第7章 日出
「ごめん、グリエルモはただ聞くだけでいいから……」
こんなにも幼く、読み書きさへろくにままならない、グリエルモに伝えても果たして理解できるだろうか? それ以上に話したことで状況は決して変わるはずではないのだ。
それはカルロ自身も十分に納得していたが、喉に詰まっていたそれは限界に達して、瞬く間に口からあふれ、声になり、言葉を紡ぎ、不安げな瞳でカルロを覗きこむグリエルモの両の耳に流れ込んだ。
「今、ローマが少しおかしなことになっているんだよ。それとも変に感じてしまう僕の方に欠陥があるのかな」
「欠陥?」
カルロは明らかに無理矢理とも思える薄い笑みを浮かべ、うっすらと窓から差し込む朝日に視線を移した。
「ほらグリエルモ、あっちには何がある?」
カルロは窓の外を静かに指差した。普段からカルロの寝室がある2階に滅多に上がることのないグリエルモは、この部屋から望む景色がどんなものか検討もつかなかった。そのため眼下に広がる林の先に、突如ひょっこりと巨大な建物が現れたものだから大きく口を開けて唖然とした。
「わぁ。なんかとっても大きな建物がありますよ!」
グリエルモはその建物の巨大さに驚嘆し、頬を紅潮させながらカルロに問い返した。
「そうだよ、気づかなかっただろう。あれはね、コロッセオという闘技場だよ。あそこで市民にパンが無料で配られ演劇や戦車競争が催されているんだ」
カルロは急に瞼を閉じ黙り込んだ。いや言葉を詰まらせたといったほうが正しかった。
重い空気が漂う中、ようやくカルロは何かを睨みつけるようにして瞼を開けた。
「彼らがもっとも興奮し熱狂するものが、猛獣や奴隷同士がどちらかの命が尽きるまで戦う見世物さ。こんな催しごとがひっきりなしで行われている場所がコロッセオなんだよ」
大まかに大胆にコロッセオの概要を説明したカルロは、グリエルモの怯えた反応を想像した、自分と同じようにと、だがグリエルモの反応は大きく的を外れていった。
「えっ、タダって……パ、パンがタダで食べられるんですか!?」
思わず拍子抜けしてしまったカルロは、くらくらと軽い目眩を覚えた。
(おいっ、そこにいくのかい。グリエルモ……)
口に出しはしないがカルロは思わず心の中でつっ込んでしまった。
でも奴隷の少年からしてみれば、ただで有り付ける“ご馳走”なんて夢物語があれば、当然こちらにかじりつくだろうと納得できた。
「あぁ、そうだよ。今のローマには衣食料や鉱物なんかが大量に流れこんできてるからね。だからローマからしてみれば市民にパンを与えるなんて造作もないことだよ。それで皇帝や貴族は彼らのご機嫌とりができるなら安いもんさ」
「いいな、僕もお腹いっぱいパンを食べたいです。そんな夢見たいなところがあるのなら、死ぬまでに一度でもいいから行ってみたいです」
なんの躊躇もなくそう発言するグリエルモに、カルロはこれ以上話しを続けることはできなかった。グリエルモを卑下してるわけでもなく、コロッセオに半ば強引に誘ったバルトロに悪態を付きたいわけでもなかった。
ほとばしる鮮血、飛び散る肉片、円の中で絶命する人や獣。今のローマの民はそれに熱狂し、またそれでしか噴出す欲望を、興奮や歓喜にへと還元することが出来なくなっていたのだった。
みなが狂っているわけではないのだ。逆を辿ればカルロだけがみなと違うことになる。
道理が欠落し、列を乱すものは異端とされた世の中……。カルロはこの娯楽施設への誘いを断るすべが見つからず、諦めるしかないと決意した。
「もういいんだ、グリエルモ。今の全てを忘れてほしい。僕はいつも人とずれている節があるから」
「えっ!? もういいんですか。まだ何も聞いていませんよ、僕」
カルロは床に脱ぎ捨てた寝衣を拾い上げ“よろしく”っとウインクをしグリエルモに渡した。
グリエルモは納得のいかない様子で口を尖らせ、カルロにまとわり付き話しの続きを求めてダダをこね始めた。いったんダダをこね始めるとテコでも動かないグリエルモだったが、それはカルロの身を案じてのものだと、カルロは感じとっていた。
「分かったから、グリエルモ。時間がないんだから話しはまた今度にしよう」
「ダメですよ、僕は引きませんから! こんなカルロ様をほっとけないです」
なんで子供はこう聞き分けがないのかと、迫ってくる約束の時間も相俟ってカルロはだんだん面倒臭くなり、しかたなしにとうとう観念した。
「降参だ、グリエルモ。君には本当に頭が上がらないよ」
カルロは苦笑いしつつ、両の腕をひらひらと宙に上げ降参の狼煙を上げた。
「さぁ、急いでグリエルモも準備をするんだ。もうすぐあの方が迎えにあがられる時間だ」
「えっ……?」
グリエルモは事態がよく飲み込めずに難しい顔つきになっていた。
「だから心配なんだろ? 僕のことが。一緒に付いてきたらどうだい?」
いつの間にか寝室は窓からもれる太陽の光りで、暖色系の壁がよりいっそうに色鮮やかに浮きだっていた。それは太陽が徐々に空のてっぺんに向かって昇る一日の始まりを示すものであった。
太陽が昇り、朝に別れを告げ、昼に向かい、夜を迎える。毎日かかさず太陽が時を刻む、目を瞑っていたらなんともない変わらぬ毎日の繰り返しだ。とカルロはそうと信じていた、少なくとも今までは。
想像もしなっかた、今日が彼ら2人が一緒に過ごす最後の朝となろうとは、誰が予想できただろう?
残酷にも運命の歯車が軋む音をたて、この瞬間に静かに回り始めたのだった……。
久方ぶりの更新で皆様に忘れ去られていないか、多少心配しております。気長に付き合っていって頂けたらうれしいです。