十三話 夢
この世界が、もし三秒前に作られたとしても、人はそれに気付かない。
だから今この瞬間に、世界が作りかえられても。
誰も気づかない。誰もわからない。
「そうだろアンリ?」
「……」
ギルベルトの抽象的な質問に、アンリは沈黙で答えた。
「ごめんごめん。今の君は、何を聞いても答えなかったね」
自分自身がそう操作した事を失念していたギルベルトは、苦笑いを浮かべ煙草を揉み消した。
「さあアンリ、歌ってごらん」
仰々しく両手を広げ、彼は彼女に促す。
「世界を変える、君の歌を」
夢を見た。
憎しみ合い、銃を撃ち合う悲しい夢を。
歌が聞こえる。
誰かが歌う、悲しい歌が。
そんな、気がした。
「いてっ」
京也は頭の上に加えられた衝撃に気づき、目を覚ました。
「……夢?」
大切なことを忘れている。頭の中の誰かがそう言っているのに、何を忘れているかが見当もつかない。
「なるほど、授業中に夢を見る暇があるのか」
見上げるとそこには、呆れかえった顔を浮かべた深見が教科書を持って立っていた。
「授業中だぞ、全く」
「ごめんなさい」
寝ぼけた目を擦りながら、京也は黒板に目をやった。見た事もないような英文がぎっしりと書かれている。
「……例題の三番を解いてみろ」
その言葉を聞いた瞬間、京也は言葉を失った。
今の今まで寝ていたというのに、問題など答えられる筈はない。誰かに答えを教えてもらおうと周囲を見回しても、見えるのは薄笑いを浮かべるクラスメイトと、呆れかえった顔をした奈々方だけだった。
「先生、全くわかりません」
京也はそれを、できるだけ自信たっぷりに言ってみた。
「よし白岡、廊下に立ってろ」
教室を去る京也の背中に、大きな笑い声が向けられた。
昼休みになってようやく、京也は椅子に腰をおろした。
三時間目が終わっても廊下に立たされ、見せしめとしてその罰は四時間目終了まで続けられた。暫く立ちっぱなしだったおかげで彼の太ももは痺れていたが、少し動かすだけで足の感覚は直ぐに取り戻された。
「お帰り白岡。足はどう、痛む?」
奈々方に心配したような言葉がかけられるが、その顔は笑っていた。
「そうでもないよ。それより……今から昼飯買いに行っても間に合わないな」
時計を見れば、まだ昼休みが始まって五分しか始まっていなかったが、学食が無く購買部が異常な盛況ぶりを見せているこの学校ではその五分は致命的な物だった。
「しょうがないな、まったく」
鞄を開け、奈々方がゴソゴソとその中身を探る。
「何? なんかくれるの?」
「うーん……ここだとちょっと恥ずかしいかな」
そう言う彼女の手には、大きな二段重ねの重箱があった。
京也は奈々方に手を引かれ、誰もいない屋上までやってきた。澄渡る青空が一面に広がり、能天気な太陽が白く輝いていた。
「さむっ! 何で屋上なんだよ」
冷たい空気が二人を包む。吹きつける十一月の風が足元から体温を奪っていく。
「やっぱりでもここなら風情があるし……それに」
「それに?」
適当なところで腰を下ろした京也の横に、寄り添うように奈々方が座る。
「あのなぁ」
「いいじゃん、付き合ってもう五ヶ月も経つんだし」
呆れたように奈々方の頭を叩くと、彼女は頬を赤くして答えた。
「……まぁ、そうだな」
彼は空を見上げながら、彼女とすごした五ヶ月間を振り返る。初めは自分の事を僕と称する変な人だとしか思っていなかった。それでも一緒に過ごしていくうちに色々な事があって、それで彼女の事をだんだんと好きになって行った。
本当に、色々な事があった。
その筈なのに、その一つ一つはぼんやりとしか思い出せない。何処でどんな話をして来たのか。その時の色は、音は、匂いは。どれも霞がかかったようにその輪郭がはっきりとしない。
「でしょ?」
奈々方の声で、京也は考えていた事を頭の片隅へ消し飛ばした。そんな事を彼女に言えば、きっとすごい剣幕で怒られてしまうから。
「んで、何をくれるんだ? 腹が減ってさぁ」
彼女が大事そうに持った、緑色の古風な風呂敷に包まれたそれはどう見ても弁当箱だったが、女心という良くわからない物を少しでもわかろうとした結果遠まわしに言う事にした。
「焦らない焦らない」
嬉しそうに風呂敷の結びをほどき、ついにその正体があかされる。
「じゃんじゃじゃーん!」
リズムに乗った掛け声とともに、奈々方がこれ見よがしに四角い箱を京也に見せつける。そこには色とりどりの総菜に、いかにも女の子らしい小さな俵型のおにぎりが詰まっていた。
「おお! 冷凍食品の勝利だ!」
「あげない」
京也の冗談を冗談として受け取らなかった奈々方が、弁当箱を脇へ寄せた。
「あー!」
空腹の彼にとっては、それは拷問に近かった。失言の責任は確かに自分にはあるが、その仕打ちはあんまりだ。
「何だよ、僕が朝から作ったって言うのに」
指で床に『の』の字を書きながら、奈々方が拗ねたように呟いた。
「冗談だよ。頑張って作ってくれたことぐらい指見ればわかるよ」
まだ土埃りが残る屋上の床をなぞる指には、バンソウコウが貼られている。右手の五本の指のうち三本は負傷していた。
「ありがとな、奈々方」
傷だらけの彼女の手を、京也が優しく握る。
屋上という誰もいない環境と奈々方の拗ねた顔が彼の蚤の心臓に勇気を与えた結果だった。
「えへへ」
彼女が無邪気に笑う。京也は、この笑顔が見られるなら冬の寒さも悪くないかな、と気障な事を思い始めていた。
「食べようか。昼休みも終わっちまうよ」
「そうだね。見てよ白岡、このタコウインナーなんて結構……」
プラスチックのケースに入った茶色い箸で弁当箱の中身を説明し始める奈々方を見て、京也は一つの疑問にぶつかった。
「俺の箸は?」
彼女が取りだした箸は一膳だけ。二人で食事を取るには一つ足りない。
「え?」
「俺の箸ってどこにあるの?」
「……あはは」
乾いた青空に、乾いた笑い声が吸い込まれていく。
「忘れたのか」
「ごめんなさい」
「どうすっかな……鞄から鉛筆二本持ってくればなんとか」
「あーん」
一旦教室に戻ろうとした京也の前に揺るぎない現実が、四本足のタコさんウインナーが付きつけられる。まさか漫画でしか見た事のない表現に出会えるとは、まさか思っていなかった。
「まて奈々方、俺達にそれは早い」
未だに名字で呼び合うような仲なのに、目の前の現実はそれを軽く超えていた。このイベントを上手く攻略するには、彼の中ではあと半年は必要だった。
「あーん」
そんな彼の動揺をよそに、奈々方は満面の笑みを浮かべてタコさんウインナーを付きつけてくる。京也はこのまま時間が止まってほしいと思った。
そうすれば、さりげなく教室に戻って鉛筆二本を取ってこられるのだから。
「考えてもみろって! 誰も見てないとはいえ衛生面的な意味でもよくないって!」
「あーん!」
奈々方の声に若干の苛立ちが込められている事に気づいた京也は、とうとう腹をくくりタコさんウインナーにかぶりついた。よくスーパーで売らているごく普通のウインナーの味が口いっぱいに広がる。その味は限りなく普通だった。
「どう、美味しい?」
期待の籠った眼で、奈々方が感想を求める。一旦口から出そうになった普通の二文字をウインナーと一緒に喉の奥に押し込み、頭を働かせる。
ここで必要なのは彼女を喜ばせる言葉であって、塩辛いとか脂っこいとかもう少し焼いた方がいいとかそういう事を聞かれているわけではない。
「恥ずかしくて、味がよくわからない」
いつか漫画で読んだ主人公の台詞を、彼はそのまま引用した。いつどこで誰に借りた漫画だったのかまでは思い出せなかったが。
「そっか、僕も恥ずかしいや」
恥ずかしさの元凶が、恥ずかしそうに笑う。
その顔を見ていると、怒る気力はどこかへ行ってしまった。
「はいバトンタッチ」
奈々方が箸を京也に手渡す。その眼は語っていた。次はお前の順番だ、と。
「え?」
「あーん」
口を大きく開け、奈々方が何か食べ物を要求する。
「俺もやるのか? やらないとだめなのか!?」
今この手の中にある二つの棒で、弁当をすべて平らげてしまいたい。
「あーん!」
しかしそれを奈々方の声が許しはしなかった。
「あ、あーん」
震えた掛け声と一緒に、こんがりと焼けた卵焼きを彼女の中に放り込む。
「美味いか?」
「うん、幸せの味がする」
社交辞令のつもりで聞いた感想に、予想外の答えが返ってくる。自分の鼻の下が伸びきっている事に気づいた彼は、わざとらしく口元を手で多い表情を整えた。
「それは良かったな。でもこんなこと繰り返してたら時間足りないぞ」
「そうだね。はい割り箸」
「え……」
どこからか取り出した割り箸を、奈々方は京也に手渡す。
「どうしたの、使わないの?」
「騙したな、お前」
「こうでもしないと、やってくれないじゃん。ね?」
奈々方は首を傾げ、覗くように京也の目を見る。
「いたっ!」
その額に、彼はデコピンを軽くお見舞いした。
理由は簡単、これ以上鼻の下を伸ばしていたくなかったからだ。
そして放課後がやってきた。
誰もが今日一日の授業が終わった喜びを享受しているというのに、京也だけは辺りを見回し助けを求めていた。
「おーい山内、一緒にどっか寄って帰ろうぜ」
京也は自分の席の前で下校の準備に取り掛かっていた山内に声をかける。
「でも二人の邪魔はしたくないしなぁ……」
渋る山内と強引に肩を組み、京也は声の音量を下げ事情を話し始めた。
「頼むよ、な? 俺だってお前がいた方が気が楽なんだよ! あいつの事が嫌いってわけじゃないぞ? だけどここ最近、やれ腕を組ませろとか、手を繋いでくれとか、そういう恥ずかしくなるようなことばっかり」
「わかった、わかったよ。ジュース一本で手を打ってあげるよ」
惚気にも似た京也の台詞にうんざりした山内が早々に白旗を上げる。
「ありがとう、助かったよ本当」
「二人して何の話?」
無駄に仲の良さそうな二人に、割って入る奈々方。
「ああ、一緒に帰ろうかって話」
「ふーん……」
適当にはぐらかそうとした京也と山内を、奈々方が目を細めてじっと見つめる。その眼が持つ禍々しい力に二人はすくみ上がってしまった。
「やばいって! あの目力雪虫ぐらいなら焼き殺せるって!」
「頼むよ本当! 二本、二本買ってやるからさ!」
「ジュース二本も飲めないよ!」
「それぐらい買ってやるってことだよ!」
「……話終わった?」
二人の不毛な内緒話を、奈々方の一言が終わらせる。
「あぁ! 僕今日用事あるんだった!」
わざとらしく大声を張り上げた山内は、挨拶も言わずに教室から走り去った。
「まて山内、まっ……」
ジュース二本よりも自らの命の安全を取った山内の判断は、英断と呼ぶにふさわしいだろう。
取り残された京也は、何とも言えない絶望感に打ちひしがれた。
「ねぇ白岡、一緒に帰ろう?」
教室の中だというのに、奈々方は彼の腕をしっかりと掴んだ。
「あ、あぁ」
教室中から溜め息と冷やかしの声が聞こえてきた。
「ただいまー」
「お邪魔しまーす……前来た時より散らかってるね」
適当に寄り道をしていた二人だったが、足が疲れたという理由で京也の家に行くことになった。部屋には足の踏み場が少ししか見当たらず、Tシャツや漫画が無秩序に散らばっていた。
「悪い悪い、すぐ片づけるよ」
京也はそう言うとベッドのまわりの洗濯物を、洗濯かごの中に詰め込んでいった。
「しょうがない、僕も手伝ってあげるよ」
「気が利くな。テーブルのまわり頼むよ」
「僕としては是非ベッドの周辺を片づけたいんだけどな」
疑わしげな目線をベッドの下からはみ出ている雑誌に目を向けながら奈々方が言う。
「それは駄目だな」
彼女の足で目線の先にあるものに気づいた京也は平静を装った態度で雑誌を全て奥に押し込む。
「面白い物あったら教えてね」
「はいはい」
振り返らずに京也は答える。
振り返れば彼女のにやけた顔を直視する羽目になるからだ。
それから特に会話もしないで部屋を片付けていると、見覚えのない一着の服を見つけた。
「何だこれ?」
気になってそれを広げてみると、それは奈々方が今着ているのと同じ女子の制服だった。
「え?」
漫画の棚を整理している奈々方を見ると、彼女はいま制服を着ている。
ということは、この部屋には女性物の制服が二つあるという事にある。男女比が一対一なのに、存在する制服の比は一対二と、バランスが崩壊している。
「何かあったの……」
京也のおかしな様子に気づいた奈々方が、彼が広げる衣服を目にし、言葉を一瞬途切らせる。
言いようのない沈黙が部屋を包む。
目覚まし時計が刻む秒針の音だけが確かに聞こえる。
後ろめたいことはない筈なのに、京也の胸は激しく音を立てていた。
「それ、うちの学校の制服だよね? しかも女性物の」
一旦生唾を飲み込み、奈々方が改まって京也の持っている布の集合について指摘する。
「だよな」
その正確無比な説明に、彼は反論できなかった。
沈黙がまたやってきた。
秒針の音は変わらない。
胸を叩く音は加速する。
「ばか、馬鹿バカばかーっ! どうしてそんなもの持ってるのさ!」
静寂を破る怒号が、部屋の中に響き渡る。
怒っているような泣いてるような、そんな表情を浮かべながら奈々方は唾を飛ばして京也に怒鳴る。
「待て誤解だ! これは俺の所有物じゃない!」
「……だったら、違う女の子の?」
突然声のトーンを下げ、涙声になって呟き始める。
「そうなのかな……」
「ひどいよ白岡……僕の事嫌いになったの?」
目に大粒の涙をためて、京也の顔を覗き込む。
「違う! なぜか俺の部屋にあるけど断じて俺のものではない! 俺が好きなのはお前だけだ!」
とりあえず彼女を泣き止ませたい。その一心で、彼は恥ずかしい台詞を臆面もなく言ってのけた。
「本当?」
「まあ」
改めて聞き返されると、自分の発言に自信が無くなってしまい、彼は曖昧に返事した。
「白岡にとって……僕は特別?」
「うんうん」
とりあえず泣き止んできたようなので、彼は最後の一押しと思い首を機械的に縦に振った。
「えへへ、なら許してあげる」
彼女が満面の笑みを浮かべたので、安心した京也は深いため息を漏らした。
「しかし誰のだよこれ……生徒手帳とか挟まってないかな」
問題の品物のポケットに手を伸ばし、持ち主の手がかりが無いか調べようとしたら、奈々方はそれを勢いよく京也から奪い取った。
「ど、どうした?」
彼女の豹変に驚いた京也は、恐る恐る奈々方に尋ねた。
彼女は笑う。苦しそうに痛みをこらえた作り笑いで。
「これさ、捨てちゃおうか。もう、もう白岡には必要ないよね」
制服を抱きしめながら、奈々方は言う。彼女のその態度を、彼は疑わずにはいられなかった。彼女は何かを知っている。そういえばこんな事が、前にもあったような気がした。
「……そうだな。後で捨てておくから、その辺りに置いといてよ」
だけど今の自分がやるべき事など、彼女を問い詰める事ではなかった。友人として恋人として、彼女の痛みを分かち合う事が、今の自分にできる唯一の事だった。
「悪かったな、辛い思いをさせて」
「悪くないよ。白岡は、何も悪くないよ……」
肩を震わせ涙をこらえる彼女の姿を見て、京也は自分自身を強く責めた。
「ごめん。今日はもう帰るね」
彼女は謝罪を口にし、その場に立ちあがる。
「送っていこうか?」
「大丈夫。ありがとう白岡、今日は楽しかったよ」
玄関の扉を開け、家路につこうとする彼女の顔は、寂しげなものだった。
「また明日な」
「うん、また明日」
彼女が家を出て数分後、彼は問題の学生服のポケットを漁っていた。
「こういう事、やりたくはないけどさ」
何となく奈々方を裏切るような気分になっていたが、これで何か解決するするならと自分に言い訳をして誤魔化した。上着をくまなくまさぐっていると、内ポケットに予想通り生徒手帳が残っていた。
「アンリ・G・ファン=ブリッツ」
生徒手帳に書かれた顔写真を確認し、名前を読み上げる。
「誰だこれ?」
その顔も名前も、彼の知らない物だった。