忘れえぬ人
アパートに戻ったら、今日はアキコさんも帰っていた。お金を返して事情を話すと。
「なんや。アイツ、昔から気ぃのちっちゃい男やったからなぁ〜」
「お母さん。それは、言い過ぎよ。一つ間違ったら、あのお店、契約を解除されて潰れるもの」
「いろいろ事情もあるのですが、ビザについては何とかしますから」
「ああ、ごめんなぁ〜。そんで、晩ご飯はええで。私が遅い時もあるから、ノブコと一緒に食べたって。あんだけお金もらっとけば、三ヶ月は大丈夫や」
「いえ。あれ一ヶ月分のつもりで」
「ああ、ええから。ええから。あっ、そうや。家具もないんやろ? 倉庫に今までの賃借人が置いていったもんあるから、適当に持ってきぃ。布団はあれでええやろ?」
「何から何までありがとうございます」
机はあるしカーテンもあるし、エアコン、照明はついている。もう十分かなと思って倉庫を見たら、古いが立派な肘掛け椅子があった。
この椅子は、あの机で読書をしたり、書き物をするには好適かもしれない。コンコンと椅子を叩いてみたが、中に人が入れるスペースなどなさそうだ。ちょっと重いが何とか一人で部屋に運び込んだ。ついでに、ハンガー束があったので貰っておくことにした。押し入れにクローゼット風のポール、突っ張り棒、があるので、これで衣服を吊るしておける。
夕食、今夜はラタトゥイユだった、をいただいて部屋に戻った。部屋にはユニットバスだがお風呂は付いてるので、シャワーを浴びて机の前、例の肘掛け椅子に座る。マホガニーだろうか、重厚な感じの椅子で、部屋の雰囲気や他の家具から完全に浮いてはいるが、とても座り心地がいい。椅子に背中を預け、ゆったりしながら、猫さんに話しかけてみた。
「ハイジ?」
「何? ああ、もう人がいないから話していいのか。どうだった初日は?」
「うーーん」
私はビザの経緯を話した。
「まぁ、そうよね。僕が付いてきた意味があったってことだよね。分かったよ、明日、朝にはなんとかしておいてあげる」
「ありがと」
私は拍子抜けな顔をしていたのだろう。猫さんが続けた。
「何? 伏してお願いしなさいとか、僕が言うと思ったの? 口は悪いかもだけど、意地悪じゃない。そこ、誤解しないでくれるかな?」
「うん。頼りにしてわ、ハイジ」
すると翌朝。
「おはようございます! 宅配便です。天ゾンさんからお届け物です!」
「え? ハイジ、すごい!」
「ああ、当然よ。僕、プライム会員だから。昨晩、蜘蛛の糸で依頼したから翌日配送。就労ビザ、もちろん偽造だけど、人には絶対バレないと思う。ついでに銀行通帳とカードも送ってもらったから。これは、本物」
「銀行?」
「もう、だからぁ〜。ポンコツ! 給与振り込み口座が必要でしょ? ま、一つずつ、人界のこと覚えて行ってね」
毒舌には違いないが、昨夜からハイジの口調が穏やかになってきた気がするのだが。ビザを見てみると、エーデルランド公国とある。ちゃんと、Iris Sakuraha、と私の名前? え? 大丈夫なの??
「ああ、絶対バレないと言ったのは、天界からちょっとした心理操作が入ってるから。周りの人は、その国は当然あると信じさせられているってわけ。『外国人雇用サービスセンター』に問い合わせたりしない。仮に問い合わせてもセンターの職員は正式なビザです! って答えるから」
「げ!!! それ、催眠術? 洗脳っぽい?」
「まぁ、天界からできることにも限りはあるけど、人類に何らかの損害を与えない程度のことで、可能な協力は惜しまないってこと」
その日の午後、再び、アルバイト先「Big Burgers」に行ったらあっさり採用が決まった。でも、制服の手配があるから勤務は火曜日からにしてくれと言われた。ホッとした。ケンジさんによると、週末は忙しいらしく出社してほしいらしいが、ノブコと休みを合わせたいと考え、土曜と水曜休みのローテーションを、お願いすることにした。
その夕刻。今日はアキコさんの帰宅が遅いのでノブコと二人で夕食を食べていた。
「バイト先、決まってよかったね」
「ありがとう」
「あのねぇ〜 何も言わないと、約束した。うん、あれは『誓い』のようなものだから、追求はしない。でも、リヒテンシュタインじゃない、エーデルランド公国なんて、どう地図を調べても存在しない。それに、桜葉って私が考えたお名前のはず。誰も、この明白な矛盾を不思議に思わないといのは変、かな?」
「う、うん」
「ごめん。イリス。皮肉じゃないの。でも、なんだろ、貴女をもっと知りたい。でも、知りすぎることは、何か破滅というか、貴女との友情を壊す予感がする」
「私が、機を織る姿は決して覗かないで!」
「うん。そんな感じ」
「私も貴女に言えない何かを抱えているのは認めるわ。でも、そのことと、貴女への友誼は別」
「ありがとう。今夜はこれくらいで」
「おやすみ」