第2章 路地裏の悲劇
「うぅ……」
カルロは苦痛に顔を歪め、うめき声をあげた。
「何をする…!」
ありったけの声を絞り抵抗しようとした。その時だった、カルロの喉元に鈍く光る鋭利な刃物があてられた。瞬時にそれが何かと理解し、吐き出しそうになっていたその声を、そのまま飲み込んでしまった。
(追い剥ぎか!?それとも…)
後頭部を殴られ、意識朦朧とする中、ふと先ほどの使用人の言葉がはっきりと頭の中にこだましてきた。
『ここの人々は、何ていうか。その…淫奔な輩が多いですから。くれぐれも暗い道だけは避けて下さい』
(そんな馬鹿な…白昼どうどうとしたこの時間に襲われるなんて)
恐怖とおぞましさが一気に込み上げて、強い吐き気と共に、一筋の涙がカルロの目からこぼれて落ちた。
(嫌だ…嫌だよ、誰か助けてくれ!!)
(………あれ!?)
次の瞬間、急に羽が生えたのように、体が不思議なことに軽くなった。そしてカルロを強く締め付けていた腕が、ずるりと胸元から滑り落ちていった。同時に地面に転がる短剣に、カルロは思わず息を呑み込んだ。
「どさっ」
カルロの後ろで人が倒れる音がした。
振り向きたくない…。全身を駆け巡る恐怖心。だが全く事態を把握できてない今は見ない訳にはいかない。振り向いたら全てが終わってしまうかもしれない。二つの究極とも言える選択肢に葛藤、自問し、カルロは腹を括った。
「えっ!?」
まなこがまん丸になるって言うのがどういうものなのか、カルロ自身、生まれて初めてこういうことなのだと知った。
「君が助けてくれたの?」
カルロが振り返り見上げた先には、同い年もしくは若干、年上であろう位の少女が立っていた。彼女の肌は透けるような白さで、肩にふんわりかかる金糸の様な髪、それにふたつの淡い碧い瞳でカルロを見つめた。思わず見入ってしまうほど美しい子であった。
その彼女の両手には、地面にひっくり返っている通り魔を殴ったと思われる、おとなの握りこぶし程の石塊がしっかり握られていた。
「あの…ありがとう。その…女の子に助けてもらうなんて」
言った瞬間、気恥ずかしくなり、口ごもってしまった。
(間違っても父上には言えない…大の男が襲われそうになったところを、女子に助けてもらったなんて。男尊女卑の考えを持つあの人が聞いたら怒り狂うだろうな)
カルロが考えを巡らせていたその時だった、何かものが動く気配がした。
「くそ……ガキ共が…」
カルロは青ざめた。足元に倒れている通り魔が、目を覚ましてしまったのだ。いや、完全に卒倒していなかったと言うほうが正しかったのだろう。この男は白い上質の絹衣をまとっており、追剥たぐいの賊の輩ではないとすぐに判断できた。
浮気などは当たり前、快楽を求めてうろつく淫売婦、“稚児”という少年奴隷を連れ歩く主人…。
一部の市民の中ではこういった男女の性という観念が滅茶苦茶だった。
この世情は征服した領土に属州(辺境に置いた直轄地)を設置し、勢力化していく帝国ローマ時代の裏側とも言える悪の姿だった。
身の毛のよだつ思いでカルロは急いで立ち上がろうと、2本の足に力を入れた。が、腰が抜けて、うまく立ち上がれずにいた。両の足は先ほどの恐怖で、ただの棒切れに化していたのだ。
(どこまでも情けないんだ僕は、もうすぐ15になり成人式を迎えるってのに…)
再び奮起して立ち上がろうとしたその時、長くほっそりとした指先が、カルロの前に差し出された。
金髪の少女の手であった。
しかし見下ろす彼女の視線は“救いの手”とは程遠く、冷気を帯び、カルロは素直にその手につかまること事ができなかった。
いや、そう感じたのは、ぬるま湯の中でなに不自由なく、また穢れなく育ってきたカルロにとっては、もしかしたら初めて味わった屈辱だったかもしれない。
だが事態は深刻であった。
「…っち」
頑なに拒否するカルロの態度に業を煮やし彼女は舌打ちした。そして伸ばした手でそのままカルロを引っ張り上げた。
「わぁ…!!」
予想だにしなかった、彼女の腕力と気性の激しさにカルロは思わず、上ずった声を出してしまった。
「ち、ちょっと待ってくれ!足がもつれてしまって…」
慌てふためくカルロに、彼女は一喝するように睨みつけこう放った。
「私には時間がないんだ、もたついてないで早くここから立ち去るよ」
カルロは驚愕した。
その少女の声は自分が想像していた様な、細くて柔らかいソプラノの響きとは違う
紛れもない澄み切った少年の声をしていたからであった。