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九話 転校生

 白熊の目覚まし時計が喧しい電子音を鳴らしても、彼は相変わらずヤドカリのように布団にくるまったままだった。

 冷えた手を擦り合わせ、自前の息で少しだけ温めたところでようやく、布団から左手だけを伸ばしアラームのスイッチを切った。


 二度寝の誘惑に駆られたが、彼は覚悟を決め布団から起き上がった。


「さむっ」


 そしてまたすぐに、温もりがまだ残る布団にくるまる。季節はもう十一月、北国の長い冬が幕を開けようとしていた。




 教室の扉を開ければ、いつもの光景が広がっている。

 

 クラスと談笑する、ポニーテールがトレードマークの委員長。

 つまらなそうに、窓際の席で一人漫画を読んでいる山内。


 変わらない。京也が岩原を殺したあの日以降、このクラスの人数は奇跡的に変化がない。


鞄とマフラーを自分の席に置くと、京也は早速山内に声をかけに行った。毎朝そうすることが、彼の日課になっていた。


「よう山内、何読んでるんだ?」

「昨日出た漫画なんだけど……もう三回も読んだから飽きちゃったよ。読む?」


 山内は持っていた派手な表紙の漫画を閉じると、そのまま彼に差し出した。


「悪いな、借りてばっかりで」

「いいよ、気にしないで」


 申し訳なさそうに本を受け取る京也に、山内は笑って見せた。だけどその笑顔は、少し寂しげなものだった。


「山内、お前は本当いい奴だな。どこかの誰かとは大違いだよ」

「誰のこと?」


 岩原が死んだ翌日、誰ひとり彼を覚えている者はいなかった。

 それは、あれほど仲の良かった山内も例外ではなかった。


「お前の知らない奴だよ。ちょっとした知り合いさ」


 しかし、それでも山内は変わってしまった。


 親友が突然いなくなってしまったその寂しさは、偽物の記憶では誤魔化せはしないのだろう。

 だから京也は、あの日以来、誰よりも山内の事を気にかけた。贖罪にすらなりはしないと知りながら、それでも何もしないでいる事は出来なかった。


「ふーん」


 興味のない返事を山内は彼にする。それから二人で、他愛もないお喋りを続けた。


「ほらほら白岡、そろそろ先生が来るよ? もう怒られたって助けてあげないからね」


 ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴っても雑談を続ける二人に、奈々方が声をかけた。


「わかったわかった、すぐに座るよ」


 渋々言われた通り自分の席に戻ると、すぐに深見が出席簿を抱え教室に入ってきた。


「おはようみんな、今日は寒いな。奈々方、号礼を頼むぞ」

「起立、礼……」


 彼も立ち上がり、そのまま頭を下げ、何気なく窓の外を見た。四階の教室から見えるような建物などこの辺りには無く、ただまっさらな空だけが広がっていた。


「着席」


 真っ青な画用紙に、白いインクが染み込んでいく。


 今にも溶けだしそうな一筋の雲が、風に揺られて前へ前へと進んでいく。


 そこにある青い空は変わらなくても、流れていく雲は昨日とは違う。どれほど同じように見えても、そこにある景色は、いつだって少しづずつ違っている。

 

 ほんの少し見方を変えるだけで、変わっていくその空は、途方もなく綺麗な物に見えた。


「おい白岡、何時までも礼しているんじゃない」


 深見の呆れ交じりの声で、ようやく彼は現実に引き戻された。

 クラス中が彼を見て、小さく笑い始めた。馬鹿笑いしてくれる悪友も、説教してくれる女の子も、回りを見回してもどこにもいなかった。


「あ、すいません」


 疲れているんだ、と自分に言い聞かせ、彼はゆっくりと着席した。


「それでは今日の連絡……の前に。転校生を紹介したいと思う」


 教室が歓声を上げている理由を、深見の言葉を聞き伸ばした京也には全くわからなかった。しかし、嬉々としてお喋りを始める彼らを見て、何かいい事が起きるという事は判断できた。


 こうやって、何となく楽しい雰囲気にいるのは、彼にとっても嬉しいことだ。


 明日はまた、あんな事をしなければならないのだから、せめて今日ぐらいは、彼らに楽しい一日を。だけどその輪の中に、自分は入らなくていい。


 俺はもう、後戻りできないのだから。


「そう騒ぐな。ほら、入っていいぞ」


 元気よく教室の扉が開かれ、一人の少女が姿を現した。その瞬間、誰もが息をのんだ。ただ彼女が、あまりにも綺麗だったから。


 空のように青い髪を揺らしながら、絵本から飛び出してきたような少女が、真っ直ぐと教壇に向かって歩いて行く。


 笑顔を浮かべるその少女に、彼は一度だけ見た事があった。


 忘れはしない。まだ、果たしていない約束があったから。


「アンリ・G=ファン・ブリッツです。よろしくお願いします!」


 ぺこり、と行儀よくお辞儀をしてようやく、忘れられていた歓声が湧き上がった。

 

 男子は野太い声で、女子は甲高い声で。重なり合った二つの音色が、耳障りな音になって教室中を包んだが、その音に顔をしかめた者はいなかった。

 京也にさえ、その音は届かなかった。彼はただ、間抜けな顔をしてアンリの顔を眺めていた。制服姿はよく似合っていたが、彼女にはどうも不釣り合いなように思えた。


 彼女は自分と同じように、戦争の事を知っているからだろう。


「京也、久し振り! 元気だった!?」


 アンリは京也の顔を見ると、右手を振って合図をした。その瞬間、クラス中の視線が京也に集まった。

 あるものは好奇を込めて。またあるものは恨みを込めて。


「まぁ……なんとかね」


 あいまいな返事で答えても、クラスの怒号を大きくするだけだった。




「ここが理科室で、ここが職員室。こっちが美術室で……」


 放課後、クラスメイトからの質問攻めから逃れた京也は、アンリに校内の事を案内していた。

 本来はクラスの代表者でもある奈々方がやるべき仕事なのだが、彼女は既に知り合いである京也の方が適任だと深見に進言し、結果その通りになってしまった。


「ねぇ京也、『案内』っていうのは校内の地図をただ眺める事を言うの?」

「仕方ないだろ。お前を連れ回すのは面倒くさそうなんだから」


 彼女の外見は、それだけで人目に付く。ただでさえ珍しい転校生という存在が、こんな可愛い子であれば行く先々で声をかけられ時間を取ることになるだろうと、彼は判断した。


「つまんなーい」


 その内面については、わがままなだけなのだが。


「手っ取り早く終わらせた方が早く家に帰れるだろ」


 彼にとっても一日かけてじっくり学校の中を案内するのも悪くは無いとは思えが、それ以上に全身を包む疲労が勝っていた。お喋りを続けるよりも、ただ部屋の布団で眠っていたかった。


「あ、そっか。準備とかあるもんね」

「何の準備?」

「ふっふっふ、ついに私、独り立ちすることになりました」

「なるほど、一人暮らしの準備だったのか。おめでとう、寝坊はするなよ」


 突然こんな時期に学校に来るなんてどういう風の吹きまわしなのだろうと疑問に思っていたが、どうやら社会勉強の一環らしい、と彼は判断した。


「でもいきなり右も左もわからないアパートで一人暮らしってハードル高いよね? 不動産屋さんに行くのだって大変だし、何より寂しいし! そういうわけで」

「さて、説明も終わったし帰るか。じゃあなアンリ、また明日」


 これ以上会話に付き合っていると日が暮れそうだったので、彼女の言葉の終わりを待たずに玄関に向かって歩き出した。


「ちょっと、最後まで聞いてよーっ!」


 その背中を、アンリは目を潤ませながら追いかけた。




 結局京也は、泣きつくアンリを置いて行くことができずに一緒に帰ることにした。

 下校中はほとんど学校の説明だけで終わり、すっかり日は沈んでしまっていた。


「ところでお前、どこまでついてくるんだ?」


 しかしアンリは最後まで京也の隣から離れず、とうとう彼のマンションの前まで来ていた。


「どこって、もちろんここまで」

「ここ、俺の部屋だぞ?」

「もちろん知ってるよ?」

「そうだよな、ここは俺の部屋だよな……」


 部屋の番号を確認すると、確かに自分が住んでいるマンションの308号室だった。


「寒いから早く鍵開けてよね。風邪引いちゃうじゃん」

「あ、悪い悪い」

「ただいまー! やっぱり冬は寒いねーっ。暖房つけてもいい?」

「ああ、頼む」


 部屋の隅に置かれたファンヒーターの電源をアンリが押すと、ヒーターから小気味のいい音とともに温風が送られてきた。

 そのまましばらく、彼はその場に立ち尽くした。


「なぁ、ここは俺の部屋でいいんだよな?」


 目の前の少女があまりにも自分の部屋が不釣り合いだったので、彼は本当に今いるこの場所は本当に毎日自分が寝泊まりするかどうかをまた確認した。


「決まってるじゃん。変な京也」

「だったら……何でお前がまだ俺の部屋にいるんだ? お前どこに住んでるんだ?」


 もしかすると彼女は自分の家に遊びに来ただけかもしれないと彼は思ったが、その考えを直ぐに捨てた。ついさっき、間違いなく彼女は『ただいま』と言ったのだ。

 それは普通、自宅に着いたときに言う言葉だ。


「いやーやっぱり冬と言えばコタツですね」


 彼の質問を聞き流し、彼女は部屋の真ん中に置かれた電気式のコタツに足を潜らせた。


「人の話を聞け!」


 あまりにマイペースなアンリに耐えかねた彼は、彼女の耳を強く引っ張った。


「痛い痛い、答えるから離して!」


 大きな溜め息を一つつくと、彼は彼女の耳から手を離し、先ほどの質問を繰り返した。


「んで、お前はどこに住んでるんだ?」

「あ、今日からここに住む事になったから。ところでテレビのリモコンどこ? ドラマの再放送見逃し」


 不自然な彼女の言動に単純にいらついた京也が、今度は反対側の耳を強く引っ張る。


「ごめんなさい、今のは流石にわざとやりました!」

「頼むから事情を説明してくれ……」


 彼はすぐに手を離し、さらに深い溜め息をついて彼女に説明を促した。


「だから、私もいつまでもギルに迷惑かけてばかりいられないから、独り立ちしようと思ったわけですよ。でもいきなり一人暮らしってのは、流石の私にも耐えきる自信がないかなーと」

「だからってどうして俺の所に来たんだよ」

「お願い! 京也しか頼れる人がいないの!」


 まるで仏像にでもすがるように、彼女は京也に向かって手を合わせて懇願した。


「眼を潤ませたって駄目だ、出ていけ」

「ひどい! こんな美少女を寒空の下に放りだそうとするなんて!」

「大体お前の話嘘くさいんだよ。なんで一回会っただけの男の家にわざわざ来るんだ? だいたいどこから登校してきたんだよお前は。本当の事を言え、本当の事を」


 そう聞いてもアンリはまた黙っているだけだったので、彼は今度は鼻でも引っ張ろうかと思い彼女の顔に手を近づけたが、すんでのところで彼女の口が動き始めた。


「実は……家出しました。ギル以外の知り合いって言ったら、京也しか思いつかなくて……」

「……家庭内の揉め事に俺を巻き込まないでくれ。ほら、そのギルって人にさっさとごめんなさいして家に帰れ。電話ぐらいなら貸してやるぞ?」


 真相を聞いた京也は、結局そんな事かと呆れながらも、彼女に一番丸く収まりそうな解決策を提示した。


「いやだ!」


 アンリはそれを、たった三文字で断った。


「わがままばっかりだな……大体着替えとかはどうするんだよ。それに生活費は?」

「じゃん!」


 得意げな顔をして、彼女は財布の中から一枚のカードを取り出し、彼に見せつけた。


「またそれか」


 ブラックカード。

 

 車はおろか家でも買えてしまう、大金持ちにのみ持つことが許されたカードを目にするのは、彼にとっては二度目であった。


「この現代社会で、クレジットカードに不可能はない!」


 黒光りするカードを京也の顔に押し付けようとしながら、彼女は真剣な眼差しで京也を見つめた。


「止められたらどうするんだよ」


 しかし彼女は、クレジットカードは持ち主がカード会社に電話すればいつでも停止してもらえる事を知らなかったようだ。


「……てへっ」


 その証拠に、彼女は笑ってごまかそうとした。


「兎に角だ、さっさと家に帰って謝ってこい。そうしなかったら毛布一枚貸さないからな」

「酷いなぁ。大体京也は嬉しくないの? こーんな可愛い子と一緒に暮らせるんだよ? 朝起きたら私が横で寝てるんだよ?」


 アンリは立ち上がり、自分の顔を指さしながら京也に言い寄った。


「別に、お前と一緒にいるのが嫌だってわけじゃないさ。疲れはするだろうけど、結構楽しいだろうな」


 確かに、彼女の言う通りだ。

 朝起きれば、笑い合える人がいる。一緒に学校に行って、一緒に食事をして。


 ただそれだけの平凡な毎日はきっと、何よりも素晴らしいものだろう。


「だったら……」


 まだ何か言いたそうなアンリの頭を、彼は優しく撫でた。


「けど、けどさ。今日は学生でいられても、明日は人を殺すんだ。嫌なんだよ、自分だけが、笑って暮らすのは」


 自分は知りすぎてしまったから。

 後戻りできない道を、選んだから。以前のように、能天気に暮らしていく事はもうできそうになかった。

 そうしようと考えるだけで、罪悪感に胸が締め付けられた。


「……京也、なんか変わったね。前よりも、もっと悲しそうな顔してる」


 優しく笑う彼の顔が、アンリには泣いているようにも見えた。


「お前は相変わらず、能天気なままだな」

「なんてったって、それだけが取り柄だからね!」


 彼女も笑い、胸を張って自分の長所を自慢した。

 それが空元気であることぐらい、いくら鈍感な彼にも分かった。


「わかった、わかったよ。何日かぐらいなら泊めてやる」

「本当!?」

「ただし! ちゃんと保護者の人と仲直りすることが条件だ。わかったな?」

「はーい」

「ったく、調子のいい奴だな」


 念を一応押しはしたものの、本当にアンリが解っているかは疑問だった。


「あ、着替えと歯ブラシ用意しないと。あとはいつも使ってるリンスとシャンプーと……ねぇねぇ、今からスーパー行こうよ」

「嫌だ、寒い」


 機嫌を良くしたアンリとは対照的に、京也はコタツに潜り込み、鞄から今日借りてき漫画を読み始めた。


「晩御飯とかどうするつもり?」

「戸棚にインスタントラーメンが一つ残ってるから、それでいいや」

「私の分は?」

「自分で買ってこい」


 色々な事がありすぎたせいで疲れていたので、今さら外出する気力などと言うものはとうに失せていた。それに、アンリと買い物と聞くだけで全身を疲労感が襲った。


「もう! 本当に私一人で行っちゃうんだからね!?」

「だからなんだよ……ほらさっさと行ってこい」


 彼女はどうしてもついて来て欲しいようだったが、それをわかっていながらも彼は彼女を軽くあしらった。


「本当だよ、本当に行ってくるんだよ? もう会えないかもしれないよ?」

「行ってらっしゃい」

「……行って来ます」


 悪い事をしたかなと思いながらも、彼は部屋を出ていく彼女をそのまま見送った。そして持っていた漫画を閉じ、その場で寝転んだ。


 そして少しだけ、目を閉じた。




「ただいまー! まったく、女の子一人にするなんて信じられない!」


 近くのスーパーでなんとか必要な物を揃えて来たアンリが、部屋に入るなり大声で文句を言った。


「京也、聞いてるの!?」


 コタツで横になっている京也に不機嫌そうに大股で歩きながら近づき、彼の顔を覗き込んだ。


「って寝てるし……」


 疲れ切っていたのだろう、彼はだらしなくもよだれを垂らしながら、無邪気な寝顔を浮かべている。あの悲しそうな笑顔は、今だけは消えていた。


「ごめんね、迷惑かけて」


 アンリはそう呟くと、彼の体を抱えるように持ち上げた。風邪をひかないように布団に寝かせることぐらいでしか、彼への感謝を示せない自分に少しだけ嫌気が差しながら。


「よっこいしょ……うわ、結構重いな……」


 ベッドの上まで何とか移動させると、彼女は大雑把に京也の上に毛布と布団を掛けた。


「ここをこうして……うん、これでよし」


 そして彼女も、制服を脱いで買って来たばかりのTシャツに着替えると、彼の布団に潜りこんだ。夕食は食べてはいなかったけど、一人だけで食べるぐらいならそのまま寝てしまう方が良かった。


「おやすみ、京也」

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