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五話 その旗の名は

「スパイ、ですか?」


 朝早く軍基地のエドワードの部屋に呼び出された深見は、彼の口から信じられない言葉を耳にした。白鯨こと白岡京也がアメリカ軍のスパイであると。


「そうなるね」


 堅そうな椅子に座ったエドワードが、安物の紅茶を飲みながら眉一つ動かさずに肯定した。


「待って下さい、少尉はこの札幌支部の切り札です! その彼が、アメリカ側の人間ということはあり得ません!」


 エドワードのデスクを叩きつけ、曹長は感情を露にして怒鳴った。


「落ち着けって曹長、まだ疑惑ってだけだ。大体少尉が敵兵の名前を知っていたって言って来たのは君じゃないか。それにMPIMを構えた敵兵のロックオンは驚くほど正確だった。そうまるで、こっちの位置を知っているかのようにね。違うかい?」

「……違いません。少尉はうなされながら桜井という人間の名前を口にしていましたが……」



 京也が医務室で何度も口にした桜井という名前。

 そんな人物はこのEU軍札幌支部にはいなかった。宇都宮でその名前の軍人がいたが、その人物は四年前に戦死しており、三年前に入隊した京也とはまともな接点すらない。


「そんな人物はここにはいない。いたことも無い。だったら残るはアメリカ軍、ってね。お友達の名前ってことはないのか?」


 京也がスパイという疑惑はそれだけで悩みの種になったし、実際にそうだとはエドワードも信じたくなかった。だから彼は有り得ない選択肢を深見に提示した。


「少佐、我々にそんなものを作る暇があるとでも?」

「おーこわいこわい、そんな顔してるとすぐに家の婆さんみたいな顔になるぞ」

「放っておいて下さい」


 上司の趣味の悪い冗談を、彼女が無愛想な態度では跳ね返す。


「人生経験豊富な中年からの忠告だよ。それじゃあ曹長、彼の監視を頼むよ」

「はい」


 気乗りしない表情で部屋を後にする深見を見送りながら、エドワードはまだ温かい紅茶に口をつける。


「夢の記憶を手に入れた? まさか、あれはもう……」


 深見には提示しなかった、最悪の選択肢。

 

 それを可能にしうる物があったという事は彼は知っていたが、その可能性は京也がスパイである可能性よりもゼロに近い物であることも知っていた。


「頼むよ少尉、君はウチのエースなんだから」


 カップに注がれた紅茶を飲みほし、エドワードは誰もいない部屋で一人呟いた。




 いつも通りの時刻に目を覚ました京也は、軍基地につくと深見が待っているだろう作戦室に寄らず資料室に足を延ばしていた。

 

 ギルベルト、という人物が昨日から頭を離れず、すがるような気持でEU軍の名簿を確認していた。


 真っ黒なクレジットカードを持っていたことから、彼の生活は裕福であることが既に分かっていた。そんな高給取りが居るとすれば少佐以上の人間になる。階級別に並べられた分厚い名簿を捲りながら、ファーストネームがGで始まる欄を注意深く見てみたが、ギルベルトという名前は有りもしなかった。


「そう簡単には見つからないか」


 独り言を口にしながら、京也は重たい本の表紙を閉じ、元の棚に戻した。

 丸まった背筋を伸ばし、肩をほぐす。


 朝から似合わない事をしたものだと自嘲しながら、彼は資料室を後にした。


 作戦室に向かうその途中で、浮かない顔をした深見に出会った。


「少尉、もう体は大丈夫ですか?」


 顔をあげ、彼女が心配そうに京也の顔を見上げた。


「元から体は大丈夫だったさ」

「そんな事を言えるぐらいには回復したんですね」


 深見は優しい笑顔で彼の回復を心から喜ぶ。いつも通りの彼の姿は、自分の喉に引っかかった小さく重要な事を吹き飛ばしてくれそうだった。


「君には恥ずかしいところを見られたからな」

「だから君の恥ずかしいところも見せてくれないか? 今夜僕のベッドで」


 いつの間にか背後にいた少佐が朝っぱらから女性から苦情の来そうな決めゼリフを口にする。


「うわっ!?」


 京也は突然の闖入者に冷静に対応できず、口から間抜けな声を漏らした。


「少佐、その下らない冗談を延々と垂れ流す口にいつの日かM9を突きつけられる日を私は楽しみに待っています」


 額に青筋を浮かべ、深見が大きく口を歪ませて少佐に言い放つ。京也の予想通り、数少ないこの軍隊の女性兵士から早速脅し文句にも似た苦情が飛んできた。


「おお怖い。少尉この国じゃ『年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ』と言うがそんな事はない。やっぱり年下だろ年下、若いってのはいいぞーっ」

「少佐、それを言うなら『一歳年上の女房は』です。残念ながら曹長と自分はそこまで近くありませんよ」


 落ち着きを取り戻した京也は今度こそ冷静にまじめな顔で少佐の言葉を訂正した。深見の年齢は現在二十五歳で、本来高校二年生である京也とは八歳も離れている。


「……」


 彼の言葉をはっきりと聞いた深見は、その場に硬直して一瞬息をすることさえ忘れてしまった。彼の口から懇切丁寧に訂正されることで、自分の今の年齢をはっきりと自覚してしまったからだ。世間的には若い部類には入るが、京也と釣り合うには離れ過ぎている。


「深見曹長?」


 急に言葉を失った深見に、京也は心配そうに彼女の名前を呼んだ。


「いいんです、私はどうせ……」


 そう答える彼女の眼は生気を失い、重い足取りで作戦室に向かって歩き出していった。


「俺は何かまずい事でもいいましたか?」


 遠ざかる曹長を横目で見ながら、京也はエドワードに助言を求めた。


「少尉が結婚する日は遠いな……それより少尉、聞いてくれ。いい知らせだ」


 大きな溜め息と一言だけの感想を漏らしたエドワードは、場を仕切り直して連絡すべき事柄を伝えることにした。


「いい知らせ、ですか」

「アメリカ軍の禁止武器の使用のペナルティとして、国連側の制裁が決まった……ってどうした、顔色悪いぞ?」


 禁止武器、という言葉が反射的に桜井の死に様を連想させた。首と胴体が離れた真っ赤なその光景を鮮明に思い出してしまった京也は、再び自責の念に駆られていった。


 呼吸が荒くなり、息が苦しくなる。自分がした事の重さを痛感する。


「何でもありません、続けてください」


 肩で大きく息をしながら、彼は苦し紛れにエドワードに告げた。


「無理はするなよ。話の続きだが、制裁の内容は五日間戦闘に参加できる人数が二十人に制限されることになった。嬉しいだろ?」

「それなら今日は早速札幌駅の攻略を?」


 エドワードの言葉を整理して、簡単に自分の意見を述べる。それ以上言葉を続けることは今の彼には難しかった。


「早まるなよ。それぐらいの事は向こうだって簡単に思いつく。だから今日は駅前で待ち伏せして敵の数をできるだけ減らす。向こうは焦って最高の人員を今日の戦闘に裂く事だろうから、まずはその精鋭たちを倒してから本丸の札幌駅を攻略する」


 目の前のエドワードが何を言っているのか、彼ははっきりと理解できなかった。

 代わりに何度も桜井の事を思い出す。

 自分がこの手で命を奪った、優しい同級生の事を。


「おい、大丈夫か?」


 過呼吸になっていた京也の肩を、エドワードが軽く叩く。そのおかげで彼は少しだけ落ち着きを取り戻し、呼吸を整え上司の顔を見た。


「すみません、気を遣って頂いて」


 いつもと変わらないエドワードの顔が、彼の心を軽くした。信頼できる人間がただそこにいるという事だけで、彼の心は少なからず軽くなった。


「上司にできる事なんて、部下の心配と尻を拭いてやることぐらいさ。無理はするなよ、期待してるんだからな」


 両手を広げて彼は笑う。

 十七歳の少年を敵国のスパイとして疑う自分に嫌悪感を抱きながら。


 去っていくエドワードを見送り、彼はその場の壁に身を預けた。一気に緊張の糸がほぐれたせいで、全身に力が入らない。彼はすぐに作戦室に戻らず、その場で少し体を休める事にした。


「大丈夫ですか?」


 壁に寄りかかり丸まった京也の背中を、誰かが擦ってくれた。


「ありがとう、君は?」


 彼は重い腰を上げ、後ろを振り返った。

 そこに立っていたのは長く茶色い髪を後ろで縛りポニーテールにした同じぐらいの年齢の女性だった。廊下でうなだれていたのがあの白岡京也だと気づいた彼女は、一瞬目を見開き直ぐに彼に何度も頭を下げた。


「すいません、少尉とは知らず失礼なことを!」

「助かったよ。それと、そんなに他人行儀にしなくてもいいんじゃないか? 年齢だって近そうだし」


 彼女の礼儀正しさと謙虚さはその挙動からよく見てとれたが、彼にしてみればそれは度を過ぎて卑屈な物に見えた。


「そ、そうですか?」

「俺は白岡京也。変なあだ名も付いてるけど、好きに呼んでくれ」


 京也は背筋を伸ばし、彼女に右手を差し出した。


「私、奈々方ユウキって言います! この札幌基地で通信兵をしていて、皆はユウキって呼んでます! 私、少尉にご挨拶できて光栄です!」


 差し出された彼の手を両手でしっかりと掴み、彼女は目を輝かせた。まるで、憧れの芸能人に偶然街で出会ったファンのように、彼に向かって憧れと尊敬の眼差しを向けた。


「よろしく奈々方。それじゃあ俺はこれから作戦室に行ってくるよ」


 しっかりと掴まれた両手を何とか離し、京也は以後の予定を簡単に知らせた。


「はい、行ってらっしゃいませ!」


 奈々方は元気のいい声でそう言いながら、深々と彼にお辞儀をした。


「……そう言われるとは思わなかったな」


 まるで目の前に英雄がいるかのように、彼女が頭を下げている。

 彼にはそれが悲しかった。


 ここにいるのはただの人殺しだと、教えたかった。




 予想通り、と言うべきだろうか。

 今日の敵兵の動きは素人のそれではなかった。熟練した動きと戦略にEU軍は苦戦を強いられていた。火曜日に激しい戦闘が行われた駅前の広場では、その時よりも熾烈な戦いが繰り広げられていた。


「殺さない、もう誰も……」


 誰に言うわけでもなく、京也は呟く。


 遮蔽物に隠れる敵兵の頭に合わせていた標準を、彼の腕にずらす。右腕さえ奪ってしまえば、まともな戦闘は不可能だ。


 殺さない、もう誰も。


 自分に誓う。桜井に誓う。田上に、奪って来た命に誓う。

 あんな思いを、今日自分が感じた最悪の気分を、誰かに感じて欲しくない。


 他でもない自分自身に誓ったそれを抱きながら、彼はL96の引き金を絞る。

 旧百貨店の七階から真っ直ぐな軌道で発射された銃弾が、M4を構える敵兵の右手の肘を射抜く。吹き飛ばされた右腕は関節から真っ赤な血を流しながら宙を舞う。撃たれた兵士は激痛に叫び声を上げながらも、その場にしっかりと立っていた。


 良かった、死んではいない。


 片腕が捥ぎ取られた男をスコープ越しに見ていた京也は、安心して溜め息を漏らす。


 誰も死んではいない。誰も悲しまない。


 それから彼は、次々と敵兵の腕や足を奪っていった。

 殺してはいない、まだ生きている、と免罪符を自分に突きつけながら。それだけで彼の心は救われた。


「曹長、そちらの様子は?」


 五人ほどの戦力を奪った京也は、通信機のボタンを押し深見に呼びかけた。


『二人負傷しましたが、こちらが優勢です』


 目に見える戦力を排除したおかげで、EU軍は戦闘開始時よりも状況が良くなっていた。もともと戦力も兵の質でも上回っていたこともあり、今回の戦闘は楽に勝てそうだった。


「了解した、引き続き戦闘を続行しろ」


 楽に勝てる、と一瞬でも思った自分に叱咤した京也が、もう一度L96を構え直し敵兵に銃弾を撃ち込んでいく。

 呼吸止め狙いを合わせ、走っている敵兵の足を吹き飛ばす。


 突然足を捥ぎ取られた彼がその場に転がる。


左足を失い動けなくなった彼を、EU軍の歩兵の銃弾が襲った。

全身から血が吹き出し、一面に血が広がる。先程まであった彼の命が、いとも簡単に失われた。




俺が殺した訳じゃない。俺は殺してない。だから俺は悪くない。




手元を震わせながら、京也は次の敵に狙いを定めた。

 味方に銃口を向ける敵兵の右腕と左足を、スナイパーライフルを連射して吹き飛ばす。

その場に倒れこんだ敵に味方が駆け寄り、持っている小銃を付きつけた。


その瞬間、爆発音が広場を包んだ。敵兵は左手だけで手持ちの手榴弾を全て同時に起爆させ、EU軍の兵士もろとも吹き飛んだ。


「あ……」


 言葉を失う。


殺した。


今度こそ殺してしまった。大切な味方の命を巻き添えにして。




 違う、殺してはない。



 彼は自らの命を自分で奪った。自分の意志で、憎むべき敵兵の命を道連れにして。


 全身から力が抜け、京也はその場で膝をついて泣いた。


 偽善だった。


独善だった。


 自分が犯したその失態は、結果として二人の命を奪った。

 

 殺した。俺が、二人の人間を。




 違う、間違ってはいない。

 誰も殺していない。




 自分がここでした事は、誰にとっても最良の過程だった。


 ただ、結果が無慈悲で残酷なだけだった。俺は悪くない、何一つ悪い事はしていない。だって俺は、人を殺そうとしなかったのだから。


 ならどうして涙を流す? 


 二つの眼から流れる透明な液体はどうして止まらない?


 知っているからだ。

 どれだけ自分に言い訳しても、結局自分は人殺しだという事を。

 いくら綺麗事を並べても、自分の両手は真っ赤な血で染まっている事を。


『少尉、味方がやら……』


 状況を知らせる深見の声が、突然途切れる。

音がした。道路を掻きわけ、何かが進んでくる音が。


『あれは……戦車!? それにあの旗は……』


 深見の冷静さを失った声が無線機から聞こえてくる。


『北五条通りを東に移動しています! 確認できますか!?』


 京也は泣きながら顔を上げ、北五条通りに目を向けた。

 涙のせいで良く見えなかったが、緑色の鉄の塊が確かにそこにあった。


『止めてください! こんな事が……何になるんですか!』


 拡声器によって広げられた声が戦場に響き渡る。


 戦争の無意味さを説く聖人の言葉が、その場にいる誰の耳にも届く。

 緑色の鉄の塊は、真っ直ぐに道を進んでいく。


 真っ赤な日章旗を掲げながら。

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