序章
闇に覆い被さられている夜の中には一つの淡い光が空に佇んでいた。冷気の含む柔らかい空気が流れ、それは先程から憂いの表情を浮かべている男の頬を撫ぜる。僅かに鼻息を漏らし、盃を傾け、咽を潤した男の背後には彼の最も信頼における、幼い頃からの友人が居た。彼は男の側近であり、優れた頭脳を有している所謂策略家であった。
高級感の漂う裾を床に垂らし、彼は静かに唇を開く。
「お身体が冷えますゆえ、もう中へお入りに」
死角で側近は恭しく頭を下げる。男はなにも発することなく再度盃を口へ運んだ後、悩ましげな溜め息を吐いて、上半身を晒した身体を震わせる。動物の毛皮を羽織っていたとしても、ほとんど裸の身体には効果はない。息を吐いた場所からは白い靄が現れていた。
気付いた側近は慌てる様子もなく引きつった笑いを口端に刻む。
「ほら、言ったでしょう」
「……悪い」
鼻を啜り、二の腕を摩る男は到底この大国を治める王とは思えなかった。いかにも普通の男であり、見方を変えれば酔っぱらいの親父。もし、この言葉を口にするとなれば男は咎めることなく豪快に笑って黄金色の瞳を細めているだけだが。
暫らくして居心地の良いとはいえない気まずい沈黙が訪れた。男は動こうとはしない。否、正確には動く気力がないと述べたほうが正しい。
側近は眩い一筋の光を睨めつけるような形で見て、やがてゆっくりと口を開いた。
「まだ、忘れられないのですか」
からん、と軽い物体が落ちる音がした。それが盃だと側近は瞬時に理解する。
――主は動揺しているのだ。
片手にあった筈の物がないことに気付いた男は何度か指先を動かし、それから手をきつく握りしめ胡座を掻いている太腿へと置いた。
「そんな、わけねえだろ」
空気が震える。我ながら情けない声音だと男は胸中でごちた。
「……王。もう終わったことなのです。あの者に会ったことは、どうか、お忘れください」
悲願するように側近は言った。男も十分に気持ちを察している。だからこそ、認めたくない。ぎりり。奥歯が微かに軋んだ。
男の脳裏には、側近の述べる、あの者が現れていた。形のいい唇を緩ませ、瞳を細ませる。きらきらと本当に、彼女の背後には輝くなにかがあった。しかし、そのなにかとは自分だけの視界だけで繰り広げられていただけだったのかもしれない。分かりやすく説明するのならば、幻の類に似ている。
「忘れねえよ」
振り返り、側近の双眸をしっかりと見据えて、またゆっくりと唇から音を零す。
「それを忘れるということは、俺たちが今まで過ごしてきた思い出も、命を賭けて大業を成し遂げたことも全てなかったことになってしまう。……そうだろ?」
おどけながら問いを投げた男に側近はなにも言い返す言葉が見当たらず、かぶりを振った。例えあったとしても阻まれる。それは主自身を否定してしまうことになることを彼は十分に理解していた為であった。聡明な彼はきゅ、と唇を結び、一つだけ言おうとした助言を必死に飲み込んだ。
「また、会えるさ。きっと」
はっと自分に言い聞かせるように紡いだような気がして、男は思わず苦々しく笑みを浮かべる。察した側近は困ったように眉を垂らし、くしゃみをした男に短い吐息を吐いた。
淡い光は静かに、二人の様子を静観するように瞬いている。そういえば、と男は部屋に戻る歩を止めた。
「あの日も、月が出ていたな」
「……そうですね」
どこか慈しみのある眼差しで、見つめた後、男は暗闇に身を投じた。