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十話 亡霊

 目を覚ますと、横に彼女はいなかった。

 

 ベッドの左半分だけが綺麗に空いている。その事を、彼は少しだけ寂しく思った。

 

 まだ鳴りそうにない目覚まし時計のスイッチを切り、ベッドから起き上がる。そして、脱ぎ捨てられた女性物の制服を見つけると、安心して溜め息を漏らした。

 それからシャワーを浴び寝汗を流し、クローゼットにかけていた軍服に着替えると、自宅と車の鍵をポケットに押し込み、誰もいない部屋を後にした。




 作戦室では、深見とエドワードが頭を悩ませながら資料を眺めていた。


 駅周辺の地図が壁に掛けられており、その上には幾つもの赤い虫ピンと走り書きが添えられていた。


「よう京也、いよいよ明日だな」


 部屋に入った京也に気づくと、エドワードが気さくに声をかけてきた。


「正確には明後日からですけどね」


 明後日には、ついに三週間にもわたる停戦が明ける。

 EU軍では、それに向けて大規模な作戦が計画されていた。今現在も、その作戦の成功率をより高めるために念入りな調査が基地全体で進められていた。


「全く可愛くないねぇ」

「相変わらず、『ゴースト』の手がかり探しですか?」


 ゴースト。


 五ヶ月前、札幌駅攻略を目前に控えていたEU軍を襲った、謎の敵。

 姿を表さずに味方に近づき、至近距離でショットガンによる銃撃を喰らわせる。その戦い方は、『ゴースト』と呼ぶにふさわしい物だった。地図の上に刺された虫ピンは、ゴーストによる被害があった場所を示している。


 今回の異例の停戦も、国連軍が重い腰を上げゴーストの本格的な調査に乗り出した事が直接の原因である。

 禁止武器であるショットガンを使い次々と被害を広げていく亡霊は、国連でさえ目をつける存在にまでなっていた。もっとも、この停戦で効果が出ると考えている者など、少なくともEU軍にはいなかったが。


「これ以上は見つかりそうもありませんけどね。それに、時間はもうありませんし」


 コーヒーを飲みながら、深見は同じ資料を何度も見直していた。口では諦めた言葉を言いながらも、彼女は誰よりも仲間の死を悼み、自分の無能を悔やんでいた。


「自分も手伝いますよ」


 彼も手ごろなパイプ椅子に腰をかけ、机の上に置かれた一枚の資料を手に取った。京也も彼女と同じ気持ちを抱えていた。


 大切な仲間が、何人も殺された。それも、真っ当な戦闘ではなく。ルールのない戦いで消えた命は、戦死ではない。彼らは、一人の兵隊として死ぬことさえ許されなかった。


「そのことなんだがな、少尉、曹長。二人は今日は休んでろ。明日は……明後日だったな。いよいよ作戦があるからな」


 ファイルから顔をあげ、資料を睨みつける京也と深見にエドワードは言った。


「……ですが」


 すると当然のように、深見から反論が聞こえてきた。


「休むのも仕事のうちさ。少尉もほら、さっさと資料置いて」


 しかし、こういう時の頑固さではエドワードの方が上だった。

 彼の胡散臭い笑顔は、二人から資料を読む気力を削ぐには十分効果があった。二人は手に持っていた資料を元の場所に戻すと、大きな溜め息を同時についた。


「それなら、少し散歩して来てもいいですか?」


 突然思い立ったように、京也はエドワードに尋ねた。彼は、まだ暖かかった日にしたアンリとの約束を思い出したからだ。まだ、彼女を見つけられていない。


 人を探すには、停戦中ほど都合のいいものはない事に彼は今更ながら気づいたのだ。


「散歩? どこまで?」

「ちょっと駅前まで」


 不思議そうに尋ねるエドワードに、京也は笑いながら答えた。

 彼は何気なくそう答えたが、まだどこに行くかは決めていなかった。ただ、行くあてはどこにも無かったので、許可が出るなら本当にそこに行くことにした。


「な、何考えているんですか!? いくら停戦中だからってそんな危険なこと」

「いいよ、行ってらっしゃい」


 うろたえる深見とは対照的にエドワードは彼の思いつきをあっさり承諾した。


「ではちょっと、行って来ますね」

「お土産も忘れないでねー」


 彼は椅子から立ち上ると、そそくさと部屋を後にした。後ろから深見がエドワードを怒鳴る声が聞こえたが、彼は聞こえないふりをした。


 部屋を出るとすぐに、一人の新兵がそこに立っていた。


「どうした佐原? 盗み聞きは良くないな」


 彼は新しく深見の下に配属された軍学校を出たばかりで、まだ銃の打ち方を訓練場と教本の上でしか知らない。軍学校の成績は優秀だが、それが戦場で役に立つかどうかは別問題だ。


「いえ、そういうつもりでは……」


 名前を呼ばれた佐原が、申し訳なさそうな顔をして答えた。

 人望も厚い成績優秀な生徒会長の面影は、もうどこにも無かった。


「まあ、そんな大事な話はしてないよ。何か用があるんなら、早くしてくれると助かるんだけど」

「あるといえばありますが、いえ少尉に聞いてもらうような事では」


 軽く急かして見ても、佐原は煮え切らない顔を変えなかった。


「そう言えば、お前は明日が初めての実戦だったな。その事か?」

「その……はい。少し差し出がましいように思えますが……」


 自分が初めて人を殺した時を思い出す。まだ背も伸びきっていない当時の自分に、命の価値なんて解らなかった。

 敵と練習用の的に、大きな区別は無かった。


「いいよ、どうせすぐに忘れるから」

「……人を殺して、本当に平和になるんでしょうか?」

「それを信じないで、どうやって戦うんだ?」


 今は違う。


 殺す者も、殺される者も同じ人だ。わかりあえなくて、死ぬのが怖くて、俺達は引き金を引いて行く。そうすることでしか、この道は終わらないと信じて。


 それを教えてくれたのは、馬鹿話の好きな友達だった。


「すみません、そうですね」

「謝るなよ、俺が悪者みたいじゃないか。じゃあな佐原、ちょっと散歩してくるよ」


 振り返らずに佐原に手を振りながら、彼は基地を後にした。




 誰もいない駅前は、やけに寂しく見えた。


 そこら中に散らばる薬莢とコンクリートに残された弾痕が、かつてここが人で賑わっていた過去を覆い隠している。

 彼は足元にあった薬莢を一つ掴み、持ちあげた。


 鈍い金色の光を映す五、五六ミリ口径のそれは、自分たちを包み込む世界をどんな言葉よりも語っていた。


 戦争だ。こんな平和な場所には無縁な筈の戦争が、今確かにここにある。


「どうして……」


 手に持ったそれを眺めながら、彼は呟く。どうして戦争をしているのか。どうして親友を撃たねばならないのか。その問いに、答えてくれる者はいない。


 彼はポケットに薬莢をねじ込み、もう一度辺りを見回した。

 平和だった時に建てられた高いビルが彼を見下ろす。世界を変えるには、彼はあまりにも小さすぎた。


 途方に暮れ空を見上げる京也に、土を踏みしめる誰かの足音が届く。

 その瞬間、彼はすぐに腰から拳銃を引き抜き、音のする方向に向けた。


「誰だ?」


 白衣を着た背の高いヨーロッパ系の外国人が、突きつけられた銃に気づくと、疲れたような顔をしながらゆっくりと両手を上げた。


「君こそ、いきなり銃を突き付けなくたっていいじゃないか」


 黒ぶちの眼鏡にかかる灰色の髪の毛を風に揺らしながら、その男は諭すような口調で文句を言って来た。


「所属と名前は? どこの軍だ? 見たところ、軍人には見えないが」

「名前はギルベルト=ファン・ブリッツ。所属は国連軍だよ。ところで、まず自分から名乗るのが礼儀だとは思わないかい?」


 その男は笑いながら、自らをギルベルトと名乗った。

 その名前に、京也は聞き覚えがあった。


「EU軍所属、白岡京也少尉だ。あんたがギルか」

「どうも、アンリがお世話になってるね」


 彼の二度目の笑顔は、一度目よりももっと人懐っこい物になっていた。

 毒気を抜かれた京也は、銃を戻し空いた手で頭を掻いた。


「頼むから、さっさと引き取ってくれ……」

「そう言わないでよ。立ち話もなんだし、どこかに座らないかい? もっとも、ボロボロのベンチが関の山だけどね」

「それだけあれば十分さ」


 誘われるがままに、京也はギルベルトと一つのベンチに座った。ギルベルトは白衣のポケットからくしゃくしゃの煙草とイルカの絵がプリントされたオイルライターを取り出し、口にくわえ火をつけた。


「一本いるかい?」


 煙をゆっくりと吐き出すギルベルトが、煙草の袋を京也に向けた。


「未成年だから、遠慮しておくよ」

「そう、懸命だね」


 煙草とライターを元の場所に引っ込めると、また煙草の煙を深く吸い込んだ。


「ところで、アンリとどんな喧嘩したんだ?」


 ギルベルトに聞きたい事はたくさんある。戦争の事や、記憶の事。その筈なのに、彼は何故か真っ先にアンリの事を尋ねた。


「彼女がそう言ったの?」

「詳しくは聞かなかったけどね。ただ喧嘩して家出したとだけしか」

「そっか。ならそういうことなんじゃないかな」

「あんたって適当なんだな……」

「よく言われるよ」


 笑いながら、ギルベルトは答える。それからまた煙を吸って吐き出し、言葉を続けた。


「君の方はどうだい? 記憶が繋がった感想は」

「やっぱり、あんたもそれぐらいは知っているんだな」

「もちろん。機密事項だから詳しくは話せないけどね」

「感想か……そうだな、最初はやっぱり戸惑ったな……いや、今だって、まだ全部納得したってわけじゃない。けど、さ」


 二つの世界が繋がっても、わからない事はまだ山積みだ。

 どうして俺だけ記憶を取り戻したのか。アンリは一体、何者なのか。それを知ってそうな目の前の男は、答えてくれはしないだろうけど。


「立ち止まる事も、後戻りする事も、できない道を選んだから。俺は進むよ、自分の意志で」

「人殺しは、悪い事だって教わらなかった?」


 目を少しだけ鋭くさせて、ギルベルトは京也に聞く。

 人間であるならば誰もが知っている常識を、今一度彼に尋ねた。


「知ってるよ。だけど俺は弱虫だから、心から死ぬのが怖いんだ」


 そう答えながら、彼は岩原の顔を思い浮かべた。

 銃を持ちながら、銃を向けられながら、打たない事を選んだ親友を。


「そうなんだ。君は自分に素直なんだね」

「自己中心的なだけさ」

「そうとも言えるね」


 納得したようにギルベルトは頷くと、今にも朽ち果てそうなベンチから立ちあがり持っていた煙草の火をもみ消した。


「さて、僕はそろそろ帰るよ。楽しかったよ、色々な事が聞けて」

「なあ、最後に一つ聞きたいんだが……アンリが今、どこにいるか知ってるか?」


 また彼女の事かと自嘲しながらも、京也は背筋を伸ばして体をほぐす彼に呼びかけた。


「女の子の居場所ぐらい、自分で探す物じゃない?」

「意地悪だな、あんたは」

「よく言われるよ……そうだ、僕からも一つだけ」


 駅の構内に足を向けたギルベルトは、振り返り京也に言った。


「『戦争』の日に、君はアンリに会わない方がいい。君はきっと、今以上に傷つくから」


 その顔に、笑顔も無邪気さも無かった。


「これ以上、傷ついたって構わないさ」


 心からの彼の忠告を聞かない事を、京也は面と向かって言葉にした。


 約束が一つ守れるなら、と。

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