First Hit 「先生と生徒の秘密の関係」
「アールグレイ、様子はどうだ?」
「茶葉の具合は上々だ。現在蒸らし中。いつでも最高のが飲めるぞ」
「良い返事だ。お前にかかると、どんな物でも極上の香りを放つ」
「褒めても紅茶以外出ないぞ。それじゃあ、ティータイムだ」
狭いダクトの中で、男はさもリクライニングシートがあるように体を後ろに倒す。そして、両足を突っ張る事で固定し、手に持っている金属に頬を押し付けた。
「下見の時にここを掃除しときゃよかった。この埃まみれのスーツじゃ、また奴らに何て言われる事やら……」
ぼやきながらスコープを覗き込む。男の目に、恰幅の良い白髪の目標が映った。男の指が柔らかく引き金にかかる。
[ズキューン]
エレベーターが開くと、黒スーツの男が用心深く出てきた。少し歩いてフロアに誰もいない事を確認すると、エレベーターの中に向かって目配せをする。すると、男を二人付き従えた白髪の男が堂々とした様子で出てきた。
しかし、その白髪の男は首を僅かに横に傾け(かたむけ)たかと思うと、そのままゆっくりと体を床に倒した。右のこめかみかに開いた穴から血が噴き出し、簡単に即死だと伺える。
「しゃ…社長!」
先に出ていた男一人と、エレベーターから遅れて出てきた男の一人が倒れた白髪の元へと駆け寄り、計四人の男が社長と呼ばれた白髪の男を見下ろして愕然としていた。
「馬鹿な……。一人がエレベーターの釦を押している僅かな時間、人壁の右に出来た一瞬の隙を狙ったと言うのか……」
男達は弾丸が飛んできたと思われる方向を見た。フロアに五十センチ四方の小さな窓があり、その窓ガラスに小さな穴が刻まれていた。
「防弾ガラスで囲まれた部屋を目の前にして……くそっ!」
男達は恨めしそうに窓ガラスの穴を見つめ続けていた。
◆ ◆ ◆
「また遅刻だぁ!」
けたたましく走る原付バイク。しかし、アクセルを回しすぎている訳では無く、エンジンの調子が悪いだけだったりする。その証拠にスピードメーターは30の数字を振り切る事は無い。
アンティークかと思われるような旧型のスクーターから降りた男は、前かごの防犯ネットを外して取り出した鞄を小脇に抱える。職員室へ向かうその男の腕時計が指し示す時間は午前八時。教員朝礼がある月曜日としては堂々の遅刻であった。
「遅い!」
職員室に入ったとたん、男は巨大な三角定規で頭を叩かれた。男は、痛いのか申し訳ないと表現しているのか判断がつき辛いが、ぼさぼさの頭を掻きながら叩いてきた女教師に頭を下げる。
「すみません主任……」
「座りなさい!」
髪をアップにし、黒縁眼鏡をかけた女教師に机を指差され、男はすごすごと席に座った。
そんな男に、隣の席の女性が小声で話しかけてくる。
「夜遊びは程ほどに。大原センセ」
「やだなぁ、横田先生。違いますって……僕は…」
男はまだ言い足りなさそうだったが、話しかけてきた女性が前を向き直ると、彼は口を何度か開いたり閉じたりを繰り返してからつぐんだ。
教諭主任による長い朝礼が終わった時、時刻は八時二十五分になっていた。教師の面々はそれぞれホームルームをするために、各自担任のクラスへと向かう。
「ふぁーあ……」
大原と呼ばれたぼさぼさ頭の男も、一時間目の授業の用意を持って自分のクラスへと歩く。その遅い足取りでは、ホームルームの時間さえも無くなってしまいそうだと思わせる。
「大原先生!」
ふいに声をかけられ、大原はぴんと背筋を伸ばした。振り返ると彼の予想通り教諭主任である本田沙織が腰に手を当てて立っていた。
「な…なんでしょうか? 主任……?」
「裾が汚れていますよ! みっともない! そんな事だから生徒に舐められるんです!」
大原が足元を見ると、真っ黒な綿埃がいくつかズボンの裾に付いていた。
「あっれぇ? 昨日綺麗にしたと思ったんだけどなぁ……」
「何をしたらそんな汚れが付くのですかっ!」
「いやぁ……昨日の晩に大掃除をして……」
大原が目を反らしながら言うと、本田はますます目を吊り上げて口を尖らす。
「一体いつから掃除をしなかったらそんな汚くなるのですかっ! あなたは人を教え、導くべきである教育者である自覚が…」
「おっと、今日は確か転校生が来るから早めに行かなければ行けなかったんだ!」
「大原先生っ!」
大げさに廊下に吊り下げられてある時計で時間を確認した大原は、バタバタと走って職員室から逃げ出した。その背中にはいつまでも本田の金切り声が響いていた。
「まったく、結婚できないストレスを俺に向けて発散しないで欲しいよな」
愚痴をこぼしながら大原は事務室へ来た。今日からの転校生は、この辺りで大原が迎えに来るのを待つ段取りになっている。
すると、探すほどでも無く、すぐにそれらしき子が目に付いた。赤いランドセルを背負い、それに笛を挿しこんでいる女の子。体操服袋を右手に持って、左手にはお道具箱が入った手提げを持っている。
「君……が転校生かな? 今日、お父さんは来ていないの?」
「父は仕事で来られない」
目の大きな少女は大原を見てその言葉だけを言った。鼻筋が通っていて、小学校五年生の割には大人びた印象を大原は受けた。
「そっか。この間はお父さんだけだったね。まあ良いや。でも……鞄が赤かぁ……」
「ランドセルが何か変か? どう見ても完全に普通の小学生の姿のはずだが?」
女の子はぶっきらぼうに答える。最近の小学生はアニメやら漫画の影響で、すぐ流行の口調に変えるため大原はまったく気にしなかった。
「うちの学校は私立だから、男子も女子もランドセルは黒なんだよね。お父さんに僕が伝え忘れたかなぁ……?」
首を傾げている大原の前で、女の子は慌ててランドセルを背中から下ろす。
「何っ! それはこちらのミスだ。周辺に違和感を持たせないため、すぐに迷彩を施さねば。……黒のスプレーを持っていたら貸して欲しい。出来れば油性を!」
女の子はランドセルを廊下に置くと、大原に向かって真剣な顔で手を差し出してくる。
「す…スプレー? いや、持ってないし、それにそのランドセルでも良いよ。買い換えるのとかもったいないしね」
「目立つ鞄のせいで蜂の巣にされなければ良いが……」
少女は再びランドセルを背負い、用心深く周辺に視線を配った。
(結構変わった子だなぁ。何のアニメキャラだろ。横田先生に聞いたら分かるかな……?)
現代っ子の奇行に慣れている大原は、何事も無かったかのように転校生と共に教室へ向かった。
「はい、ちゅうもーく! みんな期待の転校生でーす!」
教卓に立った大原は、廊下に向かって手招きをする。すると、赤いランドセルを背負った少女が中の様子を伺うように入ってきた。
「男子が知りたくてたまらない彼女の名前はぁ……はいっ! どうぞっ!」
大原が差し出すように両手を女の子に向けたが、彼女は大原を見て眉間にしわを寄せるだけだった。
「えっ……っと、先生が言っちゃおうかなぁ! 『高田舞花』ちゃんです! 拍手ぅ~!」
大原のテンションに押されて、クラスからぱらぱらと疎らな拍手が起こった。
「皆、仲良くしてあげようねぇ~」
大原の声だけが浮いて聞こえた。
一時間目の授業を終え、大原は職員室に一旦戻る。そして、次の授業の教科書を手にすると、休む暇も無く猛ダッシュで教室にとってかえした。
大原がそろそろと窓から覗くと、予想通り転校生の舞花がクラスメートに囲まれていた。どうやら舞花のランドセルが赤い事についてからかっているようだった。
(やっぱりこうなると思った。日本人って人と違うものを嫌うからなぁ)
大原は出て行くタイミングを見計らう。この件に対する舞花の対応により、打ち解けて仲良くなる機会もあると思ったからだ。
「痛いっ!」
男の子の悲鳴が教室に響いた。突こうとしてきた男の子の腕を、舞花が後ろに捻りあげたのだ。そしてその男の子の膝の裏を蹴って、舞花は自分の前に男の子を後ろ向きで跪かせた。
「はい、はい、はい、はいっ! そこまで~。皆仲良くしようねー」
大原は手を叩きながら教室に入った。すぐに女子の一人が駆け寄ってくる。
「先生! 舞花ちゃんが合気道で、吉岡君を……」
「うんそうだね。でも、先に手を出したのは先生見ていたけど吉岡君だったね~」
報告をしてくれた女の子の頭を撫で、大原は舞花の所へ行く。
「でもやりすぎだよ~。高田さん」
大原が近づくと、舞花は拘束していた吉岡君を放した。そして、自分に向かって手を伸ばす大原に、感情の無い目を向ける。
「あっ! いたたたた……、ちょっと! ギブ! ギブアップ!」
次の瞬間には、大原が左腕を取られて関節を後ろに固められていた。体格の違う大人でも一瞬にして技を極めた舞花にクラスの子供達はどよめいた。
周りの子が口々に「先生を放して」と言うと、舞花は突然ハッと我に返った顔をして腕を放した。そして、うろたえた様子で舞花は後ろに下がりながら言った。
「失礼しました、シャー」
「……シャー?」
大原が舞花に聞き返すと、途端に教室中が笑いに包まれた。皆口々に「変な語尾」「高田さんが変な言葉を使ったシャー」「この前吉岡君が使ってたのよりは可愛い」と騒ぎ出す。
「はい、ちゅうも~く!」
大原は生徒の視線を集めると、ゆっくり話し始める。
「だれもが人と違う所はあるけど、それは『個性』と言うものだからね。物には色んな種類が無ければつまらないだろ? ゲームソフトも色んなのがあるし、食べ物もいっぱいある。人間もそうなんだよ」
皆が聞き入っているところに、大原は付け足す。
「それに、舞花ちゃんが赤いランドセルなのは、……先生が伝え忘れたんだ! だから、公立の小学校と同じ赤いランドセルを舞花ちゃんは用意しちゃったんだよ。先生のミスだけど、先生は知っての通り貧乏だ。新しいのを買うお金が無い! だから、舞花ちゃんは赤色のランドセルで通わせてあげようね~」
すると、笑顔の男子達から大原は責められる。女子は舞花のランドセルを見て、今度は口々に羨ましがりだした。
大原の思いが伝わり、クラスの皆は舞花を受け入れた。
生徒達が帰った放課後、大原は職員室でテストの採点をしていた。抜き打ちテストだと非難をあびながら行ったそれは、舞花の学力を図るものだった。
「完璧だ。完璧すぎる」
舞花の答案を見ながら、なぜか大原は喜ぶ気配が無かった。
その時、机の上に置いていた大原の携帯が小さな音を立てて振動する。液晶には『紅茶専門店ダージリン』と表示されていた。携帯を持って職員室の外に出ようとする大原に、隣の席の横田有紀先生が話しかける。
「大原センセ、慌ててどうしたのですか? ……もしかして、彼女さんとか?」
長い髪の毛を揺らしていたずらっぽく笑う彼女に、大原は淡い気持ちが崩れていくのを感じた。
「いやぁ、田舎に住むお母さんですよ。母親。……どうせつまらない用事ですよ、きっと」
肩をすくめて見せた後、大原は廊下に出た。電話をとり、人気の無い突き当たりに向かって歩きながら話を始める。
「昨日の今日でどうかしたか? 何か俺に不手際でも?」
〈いや、お前の入れた紅茶は完璧だった。お陰でライバル店は力を失うだろう。それよりも、次の仕事だ〉
「早いな。全教科を受け持つ小学校教師の忙しさをお前は知らないから……」
〈興味が無い。やるのかやらないのか?〉
「やるさ。俺は金が必要だ。紅茶楽園を作るにはまだまだかかるからな」
〈次の調合の詳細は、メールで送る〉
そこで通話は切れ、大原は携帯を畳むとポケットに仕舞った。
[カチャ]
「んっ?」
すぐ隣にあった扉を開けて出てきた女性と大原の目が合う。その女性の顔は、舌から段々と赤みを帯びていき、すぐに真っ赤になった。
「大原先生! どうして女子トイレの前にいるんですかっ! まさかっ! お…音を聞いて…」
「ちっ…違いますって! ちょっと考え事をしていたら……イテっ! イテっ!」
いつも持ち歩いているのだろうか、教諭主任である本田沙織は巨大な三角定規で大原の頭を叩きながら、どこまでも追っていった。
◆ ◆ ◆
高田舞花は途中まで一緒に帰ってくれたクラスメートと別れ、一人で家に向かって歩いていた。時折後ろの様子を探り、誰かに後をつけられて無いかを探る。それが、彼女のくせだった。
小さなどこにでもあるアパートの一階、そこに舞花は入っていく。
扉を閉め、靴箱を開けた舞花は、靴を仕舞わずに中からあるものを取り出した。それを握り、……ランドセルを部屋に放り込むと同時に自分も飛び込んだ。
「お帰り……」
「何だお前か。来る前にはいつも連絡しろと言っているだろ」
畳敷きの部屋の真ん中に、男が一人座って舞花を迎えていた。髪型は五分分け、濃紺の背広、黒縁眼鏡と、どこにでもいるような男だった。
舞花は手のひらの物を棚の上に置く。それはゴトリと重量感のある音を響かせた。
「守備はどうだ?」
少し口元を緩ませながら言う男に、舞花は立ったまま答える。
「事前に学習していた通りだった。何の問題も無い。ごく自然な小学生だと周りには認識されたはずだ」
「苛められなかったか?」
男は目を細めて、くくくと笑った。
「小学生らしい小さないざこざはあった。だが、担任が取り成してくれた」
「あの人の良さそうな男か」
舞花はそこで何か言おうとしたが、止めて口をつぐんだ。男は気にも留めずに話しだす。
「仕事だ。与党の橋口議員。明日の晩にやってもらう」
「急だな?」
「情報がどこからか漏れた。自宅を防弾ガラスにし、警護も増やした。おまけに近いうちに雲隠れしそうだ。やるなら明日のパーティーしかない」
「その状況で、間違いなく来るのか?」
「恩師の政治資金を集めるパーティーだ。必ず来る。建物の見取り図などの詳細はここだ」
背広の男は大きめの封筒をテーブルの上に置くと、立ち上がって玄関に向かう。
「下見も無しの、ぶっつけ本番。正気か?」
鋭い視線を送っている舞花に顔も向けず、背中を見せたまま男は答える。
「お前が失敗しても、代わりは沢山いる」
「お前にもな」
舞花は棚の上に置いていた物を持って、それを男に向けた。しかし、男は結局一瞥もすることなく出て行った。
「ふん……」
今度は手の中にあるそれを舞花はランドセルに向けた。しばらくそうしていた舞花だったが、ランドセルを拾い上げるときちんと形を直し、丁寧にテーブルの上に置いた。そして、ランドセルのつるつるとした感触を不思議そうに撫でていた舞花は、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「あの『シャー』…いや、教師の大原と言う男……。あの時、なぜ利き腕とは逆の手を私に差し伸べたのだ? たまたまか? それとも、関節を取られるのが分かっていたから、本能的に利き腕をかばったのか? それに、あの男からかすかに硝煙の臭いがした気がする……」
考えながらも、舞花はランドセルを開けたり閉じたりを繰り返し、まるで普通の子供のように遊んでいた。
◆ ◆ ◆
大原もまた、舞花と同じようなアパートの一室に住んでいた。
学校から帰ってきたのが午後六時過ぎ。それからずっとパソコンとにらめっこをしている。
「ダージリンの野郎……明日とか正気かよ……。まあ、事前に狙撃場所の目星をいくつか付けてきてくれたのは助かるけども……」
気象条件、温度、湿度、その他の条件を吟味し、その一時間後にようやく大野は作戦を決めた。しかし、それで終わる訳では無く、大野は冷めたコンビに弁当を食べながら、今回の目標の体格や癖など資料にある全ての情報を頭に入れる。パーティーの参加者の名前、顔、警備員などの配置までも全てだ。
作業がようやく終わった夜更け、そのまま眠ろうとした大原だったが、気力を振り絞って風呂へと向かう。
「ん?」
その途中、吊り下げられていた自分の背広の前で鼻をひくひくと動かした。
「……臭い、完全にとれてないな。まったく、ダージリンお勧めの消臭剤も大したこと無いなぁ」
大原は、棚から何の文字も模様も描かれていないグレーのスプレーを取り出すと、それを背広にふりかけた。そして今度こそ、下着を持って風呂場に向かった。
翌日、学校の授業が始まった瞬間から、一人の生徒に睨みつけられている大原の姿があった。まばたきもせずに自分をを見ている女の子に、大原は二度見三度見を繰り返す。
「えっと……、高田さん、……なにか質問でも?」
「気にするな。考え事をしているだけだ」
「かっ……考え事? 授業中に? ……なら、ここの長さ分かるかい?」
「そこは結局二等辺三角形になるので、半径と同様に三センチだ」
「……正解」
大原は口を半開きにして体を仰け反らせた。その前ではまだ舞花がぶつぶつ言いながら大原を大きな目でじっと見ている。しかし、よく見ると焦点が大原に合っていないようなので、よっぽど重要な事を考えているのだろうと大原も納得をした。
全時間、舞花に睨みつけられると言う大変な一日が終わり、大原は職員室に戻ってきた。すると中から、なにやらひっくり返った歌声が聞こえてくる。
扉を開けて自分の席に座った大原は、同じように横に座っている同僚の横田先生に聞く。
「なんですか、あれは?」
「あのですね、本田主任、どうやら今日コンパらしいですよ。合コン」
「ああ……それで……」
いつも切れの良いヒールの音をさせている本田だが、今日は職員室を舞うように歩いていた。時折、眼鏡を上げては時計を見てにやりと笑っている。
「良いなぁ合コンなんて……」
「あら、大原センセも行ったら良いのに。息抜きになるかもしれませんよ?」
そう憧れの横田先生に言われた大原は、今日もまた淡い恋心が崩れていく音を聞いた。
午後六時。横田先生の言葉に心を砕かれた時の大原とはまったく別の顔を持つ男がいた。
周りの建物より頭一つ高いビルの屋上にいた大原は、強風に髪を揺らしながら寝転んだ姿勢でライフルのスコープを覗き込む。その目には、ホテルの前に止まった黒塗りの高級車が映った。そこから、四人の男に囲まれるようにして少し中年太りの男が出て来て、そのまま四人と一人はホテルの中へと消えていった。
「……やはり、前回と同じ作戦で行くか」
呟くと、大原はスコープから目を外し、首を左右にコキコキと鳴らす。驚くことに、目標のホテルはそこからは手のひらに収まるほど遠く離れて小さく見えた。
ゼリー飲料を口に咥えながらもう一度スコープを覗く。狙いの橋口議員が乗ってきた車と同じような黒塗りの高級車が次々と止まり、これまた人相の悪いメタボな男達がホテルへと入っていく。
「ったく、この国の政治家ときたら……」
そこでライフルを少し上に動かし、ホテルの上階の様子を探る。
「奴は満腹になるとすぐにトイレに行く習慣がある。個室に入る瞬間を狙って……」
大原のスコープはトイレの中を映していた。入手した間取り通り、この位置から窓をごしに個室に入る人間の横顔を捉えられる。
「後は待つだけ。……はぁ、真冬じゃなくて良かった」
それでも肌寒い季節になってきていた。今日はスーツではなかったが、もっと厚手のジャケットを羽織ってくれば良かったと大原は後悔した。
10分ほど経っただろうか、大原は顔の位置を正して真っ直ぐにスコープを覗き込み直した。
「馬鹿な……どうしてあの子があんな所に?」
視線の先にいるのは見知った顔だった。つい最近、自分の受け持つクラスに転校して来た子。……高田舞花だ。
舞花は普段の簡素な洋服とは違い、見ようによってはドレスのような派手目の服を着ていた。様子を伺うようにしてホテルの前まで来ると、そこからは胸を張って中へと入って行く。
「…………まさか」
大原の頭の中に昨日の資料が思い出される。そこには、橋口議員を狙う別の組織がある可能性も示されていた。
「やはり……そうか……」
大原はライフルをその場に置き、立ち上がると屋上の出入り口に走った。その途中、携帯で電話をかける。
〈どうかしたか? 問題でも発生したのか?〉
いつものように落ち着きあるダージリンの低い声が携帯から聞こえた。
「ああ、大問題だ。茶葉を二番煎じとする。ティースプーンは置いていくから回収を頼む」
〈何? 一体どういう事……んっ? あっ! ちょっと! どこへ行くのっ?〉
「……はぁ?」
ダージリンは急に慌てた様子になり、とても大原に言ったとは思えない脈絡の言葉を発した。その後、なにやらごそごそと音が聞こえ、彼からの返答はしばらく無かった。
〈はぁ……はぁ……。な……なんでもない。全て了解した〉
「あ……ああ。また連絡する」
大原は首を傾げながら携帯をポケットに入れる。そして、一キロ先のホテルへと走った。