Slow Spiral 番外編 ”Plus Alfa のスパイス”
お待たせいたしました。Slow Spiral ~緩やかな螺旋~ 番外編です。本編では穴あきになっていた主人公と浬の家族の初顔合わせのときの模様です。時間軸としては二人が出会ってから間もないころになります。
長くなりますが、どうぞお付き合いください。それでは、どうぞ。
「ええと、次はどうだったかしら?」
「ああ、後は大根とぶつ切りにした鮭を入れて下さい」
「大根は………と」
「「短冊切り」――ね?」
「ええ。昨晩の内に水に浸しておいたものがありますから」
とある住宅街にある一軒家。
その台所からは、軽やかで楽しげな話声が響いていた。
「割と大きめでいいのよね?」
「はい。好みにも寄りますが、ごろんとしたのが入っていた方が嬉しいですね」
まな板の上で、切り身になった鮭を前に一人が包丁を当てて切り口を確かめる。
「この位?」
「そうですね。もう少し大きくても大丈夫ですよ」
その手元を見ながら、もう一人が笊に空けて水を切った大根を鍋の中に入れた。
後は青菜を切って、食べる直前に一煮立ちさせれば完了だ。
ああ。それから『なると』を輪切りにしたのも加えなくては。
そして、灰汁を掬いながらコトコトと煮込む。もう少ししたら、お醤油を加えて。
―――うん。いい出汁が出ている。
味を確認した一人は、満足のいく出来になったようで密やかに微笑んだ。
年内も押し迫って来た年の暮れ。
この日、渡良瀬家の台所では、お雑煮のお披露目・お試し会が開かれていた。来るお正月に備えて、自分達の『家の味』を交換披露しようという試みだった。
この家の主婦である百合江は、息子の恋人が作るお雑煮に興味津々だった。
日本の家庭料理の中でもお雑煮程、各地域の特殊性を感じさせるものはない。
渡良瀬家のものは代々、東京風のシンプルなものだった。お澄ましに添えられる程度の小松菜と四角い焼き餅。それを小さいころからお雑煮として食べて来たのだ。
打って変わって、息子がお付き合いをしている女性の御両親は、共に新潟の出身ということだった。その女性自身は、父親の転勤に合わせて、小さい頃、都内に居を移して以来、こちらで育ったと言うが、その家庭の味は新潟のものであったと言っていた。
その要素は、普段、口にする食事とその好みに随所に表れているようで、よく手料理を御馳走になっている息子は、その時のことを、とても珍しそうに、そして嬉しそうに話した。
普段の無口な性質を返上とばかりに饒舌になるのだ。
それを夕食の家族団欒の時に耳にして、同じ家庭を預かる主婦である百合江としては、とても気になっていたのだ。
昔から料理をするのは好きだった。そして、それを美味しいと言って食べてくれる家族との一時が、百合江が一番幸せを感じる瞬間でもあった。
息子の恋人との関係は実に良好だ。
彼女は、よく気の付く優しい人で、穏やかでのんびりとした独特な空気は、百合江の性にも合っていた。彼女とは、初めて会った時以来、度々、この家を訪れるようになっては、料理に関する情報交換をする間柄になっていた。
「どうですか?」
味見として小皿に入れたスープを渡されて、百合江はそれに口を付けると、目を細めた。
「うん、ちょうどいい感じ」
「良かった」
安堵したように柔らかく、その女が微笑む。
「キミも味見してみる?」
その声に隣を見れば、いつの間にか、台所のことには滅多に興味を示さない次男が、カウンター越しに鍋の中を覗き込むようにしていた。
そして、次男が小皿を受け取る横で、
「今日は何作ってるの?」
「また俄か料理教室か?」
リビングでぞれぞれ自分の好きなことやっていた長男と夫までもが集まって来る。
百合江はそんな男達の反応にくすぐったい様な苦笑を洩らす。
彼女はすっかり、この家に無くてはならない存在になっていた。
彼女が初めてこの家を訪れたのは、そう、また冬の冷たさが残る春の初めの頃だった。
その時のことは良く覚えている。春を告げる先触れのように、温かい風が胸内を緩やかに吹き抜けた。
恋人の隣に立って、覚束ない手付きで手伝いの真似事を始めた次男とそれに茶々を入れる長男。そしてその様子を少し離れた所から、見つめているこの家の主。
そんな穏やかで何気ない、家族模様の情景を目に映して、百合江自身もそこに加わるべく、にこやかに口を開いたのだった。
「今度はお餅の準備をしなくっちゃね」
「え? 今から?」
「まだ早いんじゃねぇ?」
ぎょっとした顔をした息子たちを笑い飛ばす。
「あらぁ、折角御汁を作ったのに、お餅を入れなくちゃ始まらないわよ。ねぇ、沙由流さん?」
女はいつの世も女の味方だ。
そう訊けば、その女は小さく笑った後、微笑んだ。
「そうですね。折角だから、食べる時に入れた方がいいでしょう。焼きますか。それとも煮ますか」
「あら、焼いたのを入れるんじゃないの?」
「ええ。基本は煮たものですね。ですから食べる直前でいいんですけど」
「まぁ、そうなの。面白いわねぇ」
「そうだ、イクラ入れるんだろ?」
「そうよ。上に少し乗せるの」
「うわぁ、豪華だね」
そうして賑やかな家族団欒の時間が過ぎて行った。
**********
「あのさ、来週のことなんだけど…………」
休憩の合間、カフェ・オレの入ったマグを握りしめながら、遠慮がちにあの子がこちらを見た。
そう言いかけたまま、躊躇うように視線が彷徨う。
普段から落ち着いてる浬が、そういう態度を取るのは珍しいことだった。
「どうしたの?」
私は小さく笑った。
今日は来た当初から、どことなく落ち着きが無かった。何か、心配事でも出来たのだろうか。
そういう仕草をするとやはり随分と年相応に見えた。
「気になることでも出来た? それとも相談事? 言いたくないことは無理に聞こうとは思わないけれど、そんなにそわそわしてたら、こっちも気になるもの」
「あ、バレてた?」
「ええ」
こちらが、気が付いていないとでも思ったのか、満面の笑みを浮かべてそう言えば、浬は、少しばつが悪そうな顔をして見せた。
そして、やや躊躇いがちに切り出した。
「来週の土曜日、家に来てもらってもいい?」
その申し出は、余りにも予想外のことだった。
「家って、キミのお家?」
暫し、その真意を測りかねるように、思考が止まる。
それをいいことに浬の口から事の経緯が淀みなく流れ始めた。
話の内容を纏めるとこうだ。
家族そろっての夕飯時分、ひょんなことから兄に自分と道を歩いている所を目撃された。そこから芋蔓式に臨時家庭教師のことが明るみになって、母親に是非、その人を紹介するようにと詰め寄られた……………とのことだった。
向こうの御両親としては、なんの繋がりも無い唯の会社員が自宅にまで息子を上げて『無償』で勉強を教えるという行為が、甚だ信じられなかったようだ。
確かに。端から聞けば、随分と踏み込んだことに思われても仕方がないだろう。
ご家族としては心配なのかもしれない。
毎回毎回、お昼御飯を御馳走になっているなんてどうも話が上手すぎる。もしや、息子は、うっかり変な女に騙されているのではないか。
そう思うのが一般的なリアクションだろう。
要するにそれは、早い話が『品定め』ということなのだ。
悪い虫が付いていないか。騙されてはいないか。遊ばれているのではないか。相手が年の離れた社会人というのも親御さんとしては心配なことなのだろう。
私は、とうとうこの時が来たかと、内心、気を引き締めた。
曖昧なままでも、このままの関係がずるずると続いて行けば、いづれ、その子の御家族と接触する機会もあるだろうとは、半ば覚悟していたことだった。話を聞く限り、浬の家族関係は良好のようで、会話の端々には仲の良さが窺えた。そういう中で、息子の背後に見知らぬ女の影が透かし見えるのも時間の問題だった。
「大事にされているのね」
そう言えば、
「んん…………どちらかっつうと、野次馬的な感じがするけど?」
浬は肯定しつつも、ほんの少しだけ嫌そうに顔を顰めてみた。
真正面からその事実を認めるには、些か、照れが勝るのだろう。素直になるよりも、少し斜めから物事を見るきらいのある年頃だ。
「あ、でも無理にとは言わないから。母さんが言い出したのもいきなりだったし、沙由流さんの都合だってある訳だし」
あたふたと言い訳がましく言葉を連ねた浬に、私は思わず笑みを零した。
そんなに慌てることも無いだろうに。それとも、浬としては私が訪問することは都合が悪いのだろうか。
「いいわよ」
私が間髪いれずに了承の返事をすれば、浬はややぎこちない微笑みを浮かべた。
「ありがと」
私の隠れた緊張が、相手に伝わってしまったのかもしれなかった。
そして、約束の土曜日。私は朝から落ち着かない気分をどうにか鎮めようと動き回った。
手土産はすでに用意済みだ。服も着替えた。
余り畏まる積りはないが、かといって招待をしてくれた相手に失礼にならないように。洋服選びにはかなり気を使った。仕事の時とは違い、地味なスーツという訳にはいかないので結構悩んだ。
第一印象は大事だ。疾しいことはなかったが、相手への印象を良くしたいというのは誰でもが思うことだろう。
そして、最終的に選んだのは、シンプルなシフォンのワンピースにニットのジャケット。
暖かくなるのはもう少し先のことだが、気持ちだけでも春を先取りしたかった。明るめの色と柔らかな雰囲気になるように春の軽やかな空気を身に纏う。
最後に、お守りとして母親から貰ったネックレスを付ける。
――――どうか、見守っていてください。
一回りは年下の男の子と付き合いがあるなんて聞いたら、きっと、あちらでも吃驚仰天していることだろう。古風で保守的で、良くも悪くも常識的思考の持ち主だった母親は、この一風変わった関係を理解できないに違いない。何せ、そういうことをしている自分自身に私が一番驚いているのだから。
まさか、自分がそんなことになるとは思いもよらなかった。人生、本当に何が起こるか分からないものだ。
それでも、私は浮かれている訳ではなかった。
私の立ち位置は、あの子の臨時家庭教師役。顔見知りになった高校生に勉強を教えることになった社会人。どう見積もってもそんなところだろう。
それ以上は、どうにもなりはしない。
向こうの御家族としては、その辺りも含めて心配をしているのだろうが、それこそ取り越し苦労というものだ。
あの子は、いづれ私の手をすり抜ける。気持ち的に初めから、そこははっきりと線引きをしていた。
私にだって常識というものはある。それが普通の帰着点であろう。
あの子の人生はまさにこれからで。大学を出て、社会人になって。世界が急速に拡大するのだ。人との出会いも急激に広がる。そんな大切な時期に、私の存在が変な具合に足枷になってはならない。
重い存在にはなりたくなかった。
夢を見るには年を取り過ぎている。そして、私は今も昔も冷徹なまでのリアリストだ。
あの子がもっと年を取って、いい大人になった時に、ふと過去を振り返って、『そう言えばそういうこともあったなぁ』なんて、ほんの少しのほろ苦さと懐古の念を持って思い返せるような、そういった類のささやかな絆で十分だった。
待ち合わせは、あの子の駅の改札前。駅にして三つ分の距離。普段は気にも留めないような時間が酷く長く、そして短く思えた。
私は、やや緊張した面持ちで、あの子がやってくるのを待った。
休日の昼下がり、時間帯の所為か、辺りは人で賑わっていた。
ゆっくりと周囲を見渡して、大通りの向こう側にすらりとした長身を視界に認める。軽く手を振れば、向こうも此方に気が付いたようで、合図に手を上げた。
「大分、待った?」
「ううん。そうでもないわよ」
信号が青になるや否や軽く駆け足でやって来て、開口一番に聞かれた台詞に、私は微笑んで首を振った。
浬は、そのまま私の方を繁々と見つめた。
「なぁに? どこかおかしい所でもある?」
「いや、今日は………なんか……いつもと感じが違うなって」
そう指摘されて、自嘲気味に苦笑い。
化粧もいつもの倍以上は時間を掛けた。少し頑張り過ぎたかもしれない。あくまでもさり気なさを気取る積りであったのに、出だしから力みが表に出てしまっていては失敗だ。
「いつもよりちょっとだけ、気合が入ってるからね」
そんな傷を隠すように態とおどけた様に微笑んだというのに、
「すげー似合ってる。キレイ」
返ってきたのは、実に素直な感嘆と綺麗な微笑みだった。
そして、その一見、冷徹そうに見える眼差しには、場違いな程の熱が映り込んでいる。
―――この天然誑しめ。
私は向けられた眼差しに苦笑を漏らしていた。
浬は、時折、心臓に悪い言葉をさらりと口にした。あくまでも自然に。どこでそんなことを覚えて来るのやら。そういう時に限って、無闇に照れたりせずに堂々としているのだから始末に悪い。
そういうことを言われ慣れていない自分としては、ささやかな言葉に動揺をしていることが年甲斐もなくて、なんだか恥ずかしかった。
「じゃ、行こっか」
そう言って踵を返した背中に次いで隣に並べば、さりげなく手を取られた。
こういう接触は、いつのまにか当たり前になっていた。
時折、自分でも分からなくなる。
私はこの子とどうしたいのだろう。
その先は見えない。
だが、その手を自分から振り解くのは、なんだか惜しい気がしていた。
「なにそれ」
駅前の大通りを南下しながら、不意に目線を下げて浬が問うた。
その視線の先には、私の手元で揺れる紙袋があった。
「お使い物のお菓子」
「家に?」
「そうよ」
「んなの気遣わなくていいのに」
「そう言う訳にはいかないわよ。これはキミのご家族に対しての御挨拶だから。折角ご招待に預かったのに、まさか、手ぶらではいけないわ」
世間一般の常識ではそういうものなのだと言えば、何処か納得のいかない顔をして見せる。感覚的に、まだ理解を出来る年頃ではないのだろう。
「キミも社会人になれば分かるわよ」
取引先に手土産を持っていったり、長期休暇明けに社内へ御土産を持っていったり、儀礼的な遣り取りはまだまだ社会には健在だ。それは相手への労わりの心から来ているからだ。
「要するに、ちょっとした潤滑剤みたいなものかしらね」
人間関係を円滑にする為の。
こういうことは少しずつ、自然に覚えて行けばいいものだ。お手本は、それこそ周囲には溢れている。私も、その見本の一つになれれば、それで良い。
「今日は、お兄さんもいるの?」
途中、気になっていたことを訊いた。
浬から事前に聞いていた話では、家族でお昼ご飯を食べようというものだった。渡良瀬家の団欒に私が混じることになる形だ。
「ん。強制召集が掛かったから」
「悪いことしちゃったわね」
折角の休日。デートとかの予定があったら申し訳ない。
「母さん、なんかやたらと張り切ってる」
その様子を思い出したのか、ややげんなりしたように呟いた。
「そう」
私は複雑な気持ちで誤魔化すように微笑んだ。
なんだか手ぐすねを引いて待ち構えられているようで、無駄に緊張しそうだ。
「父さんも、なんか朝からそわそわしてて。家ん中、変な感じだけど……あんま気にしないで」
実に微妙な顔をしてこちらを見てから小さく笑う。
浬としても困惑しているようだった。
それに対して、私は穏やかに微笑み返していた。
詰まり、それだけ浬が大事にされているということなのだろう。
私にしてみれば妙なプレッシャーだが、それも愛情の裏返し。微笑ましい家族の一コマではある。
駅から歩いて十五分程、辿りついた先は閑静な住宅街にある、とある一軒家だった。
「ただいま」
浬君がドアを開けて中に入ると、
「いらっしゃい」
可愛らしい雰囲気のご婦人が、顔を覗かせた。
目尻に残る皺にお茶目さの欠片が見え隠れする。若かりし頃は、さぞかし可愛らしい感じの美人さんであったろうことを思わせる優しい面立ちの女性だ。
この人がお母様なのだろう。
「さぁ、上がってくださいな」
そういって柔らかく微笑んだ時の空気が、どことなく浬に似ていると思った。
「初めまして、こんにちは。今日はお招きありがとうございます。こちら少しですけれどどうぞ」
挨拶をして手土産を渡す。
「まぁ、ご丁寧に。ありがとうございます。まぁ、『フェリテ』のお菓子? あそこのって美味しいのよねぇ。今日は無理を言ってしまってごめんなさいね。予定とか大丈夫だったかしら」
「はい。御心配には及びません。こちらこそ、お手間を取らせてしまって申し訳ありません」
「あらあら、そんなこといいのよ? 堅苦しいのは苦手だから、ざっくばらんに行きましょう?」
相手から醸し出される柔らかい空気の所為か、心配していたような緊張は、いつの間にかなくなっていた。
「沙由流さん、上がって」
そんな玄関先で繰り広げられる通過儀礼的な遣り取りを遠巻きに眺めていた浬から、痺れを切らしたように声が掛かる。
母親は、そんな息子を窘めるように微笑んで、
「さぁ、どうぞ」
私を中に促した。
「お邪魔いたします」
来客用のスリッパを履いて、傍で待っていた浬を見上げる。
そこには、どこか此方の様子を慮るような心配の色が浮かんでいて、私は大丈夫だという気持ちを込めて、優しく微笑んでみた。
浬ははそれに安堵してか同じように目を細めてくれた。
そして、そのまま促されるようにして、長身の後に続く。
「あなた、樹。いらしたわよ」
来客を告げる少し高めの声が、家中を軽やかに響き渡った。
まるで先触れのようだ。
通された先は、リビングだった。
正面のソファに座って新聞を広げていたらしい家の主が、客を出迎えるように立ちあがった。
「いやぁ、どうも、いらっ……しゃい……………………………」
「……………………………」
流れるような動作で顔を向けられて、私は視界に入ったその人物を見て、驚きの余りに固まった。
その時の衝撃を何と例えれば良いのだろうか。
予想だにしないことが起こると、人の脳は衝撃の第一波をやり過ごした後、実に冷静になることが分かった。
何かのスイッチが入ったかのように、私の脳みそは高速回転を始めた。断片的な記憶の欠片がシナプスの鎖で無数に瞬時に繋がって行く。その辿りついた先に網羅された状況に、私は場所を忘れて大声を上げて笑いそうになった。
開いた口が塞がらないとは、まさにこのような事だ。反応を見る限り、向こうも同じようであったらしい。
だが、経験値の差からか、復活したのは相手の方が早かった。
「橘……沙由流くん」
口にされたのは、滅多に呼ばれることのない私のフルネーム。
耳に馴染んだ声が、私の唯一の認識符号を紡いでゆく。
それに私は無意識に詰めていた息を緩く吐き出した。
「………渡良瀬さん」
主は、参ったというように顔に手を当てて、小さな笑い声を漏らした。
「ハハハハ………参ったな。私としたことが」
「ええ、本当に」
やけに実感が籠ってしまった声に、どうしてか相手の笑いのツボが刺激されてしまったらしく、私たちは顔を見交わせると、再び笑いあった。
私を現実の世界に引き戻したのは、背中を摩る大きな手の感触だった。
「……どういうこと?」
その声に隣を仰ぎ見れば、浬があからさまに頭上に幾つもの疑問符を並べて立っていた。
「ああ、あのね」
「あらあら、皆でそんなところに立ってどうしたの?」
だが、説明をしようと口を開いた所で、リビングの入り口の扉が開いて、私は出鼻を挫かれたのだった。
入って来たのは、お母さんともう一人、背の高い、同じような優しい面立ちをした成人男性だった。
もしかしなくとも、彼が長男、つまり、浬の兄に当たる人なのだろう。
第一印象から見た感じは、落ち着いてはいるが、年齢的には私より下のようだ。高校生である浬が弟なのだから、通常の兄弟の年齢差から考えて当然と言えば当然の想像だ。
これで役者は揃ったということだ。
「こちらにお掛けになって」
仕切り直しとばかりに促されて、私はソファに腰を下ろした。
先程の経緯を簡単に説明したのは、この家の主であった。私との関係、つまり、会社の取引先にいる一人なのだと。
まさか、このような所で顔見知りに遭遇するとは思いも寄らなかった。なんという巡り合わせだろう。
私の隣には浬が座り、その対面には主である渡良瀬さんと奥さんが、そして、端の一人掛けのソファにはお兄さんが座っていた。
「まぁ、それじゃぁ、あなたが言っていた、知り合いにとっても気立てのいいお嬢さんがいるっていうのは、沙由流さんの事だったのね。なんて偶然かしら」
簡単な自己紹介をした後、純粋な驚きをその瞳に宿しながら口にされた奥さんの言葉に、私は少々うろたえた。
なんだ、その枕詞は。
実に不釣り合いなことを耳にした気がする。
真逆、ここで自分の事が話題にされているとは思ってもみなかったからだ。
「つまり、父さんは、もう大分前から沙由流さんを知ってたんだ」
背景を理解した浬が、やや不服そうな顔をしてみせた。
確かに、偶然とはいえ、私と渡良瀬さんが初めて顔を合わせたのは、もう随分と前の話だ。
「私が新入社員の頃からですから、もう足掛け六年になりますね」
「おや、もうそんなになるか」
初めは会社に来る大勢の取引先のうちの一人だった。会議やミーティングの際には大体、関係部署にいた私がお茶出しをした。
それから仕事で関わり合いを持つようになった。接待での食事も何度かしている。
今の遣り取りで、恐らく私の年齢が家族には明らかになっただろう。
その反応を静かに窺う。
「しかし、偶然にしても凄いな。というか、やっぱり、血は争えないって感じ?」
お兄さんの樹さんが、やや可笑しそうに喉を震わせた。
私はそれに曖昧に微笑んで見せるしかない。
なんだか、微妙に居たたまれない気分だった。
要するに兄としては、父親と息子が同じ趣味をしていると言いたいのだろう。
「本当にねぇ。いつだったかしら、あなた、息捲いていたじゃない。知り合いに勿体ないくらいの素敵なお嬢さんがいるって。まだ独身のようだから、近い将来家の息子の嫁に来てくれたら、なんて」
「ああ、それ、俺も聞いたよ。知り合いにいい娘がいるんだけど会ってみないかって。何で父さんがいつの時代のお見合いおばさんの真似事みたいに恋人の斡旋みたいなことをするんだって思ったんだけど」
「……………………………」
全く、この御仁は、なんて恐ろしいことを企てていたのだろう。
私は冷や汗を流しっぱなしだ。
いやいやいや、取引先なんて他に幾らでもある筈で、それが私の事だと決めるのはまだ早計だ。
私は元凶の本意を確かめるべく、真正面に座る渡良瀬氏に目を向けた。
「いやぁ、すまないね。私も橘君のことは目を掛けていたから、ついつい自分の娘を見るような気がしていてね。家は男二人だろう? 女の子がいたら色々と賑やかでいいだろうなぁとは思っていたんだよ」
そんなことを悪びれることもなく、実に爽やかに言ってのけたのだ。
心臓に悪すぎる。
そうであった。この人はこういう人だった。
私は内心、どっぷりと溜息を吐きたい気分だった。
この人を相手に、私に勝ち目など到底ない。ここはどんなに心臓に悪いことが飛び出てこようとも、平静を装うってニコニコとしている他は無い。
だが、それと同時に、渡良瀬氏で良かったと思ったのも本当の所だった。
私としては、それなりに気心が知れている人物ということであったからだ。
これまでは仕事上の付き合いのみであったので、そういう括りでの一線を引いてはいたが。
「で、浬は橘君とどういう経緯で知り合いになったんだ?」
本来なら掠る筈のない軌道は、やはり父親である渡良瀬氏には不思議であったようだ。私も当事者でないならば、そう思ったことだろう。
聞く気満々の両親の態度に、浬は口の端を引き攣らせた。
「なに。そこから始めんの?」
「だって、普通に考えて接点なんてないだろう?」
「駅前のカフェなんですって!」
何処まで話していたのかは知らないが、嬉々として実を乗り出すように母親が告げると、
「出来すぎだよね」
お兄さんも可笑しそうに優しい顔をして笑った。
浬君は、ちらりとこちらに窺うような視線を投げた。
ここは正直に洗いざらい話した方が良さそうだ。
私は、精神的に全面降伏の気分だった。一応、マイナスの感情は抱かれていないだけ、有り難いのだと思う。
私は観念したように微笑みを浮かべると事の次第を説明した。時折、浬の反応を見ながら、間違っていたら訂正を入れてもらう積りだった。
「初めて会ったのは、駅前のカフェでした」
つい一月程前の春の出来事を懐かしく思いながらも、私は口を開いた。
「ふと気が付いたら、隣の席に浬くんが居て」
私がそう言うと、兄の樹さんは実に意味深な視線を斜向かいの弟に向けていた。
「カウンター席で、偶々読んでいた雑誌に興味を持ったみたいで、そのことで少しお話をしました」
「雑誌というのは?」
「ああ、"Newsweek" です。それから英語の話になって」
「その時、授業でやってイマイチ分かんなかった所を沙由流さんに聞いて、教えてもらったんだ」
最初は、そういう関係だった。ちょとした顔見知り。
実に他愛ない慣れ染めを語れば、渡良瀬氏は何が可笑しかったのか、口に手を当てて、喉の奥を小さく震わせていた。その隣で奥さんもニコニコと笑顔を絶やさないでいる。
「どうかされましたか?」
これまでの話に何か可笑しな点があっただろうか。
一人首を傾げれば、
「浬の方は、そんな純粋な気持ちだけじゃなかったみたいですけどね」
相手を見透かすように兄は穏やかに微笑んだ。
「父さんも母さんもそれが分かるから、可笑しいんですよ。無駄に見栄を張っているって。本当は、もっと、下心アリアリだったんじゃないか?」
そう言って視線を横に流す。
隣の浬を見上げれば、バツの悪そうな顔をしていて、恥ずかしさを堪えるようにガシガシと頭を掻いた。
「ああ、もう。正直に言えばいいんだろ」
半ばやけくそ、観念したようにそう口を開いてから、視線を彷徨わせた。
耳の先がほんのりと赤くなっている。家族の手前、やはり話辛くはあるのだろう。
そうして語られた浬からの印象を私は初めて耳にした。
「年明けで、偶々部活が無かった時に帰りにカフェに寄って。そこで見かけたんだ。最初は、色が白くて綺麗な人がいるって思っただけだった。それから似たような時間にそこの前を通るとさ、同じガラス越しのカウンターの所に必ずその人がいて。なんか気が付いたら、その人のこと、目で追ってて。どんな人なんだろうとか、社会人らしいから、どこで働いてるんだろうとかが気になって。最初は通りすがりに見てただけだったんだけど、それだけじゃ物足りなくなって。ある時、帰りがけにそこに寄ったら、その人が同じ場所にいて、隣に誰もいなかったから、内心ラッキーって思って。気が付いたらそこに足が向いてた」
それは意外な告白だった。
そんなに前から、向こうはこちらに気が付いていたというのか。
「あわよくば、声を掛ける機会をうかがって、か」
兄は、弟の心情が手に取るように分かるのか、実にピンポイントで正確な合いの手を入れて来る。
「実にけなげだな」
「浬ったら、顔に似合わず純情なところがあるんだから」
お母さんの爆弾発言に言われた本人が眉を寄せる。
その顔は、内心の動揺を隠そうとしている為か、酷く赤かった。
そうやって何度かカフェで顔を合わせるようになって。他愛ない世間話を二言三言交わして、英語の授業で分からないという所を教えてあげるようになった。
そして、その距離を一気に縮めた契機は、あの子の方から漏れたテスト前の一言だろう。
気が付けば、自分から家庭教師の真似事を申し出ていて。場所に自宅を提供することになった。
そうして週一回、毎週土曜日の俄か授業が続いていた。
簡単にこれまでの経緯を聞き終えた両親は、一応、納得したらしかった。
「要するに浬が頑張った訳だ」
父親が目尻に皺を作りながら結論を言えば、母親が心配そうな顔をして此方を見た。
「でも、かなりご迷惑をお掛けしたんじゃありません? 元々、浬の我儘から出たことでしょう? お忙しいでしょうに。浬ったら、なんにも言わないんですもの」
高校生だ。秘密の一つや二つはあるだろう。
「いいえ。大丈夫ですよ」
そんなことはない。
私は、安心させるように微笑んだ。
「なんだか、浬にはすっごく勿体ない気がしてきた。橘さん、おモテになるでしょう。癒し系とか言われてないですか?」
「ご冗談を。そんなことはないですよ?」
「私も橘君の会社の人達にそれとなく探りを入れてみたんだが。キミは社内でも頗る評判がいい。気立てよし。器量よし。私はてっきり恋人がいてもおかしくはないと思ってはいたんだが、不思議とそういう色恋の話は会社では耳に入らなかったから、おかしいなと首を傾げていたんだよ。でもまさか、うちの息子が口説いていたなんて思いもしなかった」
いや、口説いていたというのとはニュアンスが違うだろう。
私は内心どぎまぎしながらも動揺を苦笑に流し込んだ。
「渡良瀬さんまで。なんてことを聞いていたんですか」
何食わぬ顔をして明かされる事実に私は顔から火が出る思いだった。
来週から会社に顔を出すのが実に気まずいではないか。
「ふふふ、積るお話はあるでしょうけれど、お腹がすいたでしょう? 時間もいい頃合いですし。御飯にしましょう?」
奥さんのその一言に、ダイニングへ移動になった。
テーブルに並んでいたのは、腕によりをかけた料理の数々だった。
「お口に合うか分かりませんけれど、どうぞ」
控え目に告げられた言葉に私は相好を崩した。
目の前を彩る大皿料理の数々。美味しそうな匂いを立てている。
「すごいですね」
これだけのものを用意するには大変だったろう。その気持ちだけで、もう胸が一杯になりそうだった。
「さ、どうぞ」
そして和やかな昼食会は始まりを告げた。
結局、それから食後のお茶まで御馳走になって、初顔合わせは終了した。
心配していた緊張はせずに済んだが、違う意味でハラハラと気の抜けない時間だった。
渡良瀬邸を辞して、帰路に就く間、駅まで送ると申し出た浬が、私の隣を歩いていた。
彼なりに今日の出来事は衝撃であったようで、それを消化するのに些か時間を要しているように見受けられた。
「沙由流さんが親父と知り合いだったってのは、なんつうか、悔しいけど、………最終的には良かったんだよな」
気がつけば繋いでいた手に力を込めながら、浬が空を仰いだ。
「そうかもしれないわね」
うぬぼれる訳にはいかないが、気心が知れていた所為か滑り出しとしては上々だったのではないだろうか。少なくとも、息子が年上の女に誑かされている訳ではないということは理解してもらえただろうから。
「私もまだ吃驚してる」
衝撃の余韻を引きずるようにして呟けば、浬は、ちらりとこちらに視線を流した。
「親父とは良く顔を合わせるんだ?」
どこか面白くないという色が声音に含まれていた。
「今は、部署が変わったから、そうでもないかしらね。会社にいらした時は顔を出すけれど。キミのお父さんには、仕事上お世話になっているだけよ?」
プライベートでは何の繋がりもない。飽くまでも公的なビジネス上の関係だけだ。ドライなものだろう。
それでも。頭では理解していても、感情では付いていけない点があるのだろう。
私は繋いでいた手にほんの少しだけ力を込めてみた。
すると、こちらの信号を受け取ったのか、
「ま、いっか」
浬はそう言うとひっそりと口元に弧を描いた。
それから、駅に到着するまで私たちは無言だった。
それでも、その沈黙は、決して気まずいものではなくて。心地よいものですらあったのだ。
その時の私は、この関係がその後変化し、自分の日常に深く入り込んで来ようとは全く予想だにしていなかったのだ。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
いかがだったでしょうか。
当初の構想とは違って、随分と『お父さん』が出張っていた感があります(笑)。それはそれで面白いかと思ったのですが。
これで番外編は終わりますが、折を見て、他のエピソードも書けたらと思っています。その時は、もしよろしければ、またお付き合いください。