五話 盗人
ぼんやりと視界が戻ってきた。白い天井、明るすぎるライト。
まだ頭がはっきりせず、身体の感覚も無い。今、何時だろう。
マスクをした眼鏡の医師が視界に入った。カチャカチャという金属が合わさる音がわずかに聞こえる。ああ、終わったのか――。
予定よりはやく麻酔から覚めてしまったのかもしれない、何をしているのかはわからないが、股の方にまだ医師はいる。
「終わったんですか。」と、声をかけようとして口を開いたが、出てくるのは喃語のようなものばかりで、思うように喋れない。そんなあたしの様子に気付き、医師がこちらに顔を向けた。聞き取れなかったが、あたしの頭の方から現れた看護婦に何やら指示をしたようだ、点滴袋に手がかかる。
とたん、彼女の後ろの白い壁が、ぐにゃりと歪んだ。麻酔の影響だろうか、初めての感覚だ。
考えることをやめ、ぼんやりとそれを眺めていたら、歪んだ壁は次第に波打つように揺れ、その揺れもどんどん大きく変わっていった。不思議な光景に、こんな状況にも関わらず目を奪われる。
次の瞬間、波打つ壁から真っ黒な太い枝のようなものが一本、矢のように飛び出した。思わず目をひんむく。幻でも見ているのだろうか、看護婦はそれに気付かない。それは、壁からずるりと姿を現した。
太い枝のように見えたのは、黒い短毛に覆われた異様に長い腕であった。頭は、なんと牡牛だ。体は風船のようにぶよぶよに肥えてはいるが人間のものであるため、頭部は被り物なのかと思われたが、黄色い目玉がぎょろりと動いたため、あたしはそれが被り物でないことを悟った。
これは、麻酔が見せる幻覚なのだろうか、
そいつは、上半身を不安定に左右に振りながら二、三歩こちらへ近付くと、点滴に手をかけていた看護婦の腕を背後から掴んだ。
看護婦が驚く間も与えず、腕が上へと捻り上げられ、彼女の体が宙に浮く。そいつが今度は腕を勢いよく振り下ろすと、掴まれている彼女は人形のようにかたい床に叩きつけられた。それこそ棒を折ったような、嫌な音がした。
頭の処理が追い付かず、悲鳴をあげようにも上手く声もだせない。
怪物だ、麻酔が見せる幻覚ではない、あまりに生々しい。
床に突っ伏した形で痙攣している看護婦の脇にその怪物はしゃがみこむと、床と腹の間に手を差し入れ、ごろりと仰向けに転がした。
彼女の下腹部あたりに手を置くと、力任せに爪をたてた。スプラッタ映画でしか見ないような内臓の露出に、目を覆いたくなる。
既に絶命したと思われる彼女の裂けた腹に、怪物は顔を埋めた。麺をすするような音が響く。
この一連の出来事に、男性医師は唖然とした後、突然弾かれたように隣の部屋へ続く扉へ突進していった。無理もない、あたしだって、体が動くなら今頃、逃げおおせているだろう。
麻酔が中途半端に効いているこの状況を、ひどく憎んだ。よりによって、意識だけ戻るなんて、神はよほどの鬼畜だ。
次に何が起きるかわからず目をそらすことも恐ろしくて、薄目で事を見届けることにした。
次はあたしだろうか――。
ここ数日で、何度も死のう死のうと自ら命をたつことを考えたにもかかわらず、今のあたしはこの状況からの助けを求めている。生きたいわけではないが、できることなら、恐怖を感じずに死にたい。どうせやられるなら、今床で内臓を撒き散らしている彼女のように、理解する間もなく殺されたい。
怪物は口まわりにべっとり付着した血液と衣類の端を長い舌で舐めとりながら、ゆっくりと立ち上がった。
黄色い目を動かし、辺りを見回す怪物。なぜか、横たわるあたしに目もくれずにラックに置かれた銀のトレーに向かって歩き出す。
これもかなり不思議なことなのだが、直感で、あたしはそのトレーの中にあるのは「我が子」だと思った。
ざわりと鳥肌がたつ。
怪物はトレーを手に取ると、顔の高さまで持ち上げて、開いた口に中身が滑り落ちるように傾けた。
一瞬、赤黒いものが見えてしまった。
口へ落ちたものを、まるでガムでも噛むように音をたてて咀嚼し、飲み込む。
あたしは、頭に血がのぼるのを感じた。
体は未だ動かぬが、奥歯を噛み締めることはできた。
急に怪物は、肩を震わせながら
「これだこれだこれだこれだ!」
と高い声をあげた。まさか喋れるとは。容姿とのギャップにより不気味さが増した。
興奮した様子で、頭を前後に振りだす。
あたしは体に動けと念じ、力を込めようとするも、やはり自由がきかない。
まだ妊娠八週目であったため、目の前の怪物に食われずとも「我が子」が廃棄物として処理されることはわかっていたが、想像していなかった結末に、怒りで体が熱くなる。返せ、返せと心が全力で叫ぶ。
サイレンの音が、遠くで聞こえる。先ほど逃げ出した男性医師が、通報したのだろう。怪物もそのサイレンを耳にして、上半身をぎこちなく揺らしながら、自身が出てきた壁へと向かった。逃げる気だ。
壁は、まだ水面のように揺らめいている。
「待て!」と叫ぶが、掠れた声しかでなかった。
そして怪物は、あたしを無視したまま壁の中へ体を沈めていった。
サイレンが近付いてくる。先ほどより麻酔の効果が薄れて、手が動いた。左腕に刺さった点滴針を、力任せに引っ張り、抜いた。転がるようにして、台から床へ落ちた。ハイハイをする赤子のように床を這い、ただ執念だけで、まだ微かに揺れる壁へあたしは身を投じた。
やっと異世界いけましたよ
雪かきで疲労困憊してるので、さてねます