが、友人の大きさを考えるとあれくらいでも充分通れる幅だろう。
もしかしたら日常的に利用していて、そのため常にここだけは開けておいているのかも知れない。そう思い、奥の部屋へと踏み込んだ。
「精霊さーん……?」
外と違い、耳が痛くなるほどの静寂に、自然と声が小さくなる。まして他人の住処であるとすれば、勝手に入り込んでいるのだから、悪いことをしている気分だ。恐る恐る、といった様子で私は扉の先に広がる空間を見渡した。
「うーん……?」
そこは先程の部屋よりは奥行きはあるようだが、僅かに横幅が狭くなっており、長方形のような広がり方をしていた。
床には色とりどりの紐のようなものが木の根っこのように散らばり、左右の壁の中へと繋がっているようだ。
その壁にもちょうど扉のような大きさの模様が描かれており、左右にそれぞれ均等な幅と数が揃えられている。いや、実際に扉なのだろうか? 中には対面はただの模様であるにも関わらず、向かい側に位置する壁はまるで模様がそのまま開いたかのように穴を象っている場所もある。
何かあるのだろうかと覗いてみても、そこにはただ積もった埃が座しているだけだった。
「やっぱり、居ないのかな……」
最初の部屋よりも訳が分からない部屋である上に、生き物の気配さえも感じない。
無駄足だったのかも知れないと、徒労感に苛まれた瞬間、地下へ降りてきた階段の方から足音のようなものが聞こえてきた。
「えっ?」
虚を突かれ、思わず声を上げる。
なぜだかこの空間には自分以外に生きているものが存在しないかのような錯覚に、たった今陥ったばかりだった。
それでなくとも、この広場に到着してからというもの、建物の内部どころかその周辺にすら虫一匹見当たらなかったのだ。
では、一体誰が?
「せ……精霊さん……?」
自分でもおかしなことを口走っているというのは分かる。彼女であれば、そもそも足音など立つはずがないのだから。
ただの動物である可能性も低くはない。それなのに、せめて顔見知りであって欲しいと思うくらいには嫌な予感がした。
律儀にも締め直していた扉をゆっくりと開き、隙間から階段を覗き見る。
「――ひっ!!」
そこには、黒い体毛で覆われた獣の体躯に、爬虫類のような顔を持った、今まで見たこともないような生き物が佇んでいた。
前足には暴力そのものを結晶化させたとしか思えない爪を備え、馬のように逞しい後ろ足で全身を支え、直立している。その大きさたるや、優に2mは超えているだろう。
あまりにも常軌を逸したその存在感に、体は強張り、嫌な汗が全身を伝う。
しかし、その硬直も長くは続かなかった。
視線をその生き物の頭部へと移した途端、その真っ赤な眼球もまたこちらを捉えていた事に気づいてしまったからだ。
「――っ!?」
跳ね上がるように扉から顔を離し、大きな音が鳴るのも構わずに扉を思い切り閉じる。
そのまま、少しでも圧力に耐えられるようにと、扉を背にして座り込んだ。
(なにあれ? なにあれ!? なにあれ!!?)
心臓が早鐘を打つ。体は大きく震え出し、訳が分からないままに涙が浮かんできた。
――もしかして、あれが魔獣? 私を襲いに来たの?
ここに来る前から見られていたのだろうか。それともただ偶然ここに来ただけなのだろうか。
例えどちらだろうと既に問題ではなく、現実として魔獣はここに居る。ただそれだけは確かだった。
(お願い、どこかへ行って……お願い……!)
思わず大きな音を立てた事を後悔し、荒い息を無理やり殺して息を潜め、何事もなくここから去ってくれることを願った。
理由はなんでもいい、扉を開けられなかったでも、ただ興味を失ったでも構わない。
とにかく無事にやり過ごさせてくれたら――。
しかし、当然のようにその願いは叶わなかった。
轟音と共に扉が宙を舞い、密着していた私の体ごと部屋の中程まで吹き飛ばされる。
「あうっ! うぐっ!!」
突然の衝撃にただなすがまま転がされ、無防備に床へと叩きつけられた。
一緒に飛ばされた扉の下敷きにならなかったことは不幸中の幸いか。
「うぅ……え?」
軋む体で何とか入り口の方へと顔を向けると、魔獣がのそりと部屋に入り込み、私へと視線を移した。
爬虫類のようなその顔はまるで感情を感じさせないはずなのに、その時の私にはまるで玩具を見つけた子供のように、満面の笑みを浮かべているかのように映った。
魔獣は全身を軽く俯かせ、喉を少し慣らしたと思うと、次の瞬間。
部屋全体を震わせるような音圧で、吠えた。
「ひぐっ! うぅっ!」
あまりの迫力に身を竦め、ただ音が止むのを待つしかなかった。
喜びの声だろうか、或いは威嚇だろうか。いずれにしろ私には、ただ恐怖心を膨らませるだけの行為であり、どちらであろうと変わりはしなかった。
やがて満足したのか、吠えるのをやめ深く息を吸うと、驚くほど静かに私の方へと歩き始めた。
(に、逃げなきゃ……! 痛ぅッ! え!?)
距離を取るため、体を起こそうとしたその瞬間、右腕に鋭い痛みが走る。
目を向けると、右腕の手首は今まで見たことないほどに腫れ上がり、まるで力が入らなかった。
扉と一緒に吹き飛ばされた時に怪我をしてしまったのだろうか。一度気づいてしまうと、どうしようもなく痛み、その場で蹲って泣いてしまった。
「うっ……痛い……痛いよぉ……」
一度も経験したことのないその痛みにただ震えて耐えていると、唐突に日が陰った。
先程まであんなに照っていたはずなのに、どういう事なのだろう。
不思議に思い目を開き、天を仰ぐと――。
「あっ……あぁ……!!」
目と鼻の先に、魔獣の姿があった。
この巨大すぎる体躯が日を遮り、私の体を影がすっぽりと覆っていたのだ。
逆光に照らされたその黒い体毛はより一層影を増し、まるで闇が悪意を持って動き出したかのような光景だった。
「嫌……だ、誰か……!」
思わず口をついて出た、助けを乞う言葉。目の前の化物に通じるはずもなく、また先程自分で確かめたように他に生き物など存在もしない。
その言葉が決して誰にも届かないであろうことは、頭の片隅で理解はしていた。
化物の口が開く。
それでも、死にたくなかった。例え一秒後には命が無くなるのだとしても、この恐怖を受け入れるなんて到底出来なかった。
化物の生臭い呼気が全身に浴びせられる。
ここに来た目的も、今置かれている状況も、自分の名前すらも忘れてしまいそうな程に、ひとつの想いが頭の中を塗りつぶしていく。
――死にたくない!
「誰かぁ!! 助けてぇぇぇッ!!」
ただ消えゆくだけの命が、全身全霊で救いを求めた。
***
瞬間。壁が凄まじい勢いで爆発し、中から飛び出した赤黒い塊が、目の前に居た魔獣に突進したかと思うと、そのまま部屋の奥まで弾き飛ばした。
想定外の攻撃だったのだろうか、魔獣は受け身すら取れず強かに全身を強打し、床に崩れ落ちる。
私がそれを呆然と見ていると、壁から飛び出したその赤黒い塊が、私を守るように魔獣との間に立ち塞がった。
その塊は、よく見ると足はあるようだ。二本の足でしっかりと地面に立ち、また腕も二本存在している。単純に人間と同じ形をしているようだった。
ただ違うのは、全身が角ばっていて、黒い。色さえどうにかすれば、まるで物語の挿絵に出てきた騎士の鎧のようだ、と思った。
背中には、真っ赤な外套が踵の近くまで拵えており、先程塊のように見えたのは、これがもつれていたからなのだろうか、とぼんやり考えた。
その鎧はただ黙って眼前の魔獣を見据えており、決してこちらを振り向くことはなかった。
その理由はすぐに分かった。床に倒れ伏した魔獣は突然跳ね起きると、こちらへ向き直り全身の毛を総毛立たせ、怒りのままに吠えたのだ。
まだ生きていた。その事実に私が怯えた声を漏らすと、目の前の鎧はそれに呼応するかのように一歩前へと踏み出した。
「あっ……!」
危ない! そう思うのも束の間、魔獣は恐ろしい程の跳躍力で一瞬で鎧との距離を詰めた。
そのまま両腕の残虐な爪を振り下ろし、鎧を砕いてしまうのかと考えた次の瞬間。
閃光が二本、魔獣の体を走り、その動きを止めた。
鎧の方はといえば、いつの間にか抜き放っていた鈍く光る銀色の得物をその手に構えており、一度虚空へと振り下ろすと、そのまま腰へと仕舞う。
何が起きたのかまるで分からず混乱していると、突然魔獣が地面へと倒れ伏し、黒い煙となって空気に溶け込むように消えた。
物語で魔獣が死んだ時に、同じ描写が成されていた気がする。となると、今度こそ死んだのだろうか? 一体どうやって?
疑問符しか浮かばない頭で目の前で起きた光景をただ見つめていると、鎧がこちらへ向き直った。
鉄のように黒光りする体。血のように赤い外套。鬼を思わせる角飾り。
そして、ただ覗き穴だけが存在する仮面のような顔。
光に照らされたその外観は、ともすれば先程の魔獣よりも恐ろしいはずであったが、何故かその時の私にはひどく神秘的な姿に映った。
何も言えずにその姿を見つめていると、覗き穴の奥で赤い光が瞬き、驚くほど優しい声で私へと話しかけてきた。
「――無事か? 人の子よ」
きっと私は、この時の情景全てを、一生涯忘れることはないだろう。