第8章 正午の再会
暴君とし名高いかつてのローマ皇帝、ネロの離宮があった場所に巨大な闘技場“コロッセオ”は建てられていた。
「わぁ〜すごい、すごいですよ、カルロ様! あっちにもこっちにも人、人、人――だらけですよ!」
「ちょっと待った、グリエルモ。はしゃぎすぎだよ、ってどこに行くんだよ! 走らないって約束しただろう。迷子になっても僕は知らないよ」
コロッセオにお目当ての剣闘士達の戦いを見に訪れた大観衆で、少年達は揉みくちゃにされながら必死に人垣をかきつつ、ドーリア式やイオニア式と呼ばれる、各階にそれぞれ異なった仕様が施されたアーチの下をくぐり抜け突き進んでいった。
「お〜い、君たち。仲むつまじいのは結構だけど、2人とも私の存在を忘れていないかい?」
カルロ達の後ろから投げ放たれた低く響く声の持ち主が、嘆き悲歎めいた声を上げていたため、カルロは思わず我に返りその男の方を振り向いた。
「申し訳ありません、バルトロ様……って何ですか、その顔は?」
カルロの瞳に映ったバルトロの表情は口元が緩み薄ら笑いを浮かべていた。明らかにこの状況をおもしろがっている様子がカルロには手にとるように分かった。
「もぅ、ふざけていないで早く行きますよ。グリエルモが1人で先に行ってしまったんですから」
カルロはバルトロに半ば八つ当たりと言わんばかりの、怒声を吐き捨てた。
今朝からカルロは少し苛立っていた。正午に開催される剣闘士たちの試合のようすを想像したり、苦手とする人混みに嫌気がさしていたからでる。バルトロから背を向けるとすぐさま、グリエルモを追いかけ始めた。
「ふぅ、やれやれだ、。追いかけっこするような年ではないんだけどな、私は」
愉快がってカルロの背中を見つめるバルトロの眼差しが、いつの間にか波風たたぬ水面のような静けさへと、さま変わりをしていった。
「おやおや、今日は暑くなりそうだ」
バルトロが見上げた先には雲ひとつない青空が広がり、気がつけば太陽がこの日のうちでもっとも高い位置に昇ろうとしていた。
「本当にどこに行ってしまったんだ。グリエルモは……奴隷の子供がこんな所ではぐれるなんて自殺行為だ」
忽然と姿を消したグリエルモ。カルロ自身もまさかこんな所で見失うなうなどと思いもせず、感情が高まり声が微かに震えていた。
「グリエルモのやつ、僕を心配してついてきたってのに、逆に僕に心配かけるなんて……」
階上の余りの人の多さに、左右の方向感覚さへも分からなくり、カルロはどうすることも出来なくその場で立ち止まるしかなかった。
「いたいた、カルロ君。そんなに熱くなってどうする? 君までが迷子になってしまうよ。それにしても驚いた。君は大人しい顔をしているが実は激情家なんだね」
全くことの重大さを理解していないのか、それとも多くの戦で生死に係わる修羅場をくぐり抜けてきたためだろうか、バルトロは慌てる様子もみじんもなかった。
「だがあんまり、うかうかはしてられないな」
「それはどういうことですか?」
思わず虚をつかれたバルトロの一言に、カルロは険しい表情で問い返した。
「見て分かるだろう。ここの階上は2階や3階と違って大理石張りの席が並んでいる来賓席さ。私には地元の政府高官に知り合いがいるから、彼の計らいでこの階での観戦がいともたやすくできたんだ」
「だから……どういう意味ですか!?」
バルトロの遠回しの言い方に業を煮やし、続けざまにカルロが追求しようとしたその時だった。
「なんだ、貴様は!」
決して遠くはないだろう、数メートル先の人垣の向こうから荒々しい声が発せられたのが、しっかりとカルロの耳にも聞こえた。
変な胸騒ぎをカルロは覚えた。先程まで熱を帯びてた体は一気に血の気が引き、冷たくなって心臓の鼓動だけが早鐘のように全身で鳴り響いていた。
「まずいな」
そんなことをバルトロに言われなくともカルロも十分に分かっていたが、口はカラカラと渇きを訴え、なにも声にならなかった。
「予想が的中してなければいいんだが」
バルトロはすぐさまに、カルロの腕を掴むとその声がする方向に駆け出した。
カルロは走っているには違いなかったが、回りの景色はまるで歪なコマ送りの演劇のような、現実に捕らえることのできない浮遊感の中を漂っていた。
そしてようやく、人並みの切れ目を見つけその隙間に体を滑り込ませたカルロたちの前には、想像を遥かに超えた現実が憚っていた。
「ちっ、よりによって今日は彼が帰還していたなんて……」
バルトロは苦々しく言葉を噛み砕いた。
カルロたちの目線の先には、金糸や銀糸の刺繍が施された緋色したトガ・ガピクタと言われる凱旋将軍だけが着ることが許された、衣服を身に着けたがたいのいい男が立っていた。
その男の脇では槍を手にした幾人かの衛兵たちが、地面に転がる小さな人影に矛先を突き立てようとしていた。
「グリエルモ!!」
バルトロが瞬時にカルロの豹変する気配を察知し、口をふさごうとしたがほんの僅かに間に合わず、階上一面にカルロの声が甲高く響きわたった。
バルトロが、将軍と思しき男が、衛兵が、ローマ市民の何千とも、いや何万ともいえる視線がカルロに注がれた――がその中にひと際目だって、美しく碧く見覚えのある二つの瞳が、カルロを静かに見つめていることに気がついた。
その者は女性がおもに着用するくるぶしまで届くようなストラをまとい、それがよりいっそう神秘的な雰囲気を漂わせていた。
(なんで君がここにいるんだよ……)
将軍と思しき男の傍らには、あの路地裏で出会った美しい顔をした少年が佇んでいた。
(本当に悪魔だったのかい? 君は……)
少年は顔色ひとつ変えることなく、また路地裏で出会った時と同じく、とても冷たい眼差しでカルロを見つめていた。
ようやく主力選手が全員出揃いました。ここまで辿り着くまでかなりつらく?長い道のりでした。
あと私事ですがHPを開設しました。これから少しずつコンテンツを増やしていく予定です。作者紹介ページから転送されますので、お暇があれば遊びに来てくださいね〜。