日本海岸
え? なんで飛んで降りないのか? だって? 私は人界行くため人に「近い」姿になっているわ。羽を使えないってこと。なくなった訳ではないけれど、人の目では見えない状態だと思う。多分。飛んでいけないのなら、天界と人界を繋ぐものは昔から階段って決まってるじゃない?
私は風のそよぎを聞きながら、階段を一歩、また、一歩と降りて行った。上から見ると水色をした透明な螺旋階段が虚空に浮いているだけだ。階段は透明だが下から見上げることはできない、と思う。誰かに下から覗かれるのではないか? と少々不安になって思わずスカートを押さえたけれど、多分、それは、杞憂だったと思う。
天界でも、人界の勉強はしていたわ。私、結構、「できた」方なんだから。物理学でいうところの、時間や空間といった概念が天界と人界では大きく違うという点は理解しているつもりだ。だから、この階段に人界でいう「距離」という考え方は全く当てはまらない。上から数えて百八段降りたら私は「地上」に降り立っていた。
見上げると降りてきた階段は既になく、真っ青な空というものが見えるだけ。それは、今の姿では天使の羽を使えない私が、天界へ戻る手段を喪失したということも意味する。漠たる不安と未知なる冒険への期待を抱えて周りを見渡す。
青いロケット、人が天界を目指そうなどと不遜な考えをもって作った無粋な乗り物、を模した遊具ということだろう。その他、滑り台、ブランコ、鉄棒なども見える。ああ、知ってるわ! ここは子供の遊び場、公園というとことらしい。ぐるりと緑色のフェンスに囲まれた公園は、この国、日本では最もポピューラーな木、ソメイヨシノだろう。桜の木が十本ほど植っていた。桜はすでに花期を過ぎ、緑の若葉が風に揺れていた。
アレ? 妙な臭いが漂ってくる。
「何かしら?」
「えっ! 海を知らないって? 『物理学』を良くご存知のおバカさん?」
アーデルハイドは人界では、ぬいぐるみとして振る舞うことになっている。今は周りに誰もいないので、話しかけやということだろう。だが、失礼極まる物言いだ。
「ちょっと。口の利き方には注意してくれるかしら? 私はあなたと契約したマスターなのよ。第一『匂い』という概念は文字では伝えにくいもの。私は海を知らなかったのではなく『海の匂い』を経験していなかっただけ」
「ええぇ。口の利き方とはどういう意味かなぁ? 僕はただ正直だけ。でも、貴女の頭が多少は論理的であるってことは認めてあげてもいいけど」
「口が減らないわねぇ」
「ねぇ。マイ・マスター様。ひとつ忠言があるのだけれど。衷心より」
「もう」
「貴女の『名前』を考えておいてはどうかな?」
ああ、そうか!! もちろん、私に名前はあるわ。「♪♪★☆*♪……」。人の声帯で天界の言葉を発音することは不可能ということだ。人にも分かる適当なニックネームが必要だろう。振り返ると雨上がりなのだろう、夕暮れの空に虹がかかっている。
「イリス。で、どうかしら?」
「ギリシャ神話かな。そいうのは、勉強してるってわけ? この日本という国の人からすれば、貴女は外国人に見えるはずだし。いいんじゃない」
人に天使であることがバレてしまったとしても特にペナルティがある訳ではない。どのみち、人から見て不審人物と思われるのを避けることはできないわけだし。神は人の心さえ操る能力を有しているが、人への過干渉は厳に戒められている。非常事態を除き、人の意識を操作するようなことはしない。自分から「私は天使です」などと言うことは別の問題を孕むだろうが「もしかしたら人外?」程度は許容されている。
すなわち、天界のルールには優先順位があるということだ。例えば「天使は嘘をついてはならない」というルールがある。しかし、真実を述べることの方が人への悪影響が高いと判断されるなら「天使は人に過剰に干渉してはならない」というルールが優先する。要はバランスを考えて行動せよということに尽きる。このバランスというものはとても曖昧で難しいとも言えるが、それは私に与えられた「課題」なのだろう。
「さて。今夜はどうしようかしら? 質屋さんを探さないと」
人界でいうところのお金を天界の者が持ち帰ることは禁じられている。人類の経済への干渉をできるだけ避けるためだ。だが、それでは、天界から人界に降り立つ者が、困窮してしまう。「人類最古のビジネス」。今風には「エンコー」と言うらしい。なら元手はかからないかもしれないが、当然ながら天界の倫理規約に反する。ということで、若干の宝石類なら持ち込むことが許されている。
慣れない街で質屋を探し回ったが、なかなか見つからなかった。次第に日が暮れてきた。今は春という季節が少し過ぎたくらいで日差しがあるうちは暖かかったが、再び雲行きが怪しくなり肌寒さを感じるようになってきた。私のワンピの生地かなり薄い。常春の天界にいたときの衣服がそのままだった。ポツリ、ポツリと雨も落ちてきた。そういえばコレも初めて経験する。空腹感というものだろう、も襲ってきた。