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十四話 夢を見たあとで

 五時間目が終わり、家に帰らずに走り回る小学生の声で公園は満たされていた。


 マフラーを巻き白い息を煙草のように吐いて遊ぶ京也とは対照的に、子供たちは上着を脱ぎサッカーに熱中している。

 たった六年早く生まれただけだというのに、京也には彼らのような元気はもう無くなっていた。厚い雲から除く青空は、いつもより遠くにあるような気がした。


 彼の頭の上を冷たい何かが触れ、水滴になって髪の毛を濡らす。


「お、雪だ」


 隣にいる奈々方が、空から落ちる白い大粒の雪を見上げる。つられて空を見上げた京也は、少しだけ陰鬱な気分になって大きな溜め息をついた。


「あれ、嬉しくないの?」


 溜め息の深さに違和感を覚えた奈々方が、京也に尋ねる。


「雪を見てはしゃぐのは小学生までだろ」


 雪が降り喜ぶのは、犬と子供の特権だ。

 大声を張り上げボールの行く末を忘れた子供たちを見ていると、彼はそんな事を考えた。


「冷めてるねー。もう少し楽しんだら?」

「これから積もって道を邪魔するっていうのに、何を楽しめばいいんだよ」


 北国の雪は、テレビで見るどこかの街の中継とは扱いが違う。


 ホワイトクリスマスという言葉は、雪の降る場所で育った彼らには嫌味にしか聞こえない。

 吹雪による電車、バスのダイヤの乱れ、交差点で多発する衝突事故、その他諸々のニュースがこれから始まると考えると、彼は素直に真っ白な冬の到来を楽しめはしなかった。


「それは……」


 言葉をつっかえ何かを考えている彼女をよそに、彼は地面に積り始めた雪を手で掬った。

 水分を多く含んだ雪の結晶は、軽く握るだけで立派な野球ボールへと変貌した。もっともキャッチャーミットかバットに当たった瞬間に砕け散る特製のボールだが。


 出来たての雪玉を少し宙に浮かせ、すぐ右手でキャッチする。堅さも感触も、人にぶつけるにはちょうど良い塩梅だった。


「今だよ。こうして好きな人と一緒にはしゃいで、お腹の底から笑える今を、楽しめばいいんだよ」


 奈々方がやりきった顔で取っておきの台詞を言う。

 昨日や明日のことよりも、今が一番大切だと。


「おりゃ」


 そんな彼女の顔に、彼は雪玉を投げつけた。

 鼻の頭に当たったそれが見事に四散し、彼女のマフラーの襟もとに付着する。


「うわ、何するのさ!」


 髪と首元についた雪を乱暴に払いながら、奈々方は腰に手を当てて京也に怒った。


「あんまり恥ずかしいこと言うからつい、ね」


 その姿を、彼は少し可愛いと思った。


「……くらえ!」


 だから、一瞬の隙をついて投げられた雪玉をかわすことができなかった。皮膚を冷たい感触が覆う。襟元まで入り込んだ雪が水になり、体感温度を急激に下げる。

 適当に雪を払い、空を見上げる。

 白と、灰色と、それから青色の三色が写しだす景色は、広葉樹についた紅色の葉も一面に広がる銀世界も忘れさせるぐらい美しかった。


「どうしたの? 当たり所悪かった?」


 ぼーっとした顔で目線を空に固定した京也の目の前で、奈々方は両手を左右に振った。


「いや、綺麗だなって」


 目線だけ彼女に向け、彼はそう言った。


「何だよ、白岡も十分楽しんでるじゃん」


 真っ白な冬の粒が、道を、街を覆っていく。

 本格的な冬の到来を、音を吸い込む雪が告げた。




 ベンチに積った雪を手で払いのけ、二人は一人前の距離を開けて座った。

 そしてまた彼は積もり行く雪の根元を見上げていた。いつかこの場所で、こんな風に座っていた事があったような気がした。


「また空ばっかり見て。UFOでも飛んできた?」


 同じ人と、違う季節で、この場所に確かにいた。

 だけどその時交わした会話は思い出せない。


「そうじゃなくて……」


 彼は目の前に広がる景色よりも、不可思議な既視感に気を取られていた。


「変な白岡」


 いつにも増して締まらない京也の顔を、奈々方は背筋を伸ばして眺めていた。

 このまま時間が止まればいいのにと、彼女は少女らしい夢を願った。


 だけどその夢は叶えられない。


 雪は積もり、春の日差しで地面に流れる。変わらない物はどこにも無かった。人と人との繋がりも、簡単に変わってしまう。その事をまだ、彼女は理解していなかった。


「前にもさ、ここに一緒に座らなかったっけ」


 思い出したように京也が呟く。

 

 いつか見た春の日が、瞼の裏から離れない。


ほんの些細なことだった。話の内容など、どうでもいいはずだった。

だけどその言葉は、彼女の顔から色を消すには十分すぎた。


「それって……いつの話?」


 初めに気になったのは、違和感だった。

 声の調子も表情も存在も、彼の良く知る奈々方ではなくなっていた。

 

 こんな彼女をいつか見た。昨日部屋で、誰かの制服を見つけた時だ。


「まだ夏になる前だったかな。こうやってお前と下らない話を……」


 思い出せない。

 

 夏だったかも知れないし、秋だったかも知れない。

 

 ひょっとすると、先週のことだったかもしれない。


「その時って、何の話してたんだっけ?」


 だけどその時、大切な何かを知ろうとしていた。その事だけは彼の胸の奥深くに刻まれていた。大切な誰かの事を、話していた気がする。


「……覚えてないよ、そんな細かい事」


 彼女は俯いて、殆ど聞き取れないほど小さな声で呟いた。


「あの時の俺は、何か悲しい事があって……それでお前に……」


 その思い出は赤色だった。

 

 映画でしか見ないような血が、景色が広がっていた。忘れたわけじゃない、覚えていないわけじゃない。

 ただ単に、思い出せないだけだった。


「覚えてないってことはさ、重要じゃないんだよ。嫌なことも辛いことも忘れて、今だけ見ようよ。楽しい今をさ」


 奈々方は笑う。

 

 痛みを堪え、傷を隠して。

 辛そうに、泣きだしそうな顔で。


 その笑顔を見て、彼はこれ以上傷つけたくないと思った。

 自分のほんの小さな疑問と彼女の笑顔は、同じ天秤に乗るはずもない。

 

 だけど、彼女と同じくらい大切な誰かの笑顔を思い出したいから。




「アンリって、誰?」




 彼は、その人の名前を呼んだ。白黒で、古ぼけたフィルムのような記憶に色と形が付き始める。


「知らないよ、そんな人」


 それが嘘だということぐらい、彼にも解った。

 一緒に学校の中を案内した事はもう、思い出していた。


「部屋にある目覚まし時計さ、あの白熊のやつって、お前と一緒に買いに行ったんだよな? 俺が遅刻ばっかりで先生に怒られてたから」


 記憶の隅で燻っていた思い出が次々と溢れていく。

 

 桜井、岩原、佐原、アンリ。消えかけていた名前がそこにある。


「知らない、知らない知らない! どうして無理に思い出そうとするの? 忘れているなら、それでいいよね?」


 奈々方は泣いている。

 

 彼女は知っていた。今この場所が、あまりにも不安定であることを。

 

 嘘で塗り固められた張りぼての世界であることを。だから彼女は涙を流した。嘘の裏にある真実は、彼だけには知ってほしくなかったから。


「大切なことだと思うんだ。俺が今ここにいるために、どんな道を、どういう風に歩いてきたかは。今は……今この時は、大切だけどさ」


 雲の隙間から差し込む光に、彼は手をかざした。

 

 その手は、血で汚れている筈だった。


 その過程が思い出せない。

 明確になった事実と結果が罪悪感と後悔を産み続ける。真実が例え非情なものであっても。納得だけはしていたかった。


「昨日までの俺が、今日の俺を作ってきたから。思い出したいんだ、自分自身を」


 彼のその真っ直ぐな目に、奈々方の心は折れた。

 

 もともと無理があった。白岡京也の監視など、彼女には荷が重すぎたのだ。


「……言ったって、信じてくれないよ」

「信じるさ。だってお前は」


 体を委縮させ俯く彼女の頭の上に、彼は優しく手を置いた。


「お前は、嘘をつくのが下手だから」

「かなわないな、白岡には」


 京也の手を退けると、彼女は独白を始めた。


 彼女の話の内容は、荒唐無稽な作り話にしか聞こえなかった。削られた日付。限定された戦争。その突拍子もない話の断片が、彼の記憶の隙間を埋めていく。

 劇的な変化などなく、ただ足りなかった物が満たされていった。


「戦争……そうだったな」


 自分の手が汚れている理由も、記憶が書き換えられた理由も、全て思い出した。


「そうだね。だけど部屋の隅を探せば見つかると思うよ。白岡が使ってた銃とか服が」

「探してみるよ。ありがとな奈々方」


 彼は彼女に簡単に礼を言うと、立ち上がり帰路につこうとした。


「奈々方?」


 離れていく京也の手を、奈々方の震え、冷え切った手が強く掴む。


「僕の話も、ちょっとぐらいさせてよ」

「ああ、聞かせて欲しいな」


 上げた腰を、もう一度ベンチに下す。今度は半人前の距離を空けて。


 深呼吸をして彼女は気持ちを落ち着かせてから、ゆっくりと自分の過去を話し始めた。


「僕はさ、昔虐められていてさ。僕、なんて言ってるせいかな。結構酷い事されてきたのかな。ノートは嫌な落書きばっかりで、教科書燃やされたりも……」


 彼女の口から語られる過去は、彼には経験してこなかったような出来事ばかりだったが、その時の彼女の心情ぐらいは察する事が出来た。


「辛い話なら、言わなくたっていいんだぞ」


 彼の精一杯の優しい言葉を、彼女は首を横に振り受け入れなかった。

 その言葉に甘える事は、前の自分に戻る事を意味するから。

 

 彼女は願う。過去を受け入れられる、人並みの強さを持てる事を。


「ううん、言わせて。……それで高校も受かったけど、すぐに行かなくなったな。でも親にそんなこと言えなくて、ずっと街を一人で歩いていたんだ。その時に出会ったのが」


 そこで彼女は言葉を止めた。口止めされていたあの人の名前を、京也に告げていいものかと。


「……ギルベルト、か」


 その名前を聞いて、奈々方は少しだけ安心した。自分の背負っている物を一緒に支えてくれているような、そんな錯覚にまで陥った。


「知ってたんだ……そう、それであの人が言ったんだ。僕を、特別にしてくれるって。僕は言われた通りにあの人の言う事を聞いて……そうしたら本当に、世界の方が変わってくれたんだ。僕を蔑む声はどこかへ消えて、代わりに僕の居場所が用意されてた。それが、それがね。嬉しかったんだ。僕の事を好きでいてくれる人がいて、僕も精一杯好きでいられる人がいて。特別になりたかったんだ……それだけなんだ」


 京也がしていたように、奈々方は空を見上げてみた。特別なものは何も無い。灰色の雲も白い雪も、いつだって見てきたものだった。

 それが何だか、今日に限って綺麗に見えた。


「駄目なのかな? 特別になりたいって思う事は」


 手に平に触れる雪が消える。

 

 そこにそれがあった事など、すぐに忘れてしまう。

 積もっては消え、忘れらていく雪の粒に彼女は自分の姿を重ねた。雪の粒に違いなどない。どこにでもあって、気づけば忘れられている。

 自分もそうなるような気がして、気づけば彼女は涙を流していた。


「駄目じゃない……誰だってそうなりたいさ。だけどお前はさ、そのやり方を少し間違えたんだよ。他人の力を借りないで、自分だけが出来る事をやれば良かったんだ。だってそうだろ?」


 流れる彼女の涙を、そっと指で拭う。

 間違えた過去は救えないけど、今ここにある悲しみを救えると信じて。


「お前は、お前なんだから。精一杯自分でいればいいのさ」


 もう一度彼は空を見上げる。一粒の結晶に大した違いは無いけれど、その一つはどれだって光り輝いていた。


「強いんだね、白岡は」


 自分の指で涙を拭うと、彼女は頬を緩ませた。


「もっとも、俺がただそうして来たってだけだから、こんな言葉は当てにならないかもしれないけどな」


 自分の行動が余りにも恥ずかしかった事に気づいた京也は、照れ隠しで背筋を伸ばして言う。


「きっと僕は、君のそういうところが好きなんだろうな」


 何の臆面もなく、彼女は言う。飾らない訳でもなければ、変わらない訳でもない。

 それでも自分自身で居ようとする彼に、彼女は一層心を引かれた。


「おいおい、随分と恥ずかしいこと言うな」

「さっきの白岡の台詞だって、十分恥ずかしかったと思うけど?」


 からかう様に奈々方が自分の顔を覗き込むので、京也は恥ずかしさのあまり目をそむけ頬を掻いた。


「これからどうするの?」

「俺は行くよ。俺の為にね」


 膝に積った雪を払い、京也はベンチから立ち上る。

 迷っている時間はない。やるべき事は、もう目の前にあった。


「たぶんあの人は、駅ビルの展望室にいるんじゃないかな。そんな事を言っていたと思う」

「そうか、探す手間が省けたよ。じゃあな奈々方」

「またね、白岡」


 ベンチに座り手を振る奈々方が、別れの挨拶を言う。


「……またな」


 背を向け歩き出した京也は、小さな声で呟いた。

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