一話 苦悩のはじまり
妊娠検査薬へかけた尿はみるみる吸い上げられ、判定小窓に縦の線をはっきりと浮かび上がらせた。
あたしは、それから目を離せずにいる。
額や脇に、じんわりと汗がにじむのがわかる。室内の暑さのせいではない。
判定後の妊娠検査薬を手にしたまま、トイレのドアに背中を預けてしゃがみこんだ。どうする、どうする。どうしたら――。
十七歳、女子高生の予期せぬ妊娠。よく質問サイトで「どうしたらいいですか。」といったたぐいの質問を見かけていたが、まさか、自分がその当事者になるとは思ってもみなかった。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
昨日から、眠れていない。つわりのような症状に気がついてから五日が経ち、妊娠を確信したのが昨日の事。眠れるわけがなかった。あたしの体調は日を追うごとに悪くなっていく。今日など、吐き気が途切れることなく続き、嘔吐を繰り返している。そのため喉がちりちりと痛む。胃もひどく痛むが、これはストレス性だろうか。
枕元のスマホが震えた。
横たわったまま手に取ったスマホのポップアップに表示されたのは、クラスメイトからのメッセージ。
《駅前のたこ焼き屋行かない?》
あたしがつわりに苦しんでいるなんて知るよしもない、陽気な内容だ。
《ごめん、なんか体調わるくて。風邪かも。》
そう返信した。
体調が悪いのは、嘘ではない。
《まじか。夏風邪はやっかいだよね。よくなったら教えてよ!》
《ありがとう。ゆっくり寝るよ。》
たとえ体調が良かったとしても、今この状況でのんきに遊びに行こうと思える人はいないだろう。
幸い、夏休み期間中のため自宅で療養できているが、新学期が始まったらどうしようか。この体調で登校するなんて、絶対に無理だ。つわりは安定期にはいれば和らぐらしいが、妊娠を継続させるなら、退学処分だろうな――。
そんなこと考えている間に、自然とスマホの画面が暗転していた。
両の手で顔を覆って目を閉じる。
やるべきこと、考えなくてはいけないことが今、山積している。ひとつずつ、整理して解決していかなければ。
まずは、母に相談しよう。未成年であるかぎり、保護者に頼らざる得ない場面が必ずでてくる。
今日、母は仕事が休みだ。リビングにいる。
言うか?いや、お腹の子の父親にまずは言うべきか?ああ、胃が痛む――。
決心するまでかなり時間を要したが、ついに自室のドアノブに手をかけた。
よし、頑張れあたし。親になるならこれぐらいの修羅場、乗り越えられないでどうする。
深く息を吸い込んだ。母の前では、あくまで淡々と、事実と自分の意思を伝えよう。
母はリビングのソファで、マグカップを片手にテレビを観ていた。行方不明事件の特番が流れている。
ひっつめ髪に、前髪をヘアピンで留めている様子からして、今日はもう外には出ない気なのだろう。
あたしに気づいた母が、こちらに視線を移し、口を開いた。
「おはよう、お腹すいたでしょう。食パン焼こうか。」
「いや、大丈夫。昨日からお腹下しててさ。ヨーグルトでも食べようかな。」
へらりと笑って見せて、冷蔵庫の方へそそくさと向かった。
言い出すタイミングって、難しい――。
冷蔵庫の扉には、母の仕事のシフト表が貼られている。今日の次、休みはいつだろうか。表の字が細かく見づらいため、母の名前を探すのに少し手間取った。
次の休みは、五日後か。
こういった話ははやくにしたほうがいいことぐらいわかっている。妊娠何週目にあたるのかわからないが、腹の中では今も細胞分裂が猛スピードで繰り返されているはずだ。未成年で養ってもらっている身として、一刻も早く報告する必要がある。五日後まで先送りには、するべきでない。
くるりと母へ向きなおって問いかけた。
「お母さん。あのさ…今、話していい?」
「どうしたの?」
この感覚、検査薬を試した昨日も味わった。緊張し、身体がこわばって、喉がきゅっと締まる感覚――。
「あの、何て言うか、その…。」
こちらに顔を向けた母は、怪訝な表情で首をかしげた。
「何、何か言いにくいこと?生理で寝具でも汚しちゃった?」
「違う、違うよ。そんなことじゃない。…昨日、わかったんだけど…。」
なかなか言えない。うまく声すら出せない。あたしは黙りこんでしまった。「あたし妊娠してます、産みたいと思ってます。」それだけが言えればいいのに、それが言えない。
沈黙を破ったのは母の方だった。
「…何、もしかして妊娠でもしちゃった?」
冗談半分、といったニュアンスであるが、親の勘というべきか、なんというか、とにかく察しがついたのだろう。
返す言葉が出てこず、ただひきつった笑いをあたしは浮かべた。
母の表情がこわばる。
「瑠奈…。いつから生理きてないの。」
「あ…。えっと。」
母の顔を見ることができない。視線を下げて考え込む。
今日は八月十日。最後に生理がきたのは六月の二十五日。次の生理は七月下旬の予定だった。
「予定日から一週間以上きてない…。」
母は以外にも落ち着いた口調で言った。
「そう。次の私の休みで、病院で診てもらいましょう。」
母が続ける。
「まだ堕胎できる週数か、確認してもらわないと。」
「え…ちょっと待ってよ!なんで堕ろす前提なの!」
思わず声を荒らげた。
「産むなんて選択肢、無いでしょう。そもそも相手は?相手は何て言っているの?」
腹の子の父親は、あたしが去年から付き合っている九つ歳上の志摩さんだ。
「志摩さん…だよ。」
母の顔が一層険しくなった。
「だからろくでもない社会人となんて付き合ってほしくなかったのよ。学生は学生らしく、学生同士で健全に付き合っていればこうはならなかったのに…!」
憤りを隠せないのか、声が震えている。
以前、車で送ってくれた志摩さんと、帰宅する母とが自宅前で鉢合わせしたことがあった。その際、母は面白い顔をしなかった。もっと、年の近い男の子と付き合いなさいとも言われた。なぜそのような反応なのか、あたしには理解できなかった。
「…瑠奈、病院には絶対に連れていくわ。新学期が始まる前に、できるだけ早くに処置してもらうの。そうすれば、体の負担も少なくてすむ。」
処置という言葉が生々しくて、これが現実なのだと改めて実感させられ、情けなさやらなにやらの気持ちが溢れた。同時、涙も溢れた。
「でも、でも…。あたし産みたい…。」
絞り出すような言葉しか、出ない。
母は、手に持っていたマグカップを音をたててローテーブルに置き、すっくと立ち上がった。
「あなたの気持ちはね、関係ないの。」
そう言い残して、リビングから繋がる自室へと母は向かう。扉の向こうに姿が消える時には、嗚咽をこられることができなくなっていた。
反対されることはもちろんわかりきっていたが、こんなにもばっさりと切り捨てられるとは思ってもいなかった。
今は冷静になれず、感情がぐしゃぐしゃだ。 自分の行いが招いた現状にも関わらず無責任な思いだが、どうか、母には受け止めてほしかったのだ。味方になってほしいわけではない、ただあたしの話を聞いて、その上で論されたかった。
二人で暮らすこの狭い家では、否応なしに顔を合わせることになる。普段通りに接するなんて、とてもお互いにできそうもない。この居心地最悪の場所から、一刻も早くて逃げ出したい――。
スマホを手に取り、志摩さんへ電話をかける。
仕事中なのか、呼び出し音が続いた。
とりあえずメッセージを送信する。
《今日、会えますか。話があります。》
鼻水が垂れそうになり、慌ててティッシュでおさえた。
そして、いつも通学に使っているリュックサックに、財布や着替えをぐいぐいと詰め、ぱんぱんに膨れたそれを背負いあげた。
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