二話 彼女
目覚まし時計の喧しい音が、部屋の中に響く。
彼は布団から起き上がり、枕元に置かれた見慣れた時計の他に新しい形の時計が置かれている事に気が付いた。そしてすぐに二つの時計のアラームを十分間先延ばしにし、二度寝をした。
十分後、ようやく目を覚ました彼は改めて見慣れない子供っぽい目覚まし時計を眺めた。
白い色なのは嬉しいが、どうせなら鯨の形を選んでくれれば、と思った。
床に投げ捨てられた学生服を足で除けながら、彼はクローゼットの扉を開け、その奥に巧妙に隠されたもう一つの扉を開けた。中には彼の軍服と、銃器一式が掛けられていた。
寝巻を脱ぎ棄て、都市型迷彩が施されたカーゴパンツと黒一色の下着に着替えた。それからスナイパーライフルをケースから取り出し、分解して簡単に動作のチェックを行う。
手入れは出来れば毎日やりたいが、一日置きにしか出来ないこと自体に文句は言えない。それが、この限定された戦争のルールだからだ。
ルール。
この戦争には細かいルールは多くあるが、一番の大きな点はやはり市民全員が『夢』を見ることだろう。得難い平和な時間を、当たり前のように享受できる素敵な『夢』。だけど彼らはそれが夢だと気づかないし、今起きている兵士たちも夢の中身を思い出せない。
記憶の改竄も、その一貫だった。夢を見ている間、誰もが戦争は自分たちの街の外で起きていると勘違いしている。一週間は四日しか無いという寝言を信じている。それがこの戦争を円滑に行うために必要だった。
戦争。
EUとアメリカは、世界の覇権をかけて争っているが、自分たちの国土は焼きたくなかった。また未来ある若者を、戦地に赴かせるなどと世論は許さなかった。だから、この国が提供した。
焼かれても良い舞台と、未来のない若者。この二つは、とにかく金になった。先進国という肩書を維持するため、また効率よく外貨を獲得するため。非人道的な商品は金を生み続け、常識と正論を吐く連中を袖の下で黙らせた。
しかし白鯨はそれで良かった。
不満の声を漏らす物もいるかもしれないが、少なくとも彼は今の自分に満足していた。彼はただの銃で良かった。心を空にして、ただ鉄の塊を飛ばすだけの銃。そうあることが、得難い平和への道だと信じているからだ。
時間を確認すれば、もう八時半を回っていた。
戦闘行動の場所と開始時間は正確に決められており、ここ札幌地区では中心街が戦闘区域で、時刻は午前十二時から午後八時までと決まっている。
彼は相棒のL96をケースにしまい、地下の駐車場に向かった。
自分専用の軍用車の前に立ち、キーを取り出し重たい鉄の扉を開ける。そしてエンジンを始動させ駐車場を後にしたところで、彼は自分の不用心さを笑った。
こんな戦場で、一日放置された車を無意識に運転する馬鹿がどこにいるだろうか。間抜けな熊の置時計を買ってきた夢の自分を馬鹿にしている暇などなかった。
電車の通らない踏切を乗り越え、彼は戦闘区域近くのコンビニに車を停めた。軍の用意した駐車場に停めても良かったが、自分の軍隊の車が群がって停車する光景がどうにも気に入らないからだ。
車から装備一式を下ろし、肩にかついで基地に向かって走っていく。ここからだと二キロ以上はあるが、朝の運動には丁度良かった。
基地には九時に到着した。
作戦質の扉を開けると先に来ていた深見曹長が金属製のマグカップに注がれたコーヒーを飲みながら、何かの資料を眺めていた。
「今日もお早いですね少尉」
部屋に白岡が入って来た事に気づいた深見は、資料を閉じマグカップをテーブルの上に置いた。
「こんな所に喜んで走って来る奴なんていないさ」
適当なパイプ椅子に腰をかけ、自嘲するように言った。
「それもそうですね。少尉、飲み物はいりますか?」
「それならその美味そうなコーヒーで」
「いつものですよ。少尉はブラックでしたね」
「有能な部下が持ててうれしいよ」
深見は立ち上がりマグカップにスプーンでインスタントコーヒーの粉末を入れ、電気ポットからお湯を注ぎ始めた。
「近頃、我が軍は物量では劣っているものの、やはり質では圧倒していますね。ですが少数精鋭であるからこそ、弱点は多いです」
お湯を注ぎながら、彼女は話を始めた。正確に状況を客観視する彼女の口調は、いつものように冷静な物だった。
「解っているさ、それぐらい」
彼女が先程まで読んでいた資料の表題を確認する。それは軍の新兵の写真付きのリストだった。訓練学校での成績や教官のコメントなどが書かれており、アルファベット順にファイルされている。
「少尉も目を通して見てください。いい人材が眠っているかもしれません」
彼にコーヒーを差し出す深見が、彼にもファイルを読む事を促した。
「全く、目を通すだけで一苦労だよ。代わりに読み上げてくれる人がいればいいけど」
「そう言えば昨日……正確には一昨日ですか。私の読んでいた本の栞がずれていましたよ。その人に頼んでみますか?」
「お化けが出るにはまだ早いぞ」
彼は背もたれに身を預け、まだ温かいコーヒーに口をつけながら応える。
「いや、そう言うつもりで言ったんじゃないですよ」
このまま何も言わなければ本当にお化けのせいにされそうだったので、彼女は急いでその説を否定した。
「おう二人とも、早いね」
いつも通り九時十分に基地に入ってきたエドワード・グリーン少佐が、作戦室にいた二人に流暢な日本語で声を掛ける。
エドワード少佐はイギリス出身の軍人で、この札幌基地のトップである。
初老の男性ではあるが、高い鼻とボサボサの金髪のおかげで実年齢よりも若く見える。判断力と分析力に長け、部下に対する情も厚いが、一見すると窓際族のサラリーマンのような、気の抜けた雰囲気を持っている。本国に家族を残し、妻と二人の息子の写真が入ったロケットを首から下げており、事あるごとに部下に見せびらかす。そんな砕けた性格のおかげで、彼の事を慕う部下は多い。
二人は会話を止め立ち上がり、少佐に向かって敬礼した。
彼と深見曹長の間で形式ばった挨拶は彼の命令で省略されていたが、エドワード少佐が相手となると話は違う。現地上がりの少尉とEU軍本隊所属の少佐との違いは、天と地の差ほどあるのだ。
エドワード少佐も、姿勢を整え二人に敬礼し、それが終わると頭を掻いて苦笑いを浮かべた。
「まったく、いつになったら俺は二人の中にお邪魔できるんだい?」
しかし彼自身も、この古めかしい敬礼はそこまで好きではなかった。それどころか友人のように話す二人の事を少しうらやましくも思っていた。
「EU軍直属の少佐だからでは無くあなただからこそ、皆敬意を示しているのです」
白鯨は右手を下ろしエドワード少佐に向かって話し始めた。
「それに、自分は特にあなたに恩義を感じています。三年前、自分を拾って頂いたその恩を、生涯忘れはしないでしょう」
「自分もです。女性である私の能力を高く評価して頂いている少佐には感謝してもし切れません」
彼に続いて、深見曹長も言葉を続けた。エドワードがもし見た目通りの昼行燈ならここまでの言葉は出てこないだろう。
それだけ彼は、恐ろしく有能な人物だった。
「そこまで褒められると俺が言わせてるみたいじゃないか。頼むよ二人とも、恥ずかしくて……こういう時、日本じゃ『へそで茶を沸かす』って言うんだっけ?」
あえて間違った諺を使い、彼は場の空気を和らげようとした。
「『顔から火が出る』の間違いじゃないでしょうか」
そしてそれを訂正するのは、いつだって白鯨の役割だった。
「あーそうだった。『顔から火が出る』、良い言葉だね。俺達も好きな時に顔から火が出せたら近接戦闘では負けなしなのにな」
日本の諺に関するジョークは、彼の得意技だった。
それを上手に扱える事が、そのまま日本人の気質や性格を把握している事に繋がっていると理解している物は少なかった。多くの学者が言って来たように民族的な気質は土地や社会構造ごとに特徴があり、それを正確に捕らえられれば軍隊の作戦をより有効な物に書き換える事ができる。敵と己を知ることは、兵法の基本原則だ。そうしなければ、勝算など立てられやしない。
「ねぇ少尉、俺ボケたんだからちゃんと突っ込んでよ」
暫く放置されていたエドワード少佐が、寂しそうに白鯨に言った。
「失礼ですが少佐、自分もその意見に賛成なので突っ込む事はできません。ですからここは深見曹長が適任だと思います」
「え、私!?」
急に話を振られた深見曹長が目を見開いて驚いた。エドワード少佐に突っ込みを入れるのはいつも白鯨の役割だったので、完全に油断しきっていたからだ。
「カモーン、彩子ちゃん」
少佐が両手を広げて彼女の的確な突っ込みを待った。
「え、えーと……何でやねん!」
こういう非常事態には慣れていなかった彼女は、目を回して顔を赤くし、お決まりの言葉を言いながら少佐の頭を叩いた。
「少尉、こいつの中から使えそうな奴はいるか? 特に気に入った人材がいたら軍学校から引っ張って来てもいいぞ」
少佐が何事も無かったように、机の上のファイルを取り上げ彼に向かって尋ねた。
「実はまだ目を通してないんですが……突撃兵で即戦力になりそうな人がいれば補充したいですね。夜には細かく読んでリストを渡します」
彼も何事も無かったように、少佐に応える。
「私を無視しないでください!」
彼女は何か一大事が起きたかのように、大声で二人に怒鳴った。
作戦の全容を伝えるため、EU軍の兵士は大きなホールに集められていた。人数は全員合わせてもたった三十四人。もちろん満足のいく数字ではなかったが、最悪の事態に備えて基地周辺には常に十人以上もの兵士を配置しなければならない。
いくら個人の能力は高いといえども、慢性的な人員不足はEU軍の悩みの種だった。資金力の差は、これからも埋まらないだろう。
「それでは、作戦を説明する」
壇上に立つ白鯨が、駅周辺の地図を映し出したスクリーンにレーザーポインタを当てながら説明を始める。
「先日の戦いで、我々は北四西四の一角を制圧した。これでアメリカ軍の最終防衛ラインである函館本線に一歩近づいたことになる。だがまだだ、まだ足りない。駅ビルを含む札幌駅をこの少人数で制圧するには、敵軍の重要拠点に当たる西五にある高層ホテルを制圧する必要がある。アメリカ軍の兵器もいくつか隠されているという情報も流れている事から、彼らにとってもここは死守したい場所であろう。
だが我々はそれを許す気はない。たとえ何が待ち構えていようが、我々を待っている者は勝利以外あり得ない。
今回の作戦では変則的に部隊を二つに分ける。建物の制圧を十九人で行い、残る十五人で北五条通りの防衛を行う。前者の指揮は深見曹長が、後者の指揮は私が取る。単独行動は控え、確実に敵を仕留めろ。では制圧作戦について、深見曹長について説明してもらう」
スクリーンの脇に控えていた深見曹長が彼と入れ替わりで壇上に立ち、説明を始めた。
「全員このビルの構造は頭に入っているな? まず我々は二手に分かれ、一階と二階を制圧する。それが終わり次第、全員でビルを一階ずつ制圧しながら登っていく。この時、部屋の扉をわざわざ空ける必要はない。まず最上階に上るまでに出来るだけの敵を排除し、そこから下っていく。ツーマンセルで九組に分かれ、各階の部屋を一部屋ずつ制圧しろ。この際は入念に確認を行え、見逃しは許さない。以上だ」
もう一度彼は壇上に立ち、話を再開した。
「では次は北五条通りの防衛についてだ。今回の作戦で防衛する地点は、北五条通りの北五西四から、北四西二の駅前に面する部分だ。ホテル周辺に四人、南口前に六人、旧百貨店跡に四人配置する。私は旧百貨店後の最上階より狙撃を行う。
今回の作戦の肝は、制圧が終わるまでに防衛ラインを下げない事にある。各自仲間の成功を祈りつつ、制圧が終わるまで持ちこたえろ。それでは本日正午より、高層ホテルの制圧を開始する。A隊、B隊の後藤までを深見曹長と共にホテルの制圧に、B隊の森からとC隊は私と共に防衛をしてもらう。以上、諸君らの健闘を祈る」
午後二時、百貨店の最上階で札幌駅から飛び出してくる敵兵の頭を一通り吹き飛ばし終えた白鯨の元に、深見曹長からの無線連絡がノイズ交じりに聞こえてきた。
『こちら深見、現在最上階までの一次制圧を完了しました。負傷者は二名、軽い出血程度だったので応急処置で済ませました。続いて二次制圧に入ります』
「了解、こちらの負傷者はゼロだ。アメリカ側からはやる気が感じられない。注意しろ、何か切り札を持っているのかもしれない」
『単にあなたが恐ろしいだけでは?』
「自分の戦力は過大評価しない主義だ。それに最悪の事態は常に想定しろ。楽観視していると足元をすくわれるぞ」
『肝に銘じておきます』
深見曹長との短い会話を終え、彼はもう一度スコープを覗いて駅前を見渡した。
いつもはしつこい位のアメリカ軍の反撃が、今日に限っては少なかった。
駅前に広がる死体の数を確認する。約二十。いつもの半分ぐらいの数だが、もしかすると高層ホテルの中にはもっと多くが隠れているのかもしれないと考えた。
無線機のノイズが耳につく。いつか見た砂浜のような音が流れている。かつて家族と旅行した海辺の町を思い出し、彼はその音に意識を傾けた。
声が聞こえる。優しく歌う、誰かの声が。
『隊長、隊長!』
B隊の森の声に現実に引き戻され、肉眼で駅前広場を確認した。するとすぐに森の悲鳴の原因が分かった。
「MPIM!?」
そこには、巨大な鉄の筒を構えた敵が六人もいた。それはMPIMと呼ばれる肩打ち式のロケット弾発射筒で、誘導式のその弾頭は対人、対物に特化されている。最大射程は長く、命中精度も高い非常に厄介な代物だ。
「ふざけるな!」
彼は悪態をつきながら、それを構える六人のうち二人を瞬殺した。だがこれ以上ここに居座るのは危険だった。先程までの狙撃からこちらの位置が知られている可能性は高い。彼は銃を抱え非常階段を急いで降りて行った。
ロケット砲の威力は並の小銃の比ではない。だからこそ、この限定戦争では禁止されている。
「国連は何をしているんだ!」
この戦争の管理者である国連が、両軍の武器や装備をチェックしている。禁止武器については厳しいはずだが、少なくとも今それが目の前にある。
『隊長、助けて下さい!助け』
森からの通信は、南口前から聞こえる爆音によって搔き消された。
一つ下の階の飲食店街に移動した白鯨は、そこからライフルを構えてさらに三人射殺した。
あと一人。
そう思った矢先に、今打たれた筈の血まみれの兵士がロケット砲の引き金を引いた。反射的にもう一度敵兵の頭に銃弾を撃ち込む。それでも発射されたロケット砲の勢いは止まない。
その軌道は、こちらに向かって来ていた。
銃を抱えたまま、エスカレーターに向かって走る。迫ってくるロケット砲を回避する手段は、そこから落ちることだけだった。邪魔な手すりを飛び越え、下の階に向かって落ちる。
それはノイズなどでは無かった。無線機から流れるそれは、優しく歌う、少女の歌だ。
爆発音が建物中に響く。爆風が瓦礫の粒を伴って襲ってくる。彼は咄嗟に顔面を左手で隠して、何とかダメージを最小限に抑えた。
「ぐっ!」
体が床に叩きつけられる。落下の衝撃をなんとか受け身で押さえたものの、背中の痛みからは逃れられなかった。左手をよけ目を開けると、さっきまで立っていた場所が丸ごと抉られていた。直ぐに体を起こした彼は狙撃できる窓側まで移動し、銃を構えた。
『隊長、大丈夫ですか!?』
「ああ」
C隊の関口の呼びかけに、彼は短く答える事しかできなかった。
殺す。
今度こそ、確実に。
荒くなった呼吸を整え、残った一人の首元にスコープの十字線を合わせる。そして、その引き金を引いた。発射された銃弾は見事に命中し、地面に首が転がる。
『Well I told my mama on the day I was born Don’t you cry when you see I’m gone』
歌が聞こえる。
優しく歌う、誰かの歌が。
その歌を聞きながら、彼は敵を確実に仕留めたかを確認するため、床に転がる誰かの頭にスコープを向けた。
『You know there ain’t no woman going to settle me down I just going to be traveling on』
転がっていた。首から血を流し続けるそれが、道端の吸い殻のように転がっていた。
彼にはそれが、どこか見覚えのある様に思えた。
『Singing Green,green, it’s green they say On the far side of the hill』
それには確かに、見覚えが会った。白鯨の知らない記憶のどこかで、白岡が知るいつもの日常に、その人はいた。
いつも俺を叱ってくれた。
気にかけてくれた。
真面目な奴、と鼻で笑っていたけれど、彼女の事は嫌いじゃなかった。買い物にだって付き合ってもらった。
選んでくれた目覚ましのおかげで今朝は遅刻しなかったし、ピンクの手帳は良く似合っていた。
デートの約束もした。映画に行こうって、顔を赤くしながら誘ってくれた。
『Green,green ,I’m going away to where the grass is greener still』
「桜井……」
アスファルトを転がる彼女の名前を、白岡京也は確かに呼んだ。
悲鳴が響く。
そこにいる筈のない、白岡の悲鳴が。