第1章 フォロ・ロマーノへ
今日の空は黒くて重い。やけに息苦しく感じてしまうのは、この天候のせいだろうか?それとも僕が握り締めているこの手紙のせいだろうか?
◇ ◇ ◇
「クーリア(元老院)まではどれ位かかりそうだい?」
今にも見上げた空からは、大粒の雨がこぼれ落ちてきそうで、不安げな瞳をした栗色の髪の少年が、隣で馬車を走らせる使用人の男に問いかけた。
「そうですね、フォロ・ロマーノに入るまで小一時間って、ところでしょうか。カルロ様」
額にうっすら汗を浮かばせた使用人は、間髪いれずに馬に鞭を入れている。さらに速度を上げて、ローマの中心地に向かって馬車はがらがらと突き進んで行く。
「あれ…なんでしょうかね。前方に見える大きな建物は。カルロ様はご存知で?」
使用人は林の切れ目から急に現れた前方の楕円の巨大な建物を指指した。男は息が弾み、日焼けで浅黒くなっている頬を紅潮させた。年甲斐もなく非常に興奮している様子だ。
「ああ、あれは最近出来上がったばかりのコロッセオという闘技場だよ。中ではライオンや虎など野獣同士を戦わせているって聞いたよ。それに剣闘士同士が戦いあっているとも聞いた」
「へぇー。さすがカルロ様は物知りですな」
使用人の男は大した教育を受けたこともなく、まだ13歳という若さながらこの様に、博識で教養のあるカルロに感嘆した。またカルロは少々幼さは残るが、ローマの街でも一、二位を争う美女として有名だった、亡き母親譲りの丹精な顔つきをしていた。
「コロッセオでしたかね、機会があればその剣闘士同士の熱い戦いを、自分も見てみたいもんですな」
目を輝かせて語る使用人は、まさにこのご時勢の“野蛮なローマ人”そのままだとカルロは思い、その象徴になるであろうコロッセオに、血生臭さを感じられずにはいられなかった。
「戦い合いじゃない…殺し合いの間違いだよ」
ぽつりと呟いたこの言葉は、誰に聞こえる訳でもなく、激しく回転する車輪の音に掻き消されていった。
馬のいななきと共に、車輪がゆっくりと地面を滑りながら、そして最後に馬車は止まった。
周りには石造りの神殿や建物がそびえ立っている。また色鮮やかな装飾が端々に施された織物や、ローマで人気のあるカンパニア地方やラティウム地方のワインなどが、街中のあちらこちらで所狭しと売られていた。
ここフォロ・ロマーノは昔4つの丘の間にあった湿地帯であり墓場として使われていた。今ではローマの中心地として、商業が栄え、政治の統率を図る重要な公的機関も備えている大都市に成長した。
「よかったですな、雨が降り出す前にどうにか着きましたよ。フォロ・ロマーノに」
使用人は未だ振り出す気配のない空を見上げ、安堵の表情を浮かべた。
「天が味方してくれたかな。これなら雨水に濡れずにクーリアに着けそうだよ。ここからは僕ひとりで歩いて行くから、お前は邪魔にならない場所に馬車を止めて…そうだ何なら市場で見物でもして待っててくれないかい」
忘れ物はないか、カルロは荷台を確認し馬車から降りた。後を追う様に金の刺繍がなされた外衣も一緒に宙をふわりと舞った。
「お気を付けて。カルロ様はただ歩いているだけでも、その…みなの目に止まりますから」
「はは、そうだね。こんな大そうな外衣を羽織ってたら、賊らのかっこうの獲物かな。でも父上の命令だから仕方ないんだよ。訪問する場所が場所だけにね。」
カルロは苦笑い交じりに使用人にこう答えた。
「そんな意味ではありませんよ。ここの人々は、何ていうか。その…淫奔な輩が多いですから。くれぐれも暗い道だけは避けて下さい」
そして再び使用人は、手綱を引き馬車を停めにカルロの前から去って行った。
行きかうローマの人々はみな陽気だ。街を歩くと、どこかのお社からは笛の音が風にのって流れてくる。元来、人混みが苦手なカルロはこの都会の喧騒とも言える、熱にあてられ人に酔ってしまった。カルロは脇道にそれ、ひと目を避けて目的の三角屋根の建物に足早に向かった。
(はぁ…なんで父上は僕に使いを頼まれたのだろうか。それも寄りによってクーリアに行けなんて。あそこには眉間に深いシワを寄せた、怖い顔したおじさんばかりが踏ん反り返って、僕らみたいな弱輩者をしげしげと睨みつける。数分も持ちやしないよ…)
気は滅入るばかりであったが、猛将と謳われた父の命令は絶対だった。カルロの父親は解放奴隷であり、一代で財を生した。父は質のよい蜜蜂を輸入し、その巣からとったプロポリスで民間薬を作り、ローマの民に重宝された。これをきっかけに広大な土地を手に入れ農作を成功させ、軍人になり、軍の司令官として数多くの勝利をもたらしてきた。その栄誉として元老院議員に選ばれたのだった。
そしてこの元老院議員が集まり、ローマの最高機関元老院会議が開かれる場所こそが、僕が向かっているクーリア(元老院)なのであった。
しばらく歩くと建物と建物の間に三角屋根が見え始め、だんだんその姿が大きくなっていく。
(さっさと用事を済ませて帰ろう。ただ手紙を渡すだけなんだし、第一あのおじさん達と共通の話題って…ある訳ないだろうし)
カルロは嫌いだったのだ、このクーリアが。
腹の内を見せない、元老院議員達が集まって話し合ってるようなこの場所は、まさに“伏魔殿”のようだった。
さらにひと昔まえには、名将と呼ばれた人物がこの建物も前で殺害された血塗られた場所でもあった。
「はぁ…… 」
気がつけば何回目のため息だろう。カルロはこんな臆病な自分にだんだん嫌気がさしてきた
その瞬間だった。
「!!」
強い衝撃が稲妻の様に、カルロの後頭部に走った。
そして強引な力で瞬くまに、一気に暗い闇の中にカルロを引っ張り込んでいったのだった。
こんなに長い〜話しにお付き合い頂きまして、感謝でいっぱいです。この話しを書いていると自分の脳みその少なさなを実感してしまい嘆き悲しむばかりです。精進しなければ!