十六話 矛盾
エレベーターのドアが開き、彼はそれに乗ると展望室へのボタンを押した。マガジンを交換し、銃をスライドさせる。引き金を引くだけで、誰かの命が簡単に奪える。
彼が強く握るそれは、そういうものだった。
鋼鉄の綱に引き寄られ、上へ上へと上がっていく。
彼は何も無い壁に寄り掛かり、自らの手をじっと見つめた。骨の奥まで染み込んだ人の血は拭き取ったところで消えはしない。知らないふりをして、奈々方と過した日常を続けていけるなら、それは素晴らしい事に思えた、
朝起きれば目覚ましの音に急かされ学校へ行き、教室に入れば友人が待っている。何か楽しい事がないかと愚痴をこぼし日々を過ごす。そんな毎日こそが、自分が望んだ日常だと知らずに。争い、憎み合う人々が願った日常だと知らずに。
彼は泣いた。声も隠さず、嗚咽を上げて。
もう戦いたくない。誰も殺したくない。人を殺す度に軋む心はもう持ちそうもない。
人並の幸せが欲しい。暖かな人に囲まれて、ゆっくりと流れていく時間を過ごしていたい。
ただ、ただ笑っていたい。
それだけが望みなのに、またこれから、握りしめた鉄の塊で人を殺しに行く。
どうして? なぜ?
それが嫌なら、銃を捨てればいい。
耳を塞ぎ目を覆い、部屋の隅で泣いていればいい。目の前には、もう一人の自分がいた。
隣合わせの鏡のように、反対側の壁に寄りかっかっている。
「嫌なんだろ? わかってる、なんせ俺達は一つだからな。お前が一番やりたい事は全部俺が知ってるんだ。だからさ、帰ろうぜ? 明日奈々方に謝って、彼女の膝の上で甘えていようぜ。ずっとそうしたかったんだろ? そんな毎日が欲しくて仕方無くて、銃を撃ってきたんだろ? もうお前の役割は終わったんだよ。あとはアンリとギルベルトが、世界中を変えてくれるさ。俺達が望んだようにな」
自分と同じ姿をした男が、饒舌に喋り続ける。
声も仕草も喋り方も、紛れもない自分自身が。
「消えろ」
銃をしっかりと握り、その男に銃を突き付ける。銃を持つ手は震えている。
「ほら、手が震えているぞ? それにどこを狙っている? 狙うなら頭だろ。胸なんか打ったって人は死にはしない。それともまずは腕か、足か? 相手の動きを止めて好きなだけいたぶるのか? それなら確かに、狙うのは胸だな。ほら撃てよ。撃って好きなだけ、俺をぶん殴ればいい」
人を殺す。
その為には、確かに頭を狙わなければならない。いつだってそうしてきた。
桜井も、岩原もビスケスも。そうやって殺してきた。そんな簡単な事が今は出来ない。鉛でできたかのように体が動かない。
「もうやめようぜ、俺達は十分頑張ったよ。そもそもお前は生きるために殺してきたんだ。そうだ、俺達は何も悪くないんだよ。戦争っていう状況が、社会が悪いのさ。そうやって泣く必要だって何一つ無いんだぞ」
その男は仰々しく両手を広げ、優しい言葉を吐き続ける。
「帰ろうぜ、まだ間に合うって。知らないふりなんて簡単だろう? 誰だってそうして生きている。見たくない物には蓋をして、忘れたって自分を誤魔化して生きている。でもそれは悪い事か? いいや悪くないな。これが悪だというなら、俺達が今からすることの方がよっぽど悪い。自分を正当化するのは俺達の得意技だろう。岩原を殺した時もそうだったな。あいつの意志を継ぐとか格好良くほざいておいて、俺達がやってきた事はただの人殺しだ。それでもまだ、あいつの意志を継いでいるとほざいてやがる。笑えるよな?」
ついに彼は、銃を落とした。リノリウムの床に落ちた銃が拙い金属音を立てる。
「京也……」
そして笑顔を浮かべる目の前の男を、力一杯殴った。
拳は頬にのめり込み、男の顔を変形させる。骨の折れる鈍い音が狭い室内に木霊する。
「確かにお前は俺だよ。だけどな、俺の全てじゃない」
右腕を後ろに引き、二発目の準備をする。フォームなど気にせず、ありったけの力を込めて。
「俺は俺だ。俺でいたいんだ。間違ってきた道も、全部俺の一部だ。だから!」
もう一度目の前の男の顔を殴る。強く、強く。
「俺は闘う。取り戻すんだ。自分を、彼女を」
奪われたなら奪い返す。ただそれだけだ。
気がつけばその男は消えていた。彼は銃を拾い上げ強く握った。エレベーターが減速し、軽い衝撃が体を揺らす。
重い扉が開き、目の前には新しい景色が広がっていた。
初めて登る展望室は、夕日で赤く染まっていた。
何台もPCを繋げたような塔が部屋を埋め尽くし壁際には液晶モニターが並べられている。
その一つに、奈々方の姿があった。
基地でオペレーターとして働いている彼女の姿がそのカメラは映し出していた。他のモニターには岩原の姿があった。目を細め良く見ると、その後ろにはいつか見た戦車があった。一番端の画面には、ビスケスの姿が写っている。
そこで彼は、モニターを見るのをやめた。
部屋を見回すと、目に光を失ったアンリが展望室の手摺に腰をかけていた。
ギルベルトはオフィスチェアに腰をかけ、キーボードを激しく叩いていた。京也の存在に気づいたギルベルトは手を止め椅子を回転させ、二人は向き合った。
「思ったより、随分と早く来たんだね。全くこっちは調整で忙しいって言うのに……今いる世界が、そんなに気に入らないのかい?」
その顔にも声にも驚きは無かった。
京也がいつかここに来る事はギルベルトに予想の範囲だった。その為の保険として配置したビスケスだったが、怪我を負わせるだけに終わった。モニターで二人の様子を観察しビスケスが負けた時は、思わずため息を漏らしていた。
「正直に言うと楽しかったよ。友達がいて、好きな人がいて、一緒に肩を並べて笑って。けど、けどさ」
京也は二日間の出来事を思い出す。
不完全な日常だったが、それでも楽しかった。
まるで本当に平和になったような、そんな二日間だった。だけどそれは違った。平和ではあった。
その筈なのに、彼が、岩原がビスケスが、願った物とはどこか違った。
「思い出したんだ。俺達が願った明日なら、それを作るのは、俺達の意志なんだ。お前一人の力で作ったって、何も解決しないんだ」
そこには意志が無かった。
与えられた役割を機械的にこなすだけのありふれた日常だった。
それが彼には受け入れられなかった。誰かの死を忘れる事は、その意味を考えない事と同じだから。死んでいった仲間と、殺していった敵の死は、無駄にはしたくなかった。
「随分と悟ったような事を言うんだね」
ギルベルトは煙草を投げ捨て、それを足でもみ消した。
馬鹿な少年だ、と彼は思った。
まだ人の醜さも知らない、世間知らずの若者だと。彼は少しだけ悲しくなった。自分もこういう目をしていた時期があった事を思い出して。
あの時とは全てが違っていた。
歩いてきた道は、希望と呼べるものを全て取り去るには十分だった。
「答えてくれギルベルト」
京也は銃を構え、真っ直ぐとギルベルトの目を見た。その眼は澄んだ、綺麗な瞳だった。何も知らない子供のような、そんな目だった。
目の前にいるこの男に、聞きたい事は山ほどある。
この戦争の事、画面に映っている友人達の事。
エドワードの素を去った理由。自分だけが記憶を取り戻したその理由。
疑問は何一つ解決してない。
ここまで来たのなら、今すぐそれは解決できる。
そのはずなのに。
「アンリの意思は、どこにある?」
彼はまた、彼女の事を聞いていた。
いつの間にかいつだって、頭の片隅にはアンリがいた。
京也の言葉を聞いて、ギルベルトは腹を抱えて笑い出した。
広い展望室に彼の笑い声が響く。
「もしかして彼女の事を好きになったのかな」
一通り笑い終えたギルベルトが、笑顔で京也に尋ねた。
「答えろ」
銃を突きつけたまま、京也は言う。
ギルベルトが笑う理由など、どこにも無い筈だった。
「それもそうか、そういう風に作ったからね。楽しかったかい? 素敵な女の子との楽しい楽しい毎日は」
「答えろ!」
苛立たしげに、京也は一歩ギルベルトに近づいた。作った、という言葉が京也の頭に引っかかる。いつか読んだギルベルトの計画書が思い出される。
「わかってるんだろう? 自分がただの人殺しだって。思いだしたんだろう? 自分が背負う罪の重さを。それなのに、それなのに」
そこでまた、ギルベルトは笑い出した。
彼には可笑しかった。
目の前にいるこの少年があまりにも大馬鹿者だったから。一人前以上の事を口にしながら、理解力は半人前だ。EU軍のエーススナイパーは、思想で塗り固められたただの子供だった。
「本気で誰かから、好きでいられると思ったのかい?」
ギルベルトのその言葉に京也の心は抉られた。
確かに心のどこかでそう思っていた。
だからこそ銃を持つ手が震えていた。自分が最低最悪の人殺しであることぐらい解っていた筈だった。それなのにその事を忘れてしまう時があった。
アンリといる時は、いつだって楽しかった。
その無邪気な笑顔の前では、戦争の事も忘れられた。
忘れてはいけないのに。いつだって罪は傍にあるのに。
「違う、俺は」
言葉にして否定してみても、自分の心に嘘は意味がなかった。立ち直った心がまた折れそうになる。慌てる京也に、ギルベルトは間髪入れずに言葉を浴びせる。
「違わないさ! そうだ、君達はいつもそうだ! 自分の過去を棚に上げて、誰かから愛されたいと、愛していたいと寝言を言う! うんざりなんだよ、そういうのには!」
無邪気だったその眼は、いつの間にか憎しみの色が現われていた。彼は何かを憎んでいた。
誰を? 何を? それは京也に解るはずもない。
「教えてあげようか? アンリの意志なんてね、どこにもないんだよ。彼女は僕が言った通りにしか動かない、動くこともできないただの人形さ! 君に近づいたのはただの監視だよ。なんせ君は大事な大事なモルモットだからね! どんな気分だい? 好きな子がただの玩具でさぁ!」
アンリの意志などない。
確かにそう聞こえた。彼女の言葉も仕草も行動も、全て偽物だった。
戦災孤児の子供を、意志のない人形にした。
京也はその時、初めて憎しみで人を殺したいと思った。
正当な理由など必要はない。
ただ憎いから、殺す。
「黙れ!」
口調を早め次々と喋るギルベルトに、京也はもう一歩近づいた。
「いいよ撃てばいいさ。俺達の意志? 笑わせるね!? そんなものがあるから殺し合い憎み合う! 邪魔なだけなんだよ、平和な世界にはさ!」
ギルベルトの言葉の中で、京也は彼の怒りと憎しみの矛先が何なのかを理解した。それは人だった。彼の過去がどんなものかは知らない。それでも彼は人その物を憎んでいた。たった一言で、京也のギルベルトへの憎しみは消え去った。
その代りに憐憫の心が芽を出した。
人を信用できない、自分の世界が全ての可哀想な大人がいた。
「俺はお前じゃない。お前の言う平和が何なのか、俺にはわからない。だから俺は、俺が信じる明日の為に」
彼は銃を持ったまま、ギルベルトのもとへ歩き出す。
そしてギルベルトの額に銃口を密着させた。
「お前を殺す。邪魔なんだよ、お前みたいな奴は」
ギルベルトは、目の前にいる少年の目をもう一度見た。
あまりにも多くの感情で濁りきっている。
夢、希望、絶望、憎悪。
人を殺すには不純なものが多すぎた。
人を殺すにはどれか一つで十分だ。多くを持ち過ぎるなら、いつか必ず全てを失う。
「人の意志とか言うくせに、僕の意志は奪うんだね」
少年の姿が、いつかの自分の姿に重なる。軍に入隊し、エドワードと共に闘った自分の姿に。
信じていた物があった。守りたい物があった。
その為に人を殺してきた。それが唯一無二の手段だと思っていた。
現実は違った。
兵隊など所詮騙され利用されるだけの存在だった。国家の為に、宗教の為に。
要が済めば人殺しとして石を投げられる。
それが嫌だから国連軍に亡命したはずだったのに、また現実が牙を剥いて襲ってきた。
だから全てを変えようと、そう決心したのに。
たった一つの意志の前に、それは音を立てて崩れ去っていた。
目の前にいる少年が、自分自身の望みに見えた。
「そうだ」
ギルベルトの言葉は正しい、京也はそう感じた。
彼の言葉は多くの過去に裏打ちされた一つの結論だった。
「君が引き金を引いたって、世界は何も変わらない。ただ一人の男が死ぬだけさ」
ギルベルトは辛辣な言葉を吐き続けるが、彼は気づいた。
心のどこかできっと、自分は倒されることを望んでいると。たった一つの希望の前に、無残にも散る事を。
「わかっている」
もしかすると彼が作ったあの世界こそが、本当に争いのない平和な世界なのかもしれない。
そんな事が京也の頭をよぎる。
「矛盾してる事に気付かないのかい? 君自身が生きてる事が」
それでも、自分の意志だけは失いたくないから。
自分が自分でありたいから。
「知っているさ。だから忘れない。昨日も今日も、そして明日も」
そして京也は、銃の引き金を引いた。