一話 彼らの日々
目覚まし時計の喧しい音が、部屋の中に鳴り響く。
彼は勢いよく布団から飛び上がり、枕元に置かれたベル付きの時計の針の向きを確認する。
現在、八時十二分。
今がどれくらい危機的状況であるかをわかりやすく説明すると、遅刻確定の時間である。
「なんでいつも十分遅れてるんだよ!」
白岡京也は、一足お先に時間を刻む目覚まし時計を両手でつかみ、それに向かって激怒した。
まずい、非常にまずい。
たかだか遅刻、と言いきれない事には理由がある。急いで寝巻を放り投げ、床に打ち捨てられた制服に着替える。ズボンが皺だらけだが、そんな事を気にする余裕はどこにも無い。財布と部屋の鍵をポケットに詰め込み、急いでアパートを後にする。
駅まで徒歩五分という地理的な距離は、彼にとってありがたかった。
このまま上手くいけば、小樽行きの八時二十分の電車には乗れる。腕時計で時間を確認しながら、駅に向かって走る。通勤客を押しのけ、改札にカードをかざす。
何とか予定の電車に潜り込み、ようやくここで深呼吸する。
小樽行の電車には人がそんなにいない事が唯一の救いだろうか。吊革に捕まり、窓から見える景色を眺める。
目の前に広がる町並みは、平和そのものだ。
ただし札幌方面に目を向けると平和とは言い難い。
何十メートルもの高さにも及ぶコンクリート造りの壁が、札幌の中心街を覆っている。電車は札幌駅を通ることはなく、新千歳空港に行くにはわざわざ作られた遠回りな線路を通らなければならない。
『次は手塚駅、手塚駅』
景色に見とれていると、高校の最寄駅への到着を知らせるアナウンスが聞こえてきた。急いでホームの階段を駆け上がり、バス亭に向かって走る。
が、間に合わない。学校行きのバスは今俺の目の前を加速して進んでいった。残された手段はただ一つ。そう、走ることだ。
「うおおおおお!」
高校までの距離、約二キロ。
全力疾走をすれば十分でつく。
ただ今の時刻、八時三十分。
目の前を流れるゲームセンターも、雑貨店も、ラーメン屋も郵便局も一瞥せずに走る。赤信号だって、隙を見計らえば怖くはない。
走る、ただ走る。
スーパーを通過し、橋を渡る。学校はもうすぐだ。
息を切らしながら、三階に向けて階段を勢いよく駆け上がる。チャイムが鳴っているが、問題はない。チャイムが鳴っている十数秒の間に教室につけば、遅刻にはならないからだ。
「セーフ!」
チャイムが鳴り終わる最後の一秒、彼は威勢のいい掛け声とともに勢いよくE組の扉を開けた。教壇では、担任の深見彩子が出席を取っていた。背は高く、スレンダーな体系をしている彼女は、美人ではあるのに男子生徒から評判はそこまで良くなかった。
単純に、厳しかったのだ。
「セーフです、セーフですよね先生!?」
「……白岡、鞄はどうした?」
「あ」
両手を見てみれば、指摘された通り確かに何も持っていなかった。
「忘れました」
彼がそう言うと、クラス中から大きな笑い声が聞こえてきたが、深見だけは笑わずに苛立ちげな溜め息をついた。
「廊下に立ってろ」
自分の間抜けさを呪いつつ、彼は素直に罰を受け入れた。
朝のホームルームを終え、ようやく教室に戻る。席に着いた彼に、前の座席に座っているクラスメイトの岩原がにやけた顔で話しかけて来た。どうせ笑いに来たんだろう、と話しかけられた瞬間に白岡は思った。
「よう白岡、鉛筆貸してやろうか?」
「悪い、ついでに消しゴムも貸してくれ。そういえば田上は?」
彼の右隣に座っている、クラスでは影の薄い田上が今日はいなかった。
白岡もあまり話すことはないが、それでも彼が欠席するという事態が珍しいことだとは思った。
「深見ちゃんが言ってたけど、転校だってさ」
「またかよ……まぁ、仕方ないことだよな」
札幌市は、人の出入りについては厳しい。
普段札幌市は市外への道を厳重に封鎖され、人の出入りが制限されている。理由は簡単、外では戦争が行われているからだ。しかしここから簡単に出られる方法がある。
それは、徴兵だ。
「俺たちもいつになるか、わかんねぇよな」
いつも陽気な岩原にしては珍しく、あまり芳しくない社会情勢を嘆く。
「そう言うなよ、せいぜい今の学生生活を満喫しようぜ」
天井を仰ぐ岩原の肩を、白岡が軽く叩く。今の生活ははっきり言って悪くない、と思った。確かに札幌市内にしか移動できないが、これだけ広ければ遊ぶ所には困らない。
それに、本や食品も検閲さえ通れば簡単に手に入る。
「そうそう、今の生活を楽しまなきゃ」
「えらいぞ山内、頼むから教科書見せてくれ」
彼の左隣に座る、短髪の山内が話しかけてきた。これでようやく、いつもつるんでいる、深見先生が生活態度の悪い代表として良く名前を挙げる通称三馬鹿が全員そろった。
「仕方ないなぁ。それじゃ、ジュース一本で」
「駄目です」
山内との平和的な交渉をしていると、クラス委員長の桜井加奈が割って入ってきた。
「おでこちゃん、これは実に平和的な解決だと思わないかい?」
特徴的な彼女の額を指さし、山内との交渉の正当性を主張する。
「おで……髪型の事は言わないでください! 白岡君はまるごと鞄を忘れたんですから、それ相応の罰を受けないといけないんです!」
委員長が耳を赤くして白岡に怒る。
「さっき廊下に立ったじゃん」
同じ罪で二度罰せられることはおかしい、という司法原理にのっとり白岡が反論する。
「まだ足りないです!」
「細かいなお前は。おでこは広いくせに」
「京也、そう邪険に扱わないでよ。委員長は君には特に生活態度を改めて欲しいんだって」
二人の言い争いを見かねた山内が、間に割って入る。
「そうです、そうしなければクラスの雰囲気が」
「だって、京也の事が好きなんだもんね」
桜井が全てを言い終わる前に、山内が間髪入れずに補足する。
「なななな何言ってるんですか山内君!」
明らかに動揺した態度で、桜井が山内の肩を掴み激しく揺さぶる。
「……桜井」
どんな渾名でもなく、白岡が彼女の名前を呼ぶ。
いきなりそう呼ばれたことで、彼女は頬を赤く染め肩を震わせ始めた。
「ひっ!?」
予想外の展開に驚いたのか、桜井は悲鳴のような返事を返した。
「もし俺と付き合いたいなら」
クラスメイトは皆固唾を飲んで、彼の一挙一動を見守った。
桜井が彼の事を好きだという事は本人達以外にとっては最早周囲の事実で、彼らはいつも面白半分で彼女の恋路を応援していた。
岩原と山内は特にその傾向が顕著に表れており、白岡がいないといかに二人の仲を近づけるかという事ばかりを話し合っていた。
「はい」
彼女がそう言うと、クラス全体が異様な沈黙に包まれた。
次に返される彼の言葉を聞き逃がさまいと、誰もが意識的に口を閉ざした。
言いようのない沈黙は続く。
一秒一秒を刻む細長い針だけが今この教室内で音を立てていた。白岡は息を大きく吸い込み、ついに彼女への言葉を紡いだ。
「その眩しいおでこを何とかしろ」
体を震わせる彼女の広いおでこを、彼は人差し指で軽く突いた。
クラス中からは、怒声のようなブーイングが彼に向けられた。
鉛筆と消しゴムだけでなんとか午前の授業をやり過ごした白岡は、陰鬱な気分で机に突っ伏していた。
鞄を丸ごと家に忘れてきたという快挙を褒め称えない教師はいなく、授業が始まる度に彼は教師とクラスメイトに笑いと話題を提供した。中には学生の本分についてを四十五分かけて熱く語ってくれた教師もいたので、その後の休み時間で彼は授業を潰した英雄として不真面目な連中から文字通り褒め称えられた。
「おい白岡、深見ちゃんが呼んでるぜ。生徒指導室で熱々のお茶淹れて待ってるってさ」
そんな彼に追い打ちをかけるように、岩原が彼に死の宣告を代理で告げた。
「その話を聞かなかった事にして、昼休みを満喫するって言うのはどうだ? それとも体温計を擦りまくってインフルエンザ並の高熱を叩き出してすぐさま帰宅するって言うのはどうだろう」
教室の中心でクラスメイトと弁当を広げお喋りに興じていた桜井が、白岡に向かって鋭い熱視線を向けた。
「そうだな、昼休みさえ逃げ切れば五時間目は深見ちゃんの授業だし、そうすれば俺たちはまた授業の大半をお前に対する恨み事で潰せるってわけだ。よし白岡、俺はお前に何も言ってないぞ、さあ今すぐ購買に行って菓子パンを買ってくるんだ。俺への貢物も忘れずにな」
岩原の言う通り、五時間目は深見の英語の授業がある。
彼女のお誘いを断って五時間目に延々と説教される光景が目に浮かんだので、彼は仕方なく椅子から立ち上った。
「アンパン」
去っていく彼の背中に、岩原が手を振りながらリクエストを口にする。
「うるさい岩原、戦場に向かう兵士に冗談を言うとは何事だ」
「そうか、生きて帰ってこいよ」
彼は五分前よりも数倍陰鬱な気分で二階の生徒指導室に向かった。
生徒指導室では、深見先生が資料をめくりながらインスタントコーヒーを飲んでいた。
「遅かったじゃないか」
部屋に白岡が入って来た事に気づいた深見は、資料を閉じコーヒーが注がれたホルダー付きの紙コップをテーブルの上に置いた。
「こんな所に喜んで走って来る奴なんていませんよ」
適当なパイプ椅子に腰をかけ、不機嫌そうにそう言った。
「それもそうだな。飲み物はいるか?」
「それならその美味そうなコーヒーで」
「期待するほどの味じゃないぞ。砂糖とミルクは使うか?」
「ブラックで」
深見は立ち上がり紙コップにスプーンでインスタントコーヒーの粉末を入れ、電気ポットからお湯を注ぎ始めた。
「近頃遅刻が多いぞ。お前の家庭環境については知っているが、特別扱いという訳にはいかないしな」
お湯を注ぎながら、彼女は話を始めた。
激しく怒られると思っていた白岡には、子供を諭すような優しい彼女の口調にすこし驚いた。
「解ってますよ、それぐらい」
家庭の事情と特別扱い。
複雑な彼の家庭環境を腫れ物に触るように扱う大人は多く、事実彼は中学校までは学校と言う小さな社会の中で誰よりも特別扱いを受けてきた。だから彼はどんな生徒に対しても等しく接する深見を教師としては立派な人物だと思っている。
「解ってると言うなら、せめてあと十分早く起きてくれ」
悪態をつく彼にコーヒーを差し出す深見が、溜め息交じりで懇願するように言った。
「目覚ましはちゃんとセットしているはずなんですけどね……毎日十分遅くされているんです」
自分でもこの年でこんな言い訳をするのか、と思いながらも彼は遅刻の理由を説明した。
「誰にだ?」
彼女は笑いもせず、真面目な顔で彼に聞き返した。
「わかりませーん」
どうせ自分が寝ぼけて直したのだろうと頭の中で結論付けた白岡は、両手を広げておちゃらけてみた。深見は眉一つ動かさずに、深く溜め息をついた。
「お化けが出るにはまだ早いぞ」
椅子に座り直し、少し冷めてしまったコーヒーに口をつけながら応える。
「いや、そう言うつもりで言ったんじゃないです」
このまま何も言わなければ本当にお化けのせいにされそうだったので、彼は急いでその説を否定した。
「すいません、遅れました」
本題から逸れた話をしていると、有名人が生徒指導室を訪ねてきた。
「あれ、生徒会長がこんな所に用なんてあるんですか?」
その男は、生徒会長の佐原直人であった。
品行方正で容姿端麗、絵に書いたような優等生で、道知事の一人息子というおまけ付き。完璧超人とまで称される彼は生徒、特に女子生徒から、教師からも人気がある。
ただ余りの完璧っぷりに僻む男子も少なくなく、実を言うと白岡もその中の一人である。彼は生徒会長の顔を見る度、どうして人というのは平等に作られてないのかと信じもしない神に向かって悪態をつくほどであった。
「授業中お前の話をしたら、どうもお前に行ってやりたい事があるようでな。全く受験も近い時期なのに、有り難いことだよ」
小さく笑いながら、深見は事の顛末を説明した。
「全然有り難くないです」
今すぐその綺麗な顔の男に唾を吐きかけてやりたい気分で、白岡は答えた。
「そう邪険に扱わないでくれよ。仲良く行こうじゃないか」
彼のその綺麗な言葉使いと細かい配慮も、何一つ気に入らなかった。恨んでまではいない。
ただ本当に、気に入らないだけだ。
「はいはいそれで、生徒会長様は何を教えてくれるんですか」
「一人暮らしの先輩として、ちょっとだけアドバイスをね。夜更かしをするなとは言わないけど、目覚まし時計はちゃんとセットしないと」
「ついさっきその話してたんですけど……毎日都合良く十分遅れるんですよ」
白岡は鼻の頭を掻きながら、先ほどと同じように子供みたいな弁解をした。
「目覚ましは一つだけかい?」
「あんなうるさい代物が二個も三個もあって良いもんですか」
気にいらない人間の言葉というのはどうして素直に受け取ることができないのだろうと思いながら、彼は目の前の男を小馬鹿にするように答える。
「そうだね、確かにうるさいけど君にとっては今一番必要なものじゃないのかな」
「……考えておきます」
これ以上喋り続けると自分が聞き分けのない子供みたいだと感じたので、白岡は会話を止め決定を先送りしてくれる便利な言葉を口にした。
「よし白岡、お前は帰りに目覚まし時計を買って帰れ。それで今日の事を責めないでやる」
黙って話を聞いていた深見が、これ以上話しを続けても無駄だと判断したのだろうコーヒーを飲みほし今日の彼への処罰を決定した。
「はぁ」
「まったく気のない返事だな」
放課後、白岡はいつもの二人と委員長のおまけつきで歩いて駅に向かっていた。
「どうして私も一緒なんですか」
彼女は自身がこの三人と行動を共にしていること自体を好ましく思っていないようだった。
「京也を一人にしたら目覚まし時計なんて買いそうにないし」
山内が彼女について来てもらった理由を親切に説明する。
「何のために岩原君と山内君がいるんですか……」
その説明に不服だった桜井は、拗ねるような口調で文句を言った。そんな彼女の姿を珍しい顔だな、と横目で見ながら白岡は思った。
「ほら、俺達ジュース一本で買収されちゃうから」
岩原が自身の頼りなさを自信満々にアピールする。そこは胸を張って言う所か、という疑問を白岡は口にはせずに胸の奥底に締まった。
「そうだね、確かにそろそろコーラが美味しい季節だね」
「俺はやっぱりサイダーがいいな。コーラよりも炭酸飲んでるなーって気にならない?」
「うるさい、お前らには何一つ奢ってやらないからな」
既に何か奢ってもらう事を前提として会話している二人に耐えかね、とうとう白岡が二人に突っ込んだ。この二人は誰かが止めないと際限なく会話を続けるので、二人を止めるのはいつだって彼の役割だった。
「酷いな白岡。固い事言うなよ」
岩原が甘えるように白岡の上着の袖を指先で引っ張る。
「一人暮らしに無駄金使う余裕なんて無いんだよ」
至極当然の理由を口にしながら、彼は岩原の手を振りほどいた。
「あーお前がごちゃごちゃ喋るから腹減っただろうが。どっか行こうぜ」
急につまらなさそうな顔になった岩原が、唐突にそんな事を言い出す。
「そうだね、久々にラーメンとかどう?」
そして間を置かずに山内が合いの手を入れる。
「ちょっと二人とも、買い食いはいけません」
「お前は小学生か……ほら駅前のあそこ、名前なんだっけ」
白岡は未だにそんな事を本気で口にする桜井をあしらい、駅前にある美味いラーメン屋の名前を頭をひねって思い出そうとした。
「ラーメン翔のこと?」
岩原が彼の疑問に答える。
「そそ、そこ行こうぜ」
「白岡君、目覚まし時計は?」
「後で買うよ、ほら行くぞ」
渋る桜井の背中を叩き、四人で取り止めの無い話をしながら駅前に向かって歩き出した。
「ヘイお待ち、味噌二つに醤油一つと、味噌のハーフサイズな!」
体格の良いラーメン屋の店員が、カウンター越しにそれぞれの注文した品を目の前に次々と置いていく。
「なぁビスケス、醤油ラーメンってチャーシュー二枚じゃなかった?」
頭にタオルを巻いた体格のいい店員、日系人ということらしく山本ビスケスという変わった名前をしているその男に、白岡は麺の上に置かれたチャーシューの枚数を確認した。
「気のせいだ、気のせい」
その男は白岡の目を真っすぐと見て言い切った。そうだっけと思いながらも白岡は割り箸を割り、こげ茶色のスープの下に沈んだ麺を箸で掴んだ。
「気のせいじゃねぇだろアホ! さっさと一枚足せ!」
奥で会話を聞いていた店長が、ビスケスに向かって怒鳴る。
「はいはいわかりました……ほらやるよ」
「誠意が足りないぞ、誠意が」
運ばれた叉焼を口に入れながら、白岡は目の前の男に追撃を仕掛ける。
「……ほらメンマ足してやるよ」
ビスケスも言われた通りに白岡の丼の上にメンマを少し足した。
「これだけかよ。その余分な筋肉切り落として上に乗っけるぐらいの気持ちは無いのかよ」
「うるせぇ、それ以上喋るとその長い髪の毛全部刈り取ってトッピングとして販売するぞ」
「白岡君、あんまりごねたらお店の人が可哀想だよ」
二人の口喧嘩を止めようと、桜井が二人に割って入る。
「あ、いいのいいの委員長。この二人はいっつもこんな感じだから」
岩原がまじめ過ぎる桜井を笑って止める。何故だかは解らないが、白岡とビスケスはいつもこんな感じだ。ただそれがただの冗談だと皆解っているので、楽しんで傍観している事が多い。
「そうそう、僕たち常連だからいっつもこんな感じなんだ。ね、大将」
醤油ラーメンに胡椒を振りかけながら、山内が奥で新聞を読み始めた店長に話を振った。
「おう、今日は珍しく華があるがな。明日雪でも降るのか?」
委員長を遠目で見ながら、店長が笑った。
「世の中には、物好きもいるんですよ」
「そうか、そうだなぁ」
山内の説明に妙に納得した店長が、うんうんと深く頷く。
「大将―っ、こいつの頭に熱々のスープかけてもいいですかー?」
まだ口喧嘩を続けていたビスケスが、具体的な攻撃の許可を店長に求める。
「アホお前、客にそんな事するな!」
少しだけ真面目な表情で、店長がビスケスに怒鳴った。
「それじゃ、俺と山内はもう帰るから、後はよろしく」
ラーメン屋を出た後、駅前の広場で岩原が突然そんな事を言い出した。
「あ、おいお前ら待てって」
「頑張ってね二人とも。また明日ね」
白岡の制止も聞かずに、二人は早歩きで駅の構内に入って行った。
「め、目覚まし時計買いに行かないと……」
残された桜井が、白岡に向かって俯きながら呟くように本来の目的を口にした。
「わかった。そこのでかいスーパーでいい?」
「それは白岡君が決めないと」
「はいはい……適当に済ませるよ」
それから二人で駅に直結したスーパーの生活雑貨売り場まで無言で歩いて行った。
時計のコーナーには多種多様な目覚まし時計が置かれており、桜井はそれを面白そうに一つずつ手にとって回った。
「白岡君はどんなのがいいですか?」
「出来れば音の鳴らない目覚まし時計」
いたって真面目な気持ちで彼は答えた。どうせ欲しくも無い物だから、できればその仕事を全うしてくれない物が良かった。
「それ壊れてるよ……あ、これなんてどうかな」
「『105デシベルの大音量! これであなたも目覚めスッキリ!』……もはや公害レベルだろこれ」
桜井が手渡してきた目覚まし時計に貼られたシールの文字を読み上げる。今のでさえ十分すぎるほどうるさいのに、これ以上音量を上げられると耳栓をして寝る羽目になる。
「毎日遅刻ギリギリの人にはそれぐらいがちょうどいいと思いますけど」
「桜井はどんなの使ってるんだ?」
折角なので、彼は毎朝一番初めに登校してくる人物の目覚まし時計を参考にすることにした。
「え? 私のは別に……」
それを聞かれた彼女は、急に俯いて口ごもり始めた。
「そう言われると気になるだろ。どんなのだ?」
「……これです」
恥ずかしそうに桜井は子供向けコーナーに置かれた白い熊を模った目覚まし時計を指さす。
「これにするか」
「お、お揃いですか!」
「真面目な委員長が起きるのに使ってるんだろ? だったら遅刻はしないな」
これならそんなにうるさくないだろう、と考えながら白岡は安っぽいプラスチック製の時計の値段を見た。
二四八〇円。これなら買える。
「お揃い……白岡君とお揃い……」
締まらない顔をして桜井が何かぼそぼそと呟いている。
「おーい、俺はこれ買ってくるけど委員長は他に買うものないか?」
彼女の目の前で手を振って意識があることを確認しながら、彼はこれからの予定を尋ねた。
「は、はい!? 私は手帳でも見てますね?」
「何で疑問形なんだよ。まあいいやちょっと買ってくるわ」
一旦そこで二人は別れ、白岡は白い目覚まし時計をレジに持って行った。会計を手早く済ませ、文房具コーナーで手帳を物色する桜井に声を掛けた。
「普通手帳って年度末に買うもんじゃないのか?」
「前のは使いづらかったんで、買い変えようと思って」
二つの似たような手帳を見比べながら、桜井は彼に答える。
「なんで?」
「ほら、これ見て下さい。一番最初が日曜日から始まってますよね。次にこっち、これは月曜日から始まってます」
彼女は二冊の手帳の四月のページを開き、白岡に見せた。彼女の言う通り、最初の曜日が違っている。
他の部分は当然同じで、一週間は月水金日の順番で並び、一ヶ月は十七日で終わっている。
「今までずーっと日曜日から始まる物を使ってたんですけれど、今年のは間違って月曜日から始まる物を買っちゃったんです」
「なるほどね」
「それで白岡君、どっちの色がいいと思いますか?」
日曜日から始まる手帳を二種類手に取り、桜井は白岡に聞く。茶と黒の二択だったので、彼は内心どっちでもいいだろ、などと考えた。
「それよりこっちは?」
だから彼は、彼女の意表を突こうとピンク色の手帳を手に取った。
「こ、この色は流石に……」
ピンク色の手帳を渡された桜井が戸惑う。
きっと自分に対するイメージとはかけ離れた色なのだろう、と白岡は思った。
「いいじゃん、似合うよ」
驚かせようとして選んだ色だったが、鮮やかなピンク色の手帳は予想外にまじめな彼女によく似合っていた。
だから彼は、素直にそう言った。
「これ、これにします!」
目を見開いき顔を赤くして、大声で彼女は言った。声が裏返った事に、本人は気付かなかった。そしてそのまま、渡された手帳を大事そうに抱えてレジに向かって走って行った。
買い物を済ませ、二人は駅の構内まで歩いて来た。
「あの、私家はこの辺りなので」
「そっか。んじゃまた明日」
「あのっ!」
一言だけ残して去ろうとした白岡を、桜井が大声で呼びとめる。
「ど、どうした?」
急に呼び止められた白岡は、驚いて振り返った。
「日曜日って暇ですか!?」
「うん、まぁ」
突然何を言い出すのかと彼は思ったが、聞かれている事には答えた。
「私、たまたま映画のチケット二つ持ってるんです! その、よかったら……」
白岡は今朝の出来事を思い出し、山内の言っていた事もあながち間違いじゃないのかと考えたが、そんな深い意味は無いだろうと頭を振った。
「いいよ。行こうか」
だから、単純にクラスメイトと映画に行くのも悪くないなと彼は思った。
「はい!」
嬉しさを前面に押し出した明るい笑顔で、桜井は答えた。
その笑顔を、悪くないなと彼は思った。
それから数時間後、白岡は部屋のソファーで漫画を読んでいた。昨日岩原から借りたものだが、面白かったので勉強もせずに読みふけっていた。
時計を見ると、既に十一時半を回っていたので、遅刻を恐れた白岡は早めに寝ることを決意した。
今日買った白熊の目覚まし時計に電池を入れ、八時ちょうどにアラームをセットし、台所まで薬を飲みに行った。今彼が持っているその青い錠剤は、札幌市が市民に摂取を義務づけている薬品で、効用についてはよく知らされていないがとにかく寝る前にこれを飲む事になっている。
飲まないと寝付けないので、彼らは皆睡眠薬の類と考えていた。
投げ捨てられた寝巻に着替え、布団に潜る。寝る前に一瞬だけ桜井の笑顔を思い出し、少しだけいい気分で眠りについた。




