第3章 笑う悪魔
「私には時間がないんだ、もたついてないで早くここから立ち去るよ」
カルロの前で揺れる金糸の髪から漂う香りは“ローズかな?”緊張感のないゆるい香油の香りが、ふわりとカルロの元に踊り立った。
(…甘い…香り)
なぜか不思議と落ち着くその香り。
カルロは少年から手を引かれ進むが、宙を駆けるような感触で地面をしっかりと蹴れずなんともおぼつかない足取りだった。
だが前を行く少年は違った。カルロの手を力強く引き、またその後ろ姿はとても勇ましく逞しく、彼らはそのまま路地裏を後にした。
◇ ◇ ◇
「はぁ…はぁ…」
狭い路地裏から一気に駆け出したカルロの心臓は、今にもはち切れそうな水がたんまり入った皮袋のように、膨れ上がり大きな鼓動を打っていた。
「よかった…助かった…」
路地裏から飛び出し、急に開けた視界は、曇り空にも関わらずやけに眩しく見えた。そして普段と変わらぬローマの町並みに、ほっと胸を撫で下ろしたカルロはようやく己の平静さを取り戻した。
しかしそれと相反して息急き切って駆けてた少年は、上半身うな垂れて大きく肩で息をしていた。
よっぽど疲れたのだろう…また緊張もあったのだろう。カルロは申し訳なさを感じながらも、少年にかける言葉を必死で探すが、お座なりのセリフしか浮かんでこなかった。
「君は大丈夫?その、僕を助けようとして怪我なんてしなかったかい?」
だがその問いに返ってくる言葉は無かった。
「…まさか怪我でもしたの!?」
むなしく通りに響くカルロの声。
「…ご、ごめん」
カルロは謝って許してもらえるわけでもないが、巻き込んでしまった罪悪感で居たたまれぬ気持ちになった。意を決してもう一度口を開きかけてたその時だった。
「ぷっ」
「!?」
急に噴出した少年はいよいよ我慢が出来なくなったのか、次にはケタケタと笑い声を上げ始めた。
そして事態が全く飲み込めていないカルロだけがその場に取り残されて、少年が落ち着くまで呆然と見守るしかなかった。
ようやく満足し笑い収まったのか、少年は目尻に溜まった涙を拭きながら上目遣いでカルロを見てきた。
「くく…運がよかったよ、あんた。奇跡だ」
「奇跡?あの…僕は君が何を言ってるのか意味が分からないし、何がそんなにおもしろいのか見当もつかないんだけど…」
何かの弾みで少年の何処かのネジが落っこちてしまい、壊れてしまったのではないかとありもしない錯覚に惑わされて、カルロの灰色の瞳がざわついた。すると目前で嘲笑いを浮かべていた少年が急に険しい顔付きに変わった。
「いけない、私には時間がなかったんだ。もうここまで逃げて来ればあの色魔も追っては来ない。生まれたての子羊と同じくらい頼りない、そのあんたの足でも逃げとおせるよ」
「…なっ!!」
皮肉を込めた洗礼を浴びせられたカルロは一気に頭に血が昇り、頬を紅潮させて自分でも珍しく人に食ってかかった。
「今のは聞き捨てならない!それに僕の質問は終わってないよ、最後まで質問には答えろよ!」
だが少年はくるりと背中を向け、答えるそぶりも見せず立ち去ろうと2〜3歩進んだところで、ぴたっと立ち止まった。そしてそのままぽつりと呟いた。
「悪魔の気まぐれ…か」
「悪魔…?」
的の得ない少年の口から零れた言葉が不気味で、慄くカルロの中で警鈴の音が鳴り響いた。
この子は危険だと。
背格好からしておそらく同じ年齢だろう。見た目はそう思ったが腑に落ちない。なぜならあれは少年の目と呼べるの代物ではなかった。
「私の魂の端っこには、もう捨てて無くなってしまったと思い込んでたほんの僅かな…人の心が残っていたのか」
少年はうつむき、すれ違う人々とは決して目を合わせることなく三叉路を曲がり見る間にその姿を消した。カルロの元に残されたのは悪魔の呪言のみ…。
恐ろしさや怒りで高揚するカルロだったが、彼の淡い碧い瞳はなぜかとても人間ばなれし、天使でなければやはり悪魔という安易な考えに結び付いてしまう。納得いく答えが見つからないまま、気が付けば見上げた空からポツポツと雨粒が降り始めたのだった。
天使の皮を被った悪魔…か
なるべく定期的に更新はしていくつもりですが、気力・体力?共に衰えが目立つ昨今です。また辛口な感想で結構ですので一言残していって下されば励みになります〜