乙女ゲームの王宮猫に転生しました ~推しの国王陛下の膝で、今日も昼寝します~
吾輩は猫である。名前はチャーミング。
……などと、前世で読んだ有名な小説の出だしを真似したくなるくらい、今日のわたしは機嫌がいい。
場所は、王宮の奥にある国王陛下の私室。午後の日差しがたっぷり入る長椅子の上で、わたしは世界でいちばん贅沢な座布団に丸くなっている。座布団というのは、国王レオポルト様の膝のことだ。
(はあ……レオポルト様、今日も素敵。眼福、眼福)
薄目を開けて見上げると、書類に目を通す横顔が見える。三十八歳。彫りの深い顔立ちに、こめかみのあたりにうっすら混じる銀色。渋い。とにかく渋い。前世で遊んだ乙女ゲームでも、王太子ルートの終盤にちらっと出てくるこの国王が、わたしはいちばん好きだった。まさか、その本人の膝で昼寝できる人生が来るとは思わなかった。
「おや、チャーミング。起きたのか」
低く落ち着いた声が降ってきて、大きな手がわたしの背中をゆっくり撫でる。わたしは喉をごろごろ鳴らして返事をした。人間の言葉は話せないけれど、この返事の仕方、けっこう便利だ。
「まったく、かわいいものだな。好きなだけここで休むといい」
(言われなくても休みます! あと十年は休みます!)
わたしは前世、ごく普通の日本人女性だった。アラサーの独身で、仕事帰りにコンビニでスイーツを買って、ゲームをして寝る毎日。そんな暮らしの中で、ひそかに憧れていたものがある。お金持ちの家で飼われている猫の生活だ。食べて、寝て、可愛がられる。それだけで一日が終わる。
憧れが強すぎたのかどうか、気がつけば本当に猫になっていた。しかも舞台は、遊んだことのある乙女ゲームの王宮。毛並みのいい長毛種で、首には国王陛下から贈られた宝石つきの首輪。三食昼寝つき。
神様、ありがとう。王太子ルートしかクリアしていないし、それもだいぶ忘れてきたけれど、それはどうでもいい。世界を救う気はないし、英雄にもなりたくない。わたしの世界は、この王宮の中で完結している。それで十分だ。
扉が静かに開いて、ふわりと上品な香りがした。
「まあ、チャーミング。今日もご機嫌なのね」
王妃様だ。やわらかな微笑みの似合う人で、わたしが王宮に来た頃から、ずっとこうして気にかけてくださっている。
「この子が安心して眠れる場所がある。それだけで、王宮も少し温かくなるものですね」
「ああ。私も同感だ」
陛下が、書類を持ったまま目元をやわらげた。……尊い。この国の夫婦は尊い。
続いて廊下から足音がして、金髪の青年が顔をのぞかせた。
「失礼します、父上。チャーミング、またここにいたのか。……まったく、かわいいな」
王太子のセドリックは整った顔立ちで、勉強も剣も申し分なく、国民の人気も高い。ただ、わたしから見れば、まだまだ手のかかる弟のようなものだ。
「セドリック、今日はアメリアと茶会だったな」
「はい。それで、その……花を持っていくべきでしょうか。それとも、何か話題を用意したほうが」
「お前は政務の話なら、よどみなく出てくるのにな」
「面目ありません……」
(ほらね)
このままでは婚約者のアメリアちゃんに、愛想を尽かされかねない。しっかり見守ってあげよう。
日が傾く頃、王宮の通用門のほうが、にわかににぎやかになった。
月に一度の、あの人の日だ。
王宮出入りの商人が、衛兵の確認を受けて、荷物を抱えて廊下を歩いてくる。街に自分の店を持つ、物腰のやわらかい中年の男性だ。わたしの姿を見つけると、顔をほころばせてしゃがみ込んだ。
「チャーミング様、お元気そうで何よりです。今月の新作を持ってまいりましたよ」
彼が差し出したのは、桃色の地に金のリボンをかけた、小さな包みだった。見た目は完全に高級キャンディだ。中身は、白身魚とチーズを練った猫用のおやつで、もちろん安全に作られている。
(きた! これこれ!)
わたしは包みを前足で押さえ、リボンの端をはむはむとほどいた。とろける白身魚の甘み。ほんのり香るチーズ。しあわせ。
「相変わらず、いい食べっぷりで」
商人が目を細める。わたしは夢中で食べながら、喉を鳴らした。
食べて、寝て、可愛がられて、ときどきお気に入りのおやつがもらえる。何も変わらない、完璧な毎日。
その毎日が、春の終わりに少しだけ騒がしくなるなんて、そのときのわたしは思ってもいなかった。
* * *
その客人が王宮にやって来たのは、庭の薔薇が咲きはじめた頃だった。
昼寝から目を覚ますと、玄関ホールがやけににぎやかだった。わたしは階段の手すりの陰から、そっと様子をうかがった。
ホールの中央に、見慣れない荷物と、少女が一人。桃色がかった金髪が、背中でふわふわ揺れている。年は、セドリックより少し下くらいだろうか。大きな瞳で、高い天井や磨かれた柱を、感心したように見上げていた。
「お待ちしておりました、フローラ様」
侍女頭が、荷物を運ぶ従者たちに指示を出している。
「王妃様のご親戚で、男爵家のお嬢様ですって。しばらく、王宮に滞在されるそうよ」
通りがかった侍女たちが、小声でささやき合うのが聞こえた。
(王妃様のご親戚か。お客さんなんて、久しぶりだなあ)
ふうん、と思って、わたしは前足で顔を洗いかけた。その手が、途中で止まった。
少女が、ふとこちらを向いて、にこっと笑ったのだ。誰にともなく、世界中に愛想を振りまくような、完璧な笑顔。
(……あれ?)
この顔、どこかで見た。ゲームのパッケージの真ん中で、にっこり笑っていた子に、そっくりだ。桃色がかった金髪も、大きな瞳も、笑ったときの口角の上がり方まで。
(ヒロインだ。ほんとにいたんだ)
(ってことは、ゲーム、始まるの? わたし、王太子ルートだけはクリアしたけど……)
あのエンディングでは、渋さ全開のレオポルト様が、ヒロインと王太子を祝福してくれる。推しの名シーンだ。見たい。ものすごく見たい。
(……いや、でも、それが現実になったら、アメリアちゃんはどうなるの)
胸の奥が、少しだけざわついた。けれど、ヒロインが来たからといって、ゲームどおりに進むとは限らない。王太子ルートの流れは覚えているけれど、ほかの攻略対象のことは、ほとんど分からない。今のわたしにできることも、特にない。
(……まあ、いっか。昼寝しよ)
ヒロインが来ようが来まいが、昼寝は昼寝だ。
そう思っていたのだけれど。
「初めまして、陛下、王妃様。フローラと申します。皆様にご迷惑をおかけしないよう、一生懸命勉強いたしますわ」
謁見の間で礼をするフローラは、完璧だった。声はやわらかく、笑顔は愛らしく、お辞儀の角度まで教科書のようだ。王妃様も「まあ、しっかりした子ね」と頬をゆるめている。
「わたくしの実家の遠い親戚の子なのです。一人で王都に出てくるのは心細いでしょうから、行儀見習いを兼ねて、話し相手に来てもらうことにしましたの」
「ほう。それは親切なことだ」
陛下と王妃様の小声のやりとりが、足元まで聞こえてくる。王妃様は優しい。けれど、「皆様のお仕事の邪魔はしないようにね」と、きちんと釘を刺すことも忘れなかった。
そして、足元のわたしに気づいた瞬間、フローラの目がぱっと輝いた。
「まあ、かわいい猫ちゃん! わたくし、猫が大好きなんです」
言うが早いか、フローラはわたしを抱き上げた。ふわりと、きつい香水の匂いがする。腕の力は意外と強くて、わたしのおなかのあたりを、ぎゅっと締め上げた。
(く、苦しい……! 猫の抱き方って、そうじゃなくて)
「にゃあ」
「まあ、甘えん坊さん」
違う違う、抗議の声だ。
フローラは満面の笑みのまま、セドリックや侍女たちに見せるようにわたしを撫でて、「ありがとう、猫ちゃん」と言って床に降ろした。
そこで、わたしは見てしまった。
みんなが別の話題に移った隙に、フローラはポケットから白いハンカチを取り出して、わたしを撫でた手を、さっと拭ったのだ。
一瞬だけ。ほんの一瞬、彼女の顔から表情が抜け落ちていた。
(……今の、何?)
わたしは廊下のすみで毛づくろいをするふりをしながら、考えた。猫が好きなら、撫でた手を拭いたりしない。あの拭き方は、苦手なものに触れたあとの人の動きだ。
気のせい、かもしれない。毛がついたのが気になっただけかもしれない。わたしは長毛種だし。
けれど、その日の午後に見た光景で、疑いは少しだけ濃くなった。
中庭を散歩していたわたしは、植え込みの陰で足を止めた。ベンチのそばに、フローラがいる。彼女はきょろきょろと周りを見回してから、ポケットの桃色の小さな包みを取り出し、ころん、と口に入れたのだ。
(……飴? お茶の時間でもないのに?)
飴を口の中で転がしながら、フローラは大きく息を吸った。そして、ちょうど通りかかったセドリックへ、ぱたぱたと小走りで近づいていく。
「セドリック様……! あの、少しだけ、よろしいでしょうか」
「フローラ嬢? どうしたんだい」
「実は、ご相談したいことがあって。あなたにしか、相談できなくて……」
フローラは、うつむいて、指先をもじもじさせた。
「王宮の暮らしに慣れなくて、夜になると故郷が恋しくて……。こんなこと、王太子殿下にお話しするなんて、図々しいですよね」
「そんなことはないよ。心細くて当然だ」
セドリックは、困った顔でフローラをベンチに座らせた。そして、自分もその隣に腰を下ろして、真剣に耳を傾けはじめた。
(セドリックって、困っている人がいると、とことん親身になるんだよね……)
それが、あの子のいいところではあるのだけれど。
しばらくして、フローラは目元をぬぐって、にっこり笑った。
「聞いていただけて、楽になりました。……アメリア様がいらっしゃるのに、ごめんなさい。でも、セドリック様にしか話せなくて。今日のことは、二人だけの内緒にしていただけませんか?」
「内緒? ……ああ、分かった。君が望むなら」
「ありがとうございます。また悩みができたら、聞いていただけますか?」
「もちろん。遠慮なく言ってくれ」
それだけのやりとりだ。誰がどう見ても、親切な王太子と、心細い遠縁の令嬢。
けれど、わたしの背中の毛が、ざわっと逆立った。
(……待って。「あなたにしか相談できなくて」「二人だけの内緒」って、前世で先輩を取られたときと、同じ台詞じゃない?)
いやいや、決めつけは早い。ただ心細いだけの子かもしれない。そう思おうとしたけれど、しっぽの先まで、ざわざわが止まらなかった。
* * *
それからしばらく、フローラは王宮のあちこちで、「相談」を重ねていった。
次の相手は、宰相閣下の息子のコンラートだった。書記官見習いで、眼鏡の似合う真面目な青年だ。
資料室の前の廊下で、フローラは例の飴をこっそり口に放り込んでから、書類の束を抱えた彼に声をかけた。
「コンラート様。お仕事中に、ごめんなさい。王妃様に頼まれた書き物で、分からないところがあって……。コンラート様にしか、聞けなくて」
「書き物? 見せてごらん」
コンラートは眼鏡を押し上げて、書類をのぞき込んだ。
「ここは、宛名の書き方が違うな。こう直すといい。……字がきれいだね」
「まあ、嬉しい! コンラート様は、お仕事がお早くて、教え方まで上手で。尊敬してしまいます」
「いや、そんな。……分からないことがあれば、また聞きに来るといい」
それから、コンラートは廊下でフローラを見かけるたび、「あの書き物は進んでいるか」と、自分から声をかけるようになった。
(親切なのはいいことだけど、あなたのお仕事は?)
訓練場では、騎士団長閣下の息子のガイウスが、フローラの相談相手になっていた。体も声も大きくて素直な、大型犬みたいな見習い騎士だ。
「騎士の皆様が、あまりにお強くて、わたくし、怖くて……。ここにいていいのか、自信がなくなってしまうんです。ガイウス様にしか、こんなこと言えなくて」
「そうか! 確かに、最初は誰でも怖いよな。俺も新人の頃は、毎日先輩に怒鳴られて、逃げ出したかった!」
ガイウスは豪快に笑って、フローラの肩をぽんと叩いた。
「大丈夫だ。困ったことがあったら、俺に言え。味方になるぞ!」
「ガイウス様……ありがとうございます。みんなには、内緒ですよ?」
「おう、約束する!」
(約束するな、見習い騎士! ちょろすぎる!)
わたしは植え込みの下から、その一部始終を眺めていた。
三人とも、フローラを気にかけている。恋に落ちたというほどではない。ただ、「あの子は困っているから」と、目で追うようになっただけだ。けれど、それが厄介なのだ。
フローラの作戦は、最初のうち、見事に成功していた。
そして、その日の午後。庭のベンチで、セドリックとフローラが、もう一時間近くも話し込んでいるのを、回廊の柱の陰から、アメリアちゃんがじっと見ていた。胸の前で、本をぎゅっと抱きしめて。
(アメリアちゃん……)
声をかけようとしたとき、アメリアちゃんは、そっと背を向けて、足早に去っていった。
その背中を見送りながら、わたしは、前世の自分を思い出していた。
(あのときの、わたしと同じ背中だ)
「頼られると放っておけなくて」と笑っていた先輩の顔がよみがえる。「彼女さんがいるのに、ごめんなさい」と遠慮してみせながら、相談をやめなかったあの子の声も。気づいたときには、二人の関係ができあがっていて、わたしだけが知らなかった。
(……相談女だ。間違いない)
猫を撫でた手を拭った彼女を見たときから、引っかかっていた。もう、勘違いだと笑い飛ばせない。
(おのれ、相談女め! わたしの大事な人たちに、何をする気よ!)
ところが、その次の「イベント」から、フローラの歯車は少しずつ狂いはじめる。わたしが、狂わせたからだ。
最初は、大階段だった。
その日の午前、わたしは階段の途中の日だまりで、うとうとしていた。窓から差し込む光が、ちょうど上から四段目あたりを温めていて、猫の体にはぴったりなのだ。
そこへ、階段の上にフローラが現れた。例によって、こっそり飴を口に入れている。
すぐ下には、書類を抱えて上ってくるセドリック。距離は、約十段。フローラは、その様子を確かめるように、ちらりと視線を送った。
(……あれ。この配置、見覚えがある)
階段。転ぶ。王太子に受け止められる。たしか、ゲームの序盤のイベントだ。「きゃっ!」と足を滑らせたヒロインを、攻略対象が抱きとめて、好感度アップ。
(させるか)
とはいえ、わたしにできることは多くない。力もないし、言葉も通じない。
なので、わたしは寝た。堂々と、四段目の真ん中で、完璧に。
「あ……あっ、きゃあっ!」
頭上で、わざとらしい悲鳴が上がった。フローラが、実に狙いすましたように、斜め前に倒れ込んでくる。
「チャーミング! 危ない!」
セドリックが、書類を放り出して階段を駆け上がった。フローラの横をすり抜けて、わたしを、ひょいっとすくい上げた。
ばさばさと書類が舞う。そして、受け止めてくれる相手を失ったフローラは、そのまま階段にぺたりと座り込んだ。
「ふう、よかった。踏まれるところだったよ。……ああ、フローラ嬢。大丈夫かい?」
「え、ええ……。猫ちゃんが、無事で、よかったですわ」
笑顔の口元が、ぴくぴく震えている。
通りがかった侍女たちが、くすくす笑いながら言った。
「チャーミング様は、本当にいつも、危ないところにいらっしゃるのね」
「それでいて、ちゃんと殿下に拾ってもらえるんだから、賢い子だわ」
(賢い、というか、作戦だったんだけど。……まあ、いっか)
セドリックの腕の中で、わたしは満足して喉を鳴らした。
翌々日、フローラは次の手を打ってきた。
場所は、書記官たちの仕事場へ続く廊下。大量の書類を抱えたコンラートが歩いてくるところに、フローラが角から飛び出して、ぶつかったのだ。
「きゃっ! ごめんなさい!」
書類が派手に散らばる。二人でしゃがんで拾う。指先が触れて、目が合う。ここまでは、見事な流れだった。
(ぶつかって、拾って、手が触れて……テンプレすぎるでしょ!)
わたしは廊下の窓枠から飛び降りて、散らばった書類のいちばん大きな一枚に、どさっと座った。そのまま、丸くなる。
「チャーミング? それは今日の午後の会議で使う……!」
コンラートが慌てて引っ張るけれど、わたしは動かない。猫は、狭い場所と紙の上が好きなのだ。ぐい、ぐいと引かれるたび、わたしの体重がかかって、紙の端がびりっと鳴った。
「コンラート」
廊下の向こうから、威厳のある声が飛んできた。宰相閣下だ。白髪まじりの髪を後ろに流した、切れ者の年長男性。わたしの大好きなイケオジの、ひとりである。
「その書類は、午後の会議で使うと言っていなかったか。廊下に散らかしている暇が、お前にはあるのか」
「も、申し訳ありません、父上……!」
「チャーミングか。……まあ、お前が踏んだなら仕方あるまい。拾いなさい。急いで」
宰相閣下は、わたしの頭を一度だけ撫でて、すたすたと去っていった。
コンラートは書類をかき集めて、時計を見上げた。
「午後の会議まで、あと二十分……! すまない、フローラ嬢。相談の続きは、また今度!」
彼は、風のように走り去っていった。
フローラの笑顔が、石像のように固まる。
(親切でも、締め切りは消えないんだよ。残念でした)
その数日後、フローラは訓練場へ向かった。
木剣で素振りをしているガイウスに、柵の外から声をかける。もちろん、飴は忘れずに。
「ガイウス様、この前のお話の続きなのですけれど……。実は、もっと深い悩みがありまして」
「悩み? ああ、俺でよければ、いくらでも! 今日は一日、付き合う!」
(付き合うな、見習い騎士! 仕事しなさい!)
わたしは、いてもたってもいられなくなった。訓練場の端を、騎士団長閣下が通りかかるのが見えたからだ。がっしりした肩幅、日に焼けた顔、威厳たっぷりの背中。こちらも、わたしの大好きなイケオジ。
わたしは猛ダッシュで走って、団長閣下のマントの裾に、がぶっと噛みついた。
「む? チャーミングか。どうした、そんなに引っ張って」
ぐいぐい、ぐいぐい。猫の全力で、マントを引く。
「どこかへ連れていきたいのか? ……ほう、訓練場か」
団長閣下は、のしのしと、わたしに引っ張られるまま歩いてくれた。そして、柵のところで楽しそうに話し込む息子と令嬢を見つけて、ぴたりと足を止めた。
「ガイウス!」
「はっ!? ち、父上!?」
「持ち場の見回りはどうした。新人の指導は。……そもそも、素振りの本数が全然足りておらん。今日は千回だ!」
「は、はいっ! 直ちに!」
ガイウスは、泣きそうな顔で素振りを再開した。フローラは、団長閣下に完璧な笑顔でお辞儀をして、引きつった顔で去っていった。
(ごめんね、息子さん。でも、お父さんたちに迷惑をかけるのは、見過ごせなくて)
団長閣下は、わたしを抱き上げて、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。
「賢いやつだ。わざわざ連れてきてくれたのかと思ったぞ」
(そうですよ! あなたを連れてきたんです!)
「にゃーん」
「ははは、返事までするか」
……伝わっていない。いや、一部は伝わっているのかもしれないけど。
それでもフローラは、めげなかった。いや、むしろ必死さが増した。ある日などは、東屋でコンラートを待たせたまま、同じ時刻に訓練場でガイウスと会う約束までしてしまい、どちらにも間に合わず、ドレスの裾をつまんで廊下を右往左往していた。人間の予定は、ゲームのカレンダーみたいに、きれいに並んではくれないのだ。
そんなある日の午後。
わたしは庭の奥のベンチの下で、夕涼みをしていた。すると、頭上から、聞き慣れた声が降ってきた。
「どうして、うまくいかないの……」
フローラだ。誰もいないと思っているのか、ぶつぶつと独り言を続けている。
「最初は、あんなにうまくいったのに。ちゃんと、おまじない飴も舐めてから話しかけているのよ。ゲームなら、飴を使ってイベントをこなせば、好感度がぐんと上がるはずなのに。少ないイベントで攻略できる、最高にタイパのいい課金アイテムなのよ? 街の裏通りのお店で、高いお金を出して買ったのに」
(課金アイテム!?)
わたしは耳をぴんと立てた。おまじない飴。……そういえば、そんなアイテムがゲームにあった気もする。ということは、あの飴は、彼女にとって、そういう物なのだ。
(いや、普通の飴でしょ。ゲームじゃないんだから、現実で舐めたって、ただ甘いだけだって)
「それに、あの猫」
どきっとした。
「階段にも、書類のところにも、訓練場にも、いつもいるのよ。偶然にしては、的確すぎるわ。……まさか、あの猫」
彼女は、そこで言葉を切った。しばらく黙ってから、ふっと自嘲するように笑う。
「……まさかね。ただの猫よ。でも」
ベンチの下をのぞき込む気配がした。わたしはとっさに、ごろんと転がっておなかを見せ、「にゃあ」と間の抜けた声を出した。
「…………」
しばらくの沈黙のあと、頭上でフローラが、にっこりと笑った。笑ったけれど、目は笑っていなかった。
「確かめてみる価値は、あるかもしれないわね」
去っていく足音を聞きながら、わたしは、ごろごろ転がったまま固まっていた。
(ひえ……バレてないよね? 猫のふり、続けなきゃ。大丈夫、わたしは普通の猫、普通の猫……)
内心で唱えながら、わたしは念入りに、前足で顔を洗った。
* * *
最近のアメリアちゃんは、夜になると、ひとりで温室に来るようになった。
以前は、昼間の庭で、少しお話しする程度だったのに。わたしは、月明かりのこぼれる温室の、お気に入りの鉢の縁で丸くなって、待つのが日課になっていた。
「チャーミング、ここにいたのね。……今日も、少しだけ、聞いてくれる?」
ランプを持ったアメリアちゃんが、わたしの隣にしゃがむ。夜着の上にショールを羽織った姿が、ひどく頼りなく見えた。
「セドリック様は、お優しい方だから。困っている人を放っておけないのは、分かっているの。フローラ様が悪い方だなんて、思っていないわ。……でも」
アメリアちゃんは、膝を抱えた。
「セドリック様が、あんなに親身になって、お話を聞いていらして。わたくしには、あんなふうに話してくださったことがないの。わたくしが、気にしすぎなのかしら。それとも、わたくしより、フローラ様のほうが話しやすいのかしら……」
(アメリアちゃん……)
前世のわたしは、あのとき、何も言えなかった。言えないまま、先輩は遠くへ行ってしまった。だから、アメリアちゃんには、同じ思いをしてほしくない。誰かに話すだけじゃなくて、ちゃんと、本人に。
「わたくしは、セドリック様のことが、大好きなのです。ずっと、前から。でも、それを言う勇気が、出なくて」
その声は、とても小さかった。わたしは耳を、ぴくっと動かす。
夜の政務を終えたセドリックが、この温室沿いの回廊を通って私室へ戻る頃だ。
(そういえば、そろそろその時間……)
わたしは立ち上がり、回廊に面した窓の腰かけへ飛び乗った。換気のために、窓は少しだけ開いている。そこで、「にゃあ」とアメリアちゃんを呼んだ。
「どうしたの、チャーミング。そこが、お気に入り?」
アメリアちゃんは、ランプを持ったまま、窓際まで来てくれた。わたしは窓枠の上に座って、ごろごろと喉を鳴らす。アメリアちゃんは、わたしの頭を撫でながら、続きを話しはじめた。
「……本当は、もっと素直にセドリック様に言えたらいいのに。『好き』って、たった二文字なのに」
窓のすぐ外の回廊で、靴音が、ぴたりと止まった。
わたしは、目だけを動かしてそちらを見る。暗がりの中に、金色の髪。書類を抱えたまま、石の柱のように固まっているセドリックがいた。
(よし。聞こえてる)
セドリックは、口を開きかけて、閉じて、それから耳まで真っ赤にして息を呑んだ。声をかけるべきか迷っているのが、手に取るように分かる。
(ほら、いけ。そこで一言!)
けれどセドリックは、結局、そっと一歩下がって、足音を殺しながら去っていった。
(そこで逃げるの!? ……まあ、いいか。今夜は、聞いてもらえただけでも)
ちょっと、がっくり。けれど、アメリアちゃんは何も気づかないまま、わたしを撫で続けている。
「ありがとう、チャーミング。あなたがいてくれて、よかったわ」
次の日の午後、わたしは作戦の第二段階に入った。
庭の小道で、アメリアちゃんの足元に座り込み、顔を見上げて、「にゃあ」と鳴く。歩き出して、振り返る。また「にゃあ」。それを三回ほど繰り返すと、アメリアちゃんは首をかしげながら、ついてきてくれた。
「どこへ行くの、チャーミング?」
向かう先は、薔薇のアーチの下。今日は珍しく、お供の人もいなくて、セドリックが、ひとりで花を眺めている。
「……あ」
アメリアちゃんの足が、止まった。
引き返そうとする後ろ姿に、わたしは、ドレスの裾をちょんと引っ張った。逃げちゃだめ、という気持ちを込めて。
アメリアちゃんは、ぎゅっと両手を握って、息を吸った。
「セドリック様!」
「ア、アメリア!?」
振り向いたセドリックが、慌てて背中に何かを隠した。白い小さな花が、手からはみ出している。
「あの、わたくし……セドリック様が、フローラ様のお話を聞いていらっしゃるのを見て、少しだけ、寂しくて。……わたくしにも、お話を聞かせていただけませんか。わたくしの話も、聞いていただきたいのです」
言い切ったアメリアちゃんの頬が、真っ赤だった。
セドリックは、ぽかんと口を開けて、それから、観念したように花を差し出した。
「これを。……君に、渡そうと思って。庭で咲いていて、似合うと思ったんだ」
「まあ……ありがとうございます。嬉しいです」
「アメリア。もし、私が、君を不安にさせていたなら、すまない。私は、言葉があまり得意ではなくて、どう君に話しかければいいのか、分からなかったんだ。本当は、君の話を、もっと聞きたかった」
「いいえ。わたくしこそ、うまく話せなくて」
「今度、ゆっくり、庭を一緒に歩かないか」
「……はい。喜んで」
二人は、そろって赤くなって、それぞれ違う方向の空を見上げた。
(うんうん、いい感じ! よく頑張りました!)
わたしが、二人の足元で得意げにしっぽを立てると、通りがかった侍女たちが、微笑ましそうに言った。
「チャーミング様、お二人の間を、嬉しそうに歩いていらっしゃるわ」
「猫って、いい雰囲気のところに、自然と集まるのかしらね」
(……いや、どう見ても、ただ甘えてる猫にしか見えないんだろうけどね?)
まあ、みんな幸せそうだから、それでいい。
柱の陰に、桃色がかった金髪がちらりと見えた気がしたけれど、そのときのわたしは、気のせいだと思ってしまった。
* * *
事件が起きたのは、それから数日後の昼下がりだった。
その日は、商人が来る日だった。わたしは、東の回廊の窓辺で、おとなしく待っていた。待っているのは、もちろん、おやつだ。
東の回廊は、庭へ抜ける近道だけれど、昼間はあまり人が通らない。商人は、衛兵に荷物を確認してもらって、ひょいと姿を現した。
「チャーミング様、お待たせしました。今月は、白身魚とチーズの、新しい練り方でして」
彼がしゃがんで、桃色の地に金のリボンをあしらった、豪華な包みを差し出した、そのときだった。
「あら」
背後から、甘ったるい声がした。
振り向くと、フローラが、柱の陰から現れていた。ひとりだ。侍女も連れていない。
「猫ちゃんに、おやつですか? 素敵ですわね」
「これは、お嬢様。お邪魔をしております」
商人は丁寧に頭を下げ、それから、はっと顔を上げた。
「おや。お嬢様は、先日、街のうちの店にいらした……」
「人違いですわ」
フローラの声が、少しだけ鋭くなった。
「いえ、確かに。裏通りの小さな店で、『恋が叶うおまじない飴』を」
「黙りなさい!」
商人は、きょとんと口を閉じた。
けれど、フローラの視線は、もう商人にはなかった。彼の手の中の、金のリボンつきの包みに、釘づけになっていた。
フローラが持っている飴と、同じ桃色の包み紙。でも、ずっと分厚くて、ずっと豪華で、ずっと上等に見える。
「……それ」
声が、震えている。
「わたくしの飴より、ずっといいものじゃない。どうして猫が、そんなアイテムを持っているの? ゲームには、そんなの、なかったわ!」
(え? これ、ただのおやつだけど……?)
わたしが首をかしげるのと、フローラの顔つきが変わるのは、同時だった。
「やっぱり。あなた、転生者なのね! わたくしより上等なアイテムを、いくつも持っているんでしょう! それで、わたくしの邪魔を!」
優しい猫好きの令嬢は、もうどこにもいなかった。血走った目が、わたしを睨んでいる。
「あの、お嬢様。これは、猫用のおやつでして、中身は白身魚と……」
「しらばっくれないで! 平民が口を出さないで!」
商人は、完全に困惑していた。わたしだって、困惑している。わたしは、ただ、おやつを食べようとしていただけなのだ。
フローラの目が、ふいに、わたしの首元に吸い寄せられた。
「……その、青い宝石」
彼女の唇が、わなわなと震える。
「その宝石も、アイテムなの!? それで、攻略を邪魔していたのね!」
(違うから! これは、レオポルト様がくださった、大事な首輪だから!)
フローラは、素早くかがんで、わたしの首根っこを掴み上げた。
「にゃっ!?」
体がぶらん、と宙に浮く。猫に、やってはいけない持ち方だ。
「出しなさい。そのアイテム、全部、わたくしに渡しなさい!」
「お、お嬢様、おやめください! 猫が苦しんで――」
貴族の令嬢相手に、平民が手を出すことはできない。商人の顔から、さっと血の気が引いた。
「……すぐに、人を呼んでまいります!」
彼は荷物を放り出して、回廊の向こうへ走っていった。
残されたのは、わたしと、フローラだけ。
(ちょっと待って、何なのこいつ! 離して!)
「ほら、どこに隠してるの! 持ってるんでしょう、ほかのアイテムも! 出しなさいよ!」
フローラは、わたしの体を、ぐらぐらと揺さぶった。気持ち悪い。苦しい。おなかのあたりに、爪が食い込む。
わたしの中で、ぷつんと、何かが切れた。
(何するの! 離してって言ってるでしょ! このっ!)
渾身の猫パンチ。右、左、右!
ぺち、ぺち、ぺち、とわたしの前足が、フローラの頬を打つ。爪は、ちょっとだけ出た。
「痛っ! このっ……!」
フローラの頬に、うっすらと赤い線が走った。彼女の目が、かっと見開かれる。
「たかが猫のくせに……! どうして、邪魔をするのよ!」
フローラは、わたしの首輪を鷲掴みにして、思いきり腕を振った。
わたしの体は宙を飛んで、石の床に叩きつけられた。
どさり。背中がじんと痛くて、一瞬、息ができなかった。長い毛のおかげで大きな怪我はなさそうだけれど、頭がくらくらする。
そして、その瞬間。
カツーン。
乾いた、硬い、高い音が、回廊に響いた。
(……え?)
首のあたりが、妙に軽い。わたしは、よろよろと頭を上げた。
首輪の留め金が、フローラの手首のブレスレットに引っかかって、外れていた。国王陛下からいただいた、あの青い宝石が、床の上をころころと転がっていく。
(わたしの、宝物……!)
宝石は、フローラの靴先で止まった。彼女は、その石を拾い上げて、しげしげと眺める。
「……やっぱり、これも、特別なアイテムなのね」
くるくると回して、裏返す。そこには、獅子の紋章が、小さく刻まれていた。王家の印だ。
「ふうん。前から気に入らなかったのよ」
フローラは、鼻で笑った。
「猫のくせに、いつも高そうな石をつけて。みんなに可愛がられて。生意気なのよ、おまえ」
(……返して。それは、レオポルト様が、わたしに)
声は出ない。力も入らない。それでも、わたしは、ふらふらと立ち上がろうとした。
そのとき、回廊の向こうから、慌ただしい足音が聞こえた。
「こちらです! こちらで、お嬢様が!」
商人の声だ。続いて、鎧の鳴る音。衛兵が二人。侍女頭と、若い侍女たち。それから、騒ぎを聞きつけた人たちが、あとからあとから駆けつけてくる。
全員が、角を曲がって、ぴたりと足を止めた。
床にうずくまって動けない、ぼろぼろのチャーミング。
その前に立つのは、頬に赤い線をつけて、王家の紋章入りの宝石を握りしめている、フローラ。
「……チャーミング様!」
侍女頭の悲鳴が、回廊に響いた。
* * *
そこからのことは、少しふわふわしか覚えていない。
最初に、侍女が震える手でわたしを抱き上げてくれた。柔らかな腕の中は温かくて、ようやく息ができた。
「ち、違うわ! 誤解よ!」
フローラの声が、裏返っている。
「この猫が、いきなり襲ってきたのよ! これは、床に落ちていたから、拾っただけで!」
「お嬢様は、猫様を掴み上げて、何かを出せと叫んでおられました」
商人が、震える声で、でもはっきりと言った。
「私は見ておりました。平民の身でお止めすることができず、申し訳ございません」
「嘘よ! その男は嘘つきよ!」
「その宝石は、王家の紋章入りです」
衛兵が、フローラの手の中を指差した。
「陛下がチャーミング様に賜った首輪の石では。なぜ、あなたがお持ちなのです」
「だ、だから、拾っただけで……」
そこへ、重い足音が近づいてきた。回廊の空気が、すっと冷える。
「何の騒ぎだ」
低く、落ち着いた声。皆が一斉に頭を下げた。
レオポルト陛下だった。後ろには、セドリックと、王妃様。
陛下の目が、侍女の腕の中のわたしを見つけた。次に、フローラの手の中の宝石を見た。それだけで、状況をすべて察したようだった。
「……チャーミング」
陛下は、侍女の腕からわたしを受け取った。大きな手が、慎重に、背中を撫でていく。
「怖い思いをしたな。すまなかった」
(レオポルト様……)
その声は、ふだんよりずっと低い。でも、わたしを抱える腕は、驚くほど優しかった。
陛下は、静かに顔を上げた。
「フローラ嬢。申し開きがあるなら、聞こう」
「へ、陛下! 全部、誤解なのです!」
フローラは、必死に駆け寄ろうとして、衛兵に止められた。
「その猫は、普通の猫ではありません! あの猫は、わたくしと同じ――転生者なのです! わたくしより上等なアイテムを持っていて、最初から、イベントを全部台無しに……」
「転生者?」
陛下の眉が、怪訝そうに動いた。
「何を言っている」
(うっ。それ、半分以上、本当なんだけど。ごめん、今だけは黙って撫でられておく)
わたしは陛下の腕の中で、「にゃあ」と、世界でいちばん無害な声を出した。
その場にいた全員が、同じことを思ったはずだ。この子が、そんな難しいものであるはずがない、と。
「証拠なら、その包みよ! 猫が持っているアイテムが……!」
フローラが、床に落ちた金のリボンの包みを指差した。商人が、慌てて拾い上げる。
「これは、猫用のおやつでございます。毎月、私がチャーミング様にお持ちしているものです」
彼は包みを開いて、中身を衛兵に見せた。白身魚とチーズの練り物。それ以上でも、それ以下でもない。
その横で、衛兵がフローラのドレスのポケットから、小さな布の袋を見つけ出した。中には、桃色の飴が、いくつも入っている。
「陛下。こちらは」
「それは、うちの店の『恋が叶うおまじない飴』でございます」
商人が、おずおずと言った。
「その……売り文句でして。ただの、甘い飴でございます」
「ただの飴で、人の心が動くものか」
陛下は、静かに言った。
「わ、分かってないわ! ゲームでは、この飴を使えば、イベントの好感度が上がるのよ! わたくしは、ちゃんと使ったのに! ヒロインなのに!」
「……げえむ?」
誰かが、小さくつぶやいた。意味が分かる人は、ここには、わたし以外に誰もいない。
「もう、よい」
陛下の声は、大きくなかった。けれど、有無を言わせない力があった。
「王宮の中で、王家の贈り物を奪い、我らが家族と呼ぶ者に手を上げた。目撃した者も、複数いる。……本日限り、フローラ嬢の王宮への出入りを禁ずる。実家の男爵家にも、追って書状を送る」
「そんな! わたくしは、ヒロインなのよ! あなたたちが、わたくしを選ぶべきなのに……!」
「連れていけ」
衛兵に両腕を取られて、フローラは回廊の向こうへ引きずられていった。
「どうして! 全部、あの猫が悪いのよ! 猫のせいなの! わたくしは、何も悪くないんだから!」
その叫びは、やがて、角の向こうに消えていった。
回廊に、静けさが戻る。
王妃様が、陛下の隣で、そっと目を伏せた。
「……わたくしの縁者が、この子に、ひどいことを。申し訳ありません」
「あなたのせいではない」
陛下は短く答えて、王妃様の肩に、軽く手を置いた。
わたしは、陛下の腕の中で、深い、深いため息をついた。
陛下は、拾い上げた宝石を、そっとわたしの目の前に見せた。
「これは、職人に直させよう。……傷は、痛むか」
「……にゃあ」
大丈夫、と言ったつもりだった。通じたかどうかは分からない。けれど、陛下はふっと微笑んだ。
医官の診察によると、わたしは背中と腰に軽い打ち身ができただけで、大事には至らなかったそうだ。その日、陛下は政務を早めに切り上げて、夜まで私室で、わたしをずっと膝に乗せていた。
「あの商人にも、礼を言わねばならんな」
「はい。後ほど、私から」
王妃様の穏やかな声が、遠くで聞こえる。
わたしは陛下の膝の上で、ゆっくりまぶたを閉じた。
(……怖かった。でも、レオポルト様のお膝は、やっぱり世界一あったかい)
* * *
あれから、数週間がたった。
わたしの首輪は、腕のいい金細工師の手で直った。留め金は前より頑丈になって、宝石は傷ひとつなく、元の場所に収まっている。首元で、ちりん、と小さく揺れるたび、わたしはちょっと誇らしい気持ちになる。
あの桃色の飴は、結局、ただの飴だったらしい。毒見役が味見をして、「甘いだけです」と、真面目な顔で報告したとか。
コンラートは、書類の山に埋もれながら、遠い目でつぶやいていた。
「親切のつもりだったが、仕事を後回しにしすぎた。……今後は、相談を受ける前に、締め切りを確認しよう」
ガイウスは、木剣を振りながら清々しく笑っていた。
「俺も、素振りの本数が全然足りていなかった! 今日から、毎日三千回だ!」
彼らの父親たちは、わたしを見かけるたび、そっと目配せをしてくる。宰相閣下は、わたしの頭を指で一度だけ撫でて、団長閣下は、手作りの干し魚を、こっそり差し入れてくれる。
(ありがとうございます。息子さんたちが、ちゃんと仕事に戻って、わたしも嬉しいです)
ところで、フローラの姿は、あれから一度も見ていない。
それに気づいたのは、事件から十日ほどたった頃だった。日向ぼっこの途中、ふと、あの甘ったるい香水の匂いがしないことに気づいたのだ。廊下を歩いても、階段で寝ても、中庭を横切っても、あの匂いはどこにもない。
(……ああ、そっか。もう、来ないんだった)
それだけだった。
彼女が今どうしているのか、どんな処分が下ったのか。わたしは、あまり気にならなかった。あの人が自分の物語の続きをどう歩んでいくのかは、わたしの知ることじゃない。
わたしにとって大事なのは、ごはんと昼寝と、大好きな人たちが、今日も笑っていること。
午後の庭では、セドリックとアメリアちゃんが、並んでゆっくり歩いていた。
二人の間の距離は、以前よりも、ほんの少しだけ近い。ときどき、指先がかすかに触れそうになって、二人は同時に赤くなって、手を引っ込める。
「……アメリア」
「は、はい」
「今度の夜会で、一緒に踊ってくれないだろうか」
「……はい。喜んで」
(おお。進歩した、進歩した)
足元で、わたしは満足して、しっぽをぱたぱた振った。
通用門のあたりが、にぎやかになる。月に一度の、あの日だ。
商人は、あの件のあと、陛下から直々にお礼の言葉をいただいたらしい。わたしを見ると、いつもより少しだけ誇らしげに、にっこり笑う。
「チャーミング様、今月の新作ですよ。白身魚とチーズに、ほんの少しだけ、かつおぶしを」
(かつおぶし!? 最高じゃない!)
桃色の地に、金のリボンの包み。見た目は高級キャンディ。中身は、ただの、おいしいおやつ。
リボンをほどいて、ぱくり。
(……おいしい! 生きててよかった!)
おやつをたっぷり堪能して、満腹になったわたしは、お気に入りの長い廊下を、ゆうゆうと歩いていく。目指す場所は、決まっている。
陛下の、私室。
扉の隙間からするりと中に入ると、窓辺の長椅子で書類を読んでいたレオポルト様が、顔を上げた。
「おや、チャーミング。今日も私のところへ来たのか」
(はい! 来ました!)
わたしは、ひょいっと陛下の膝に飛び乗る。ぴったりの形に、くるんと丸くなる。大きな手が、背中をゆっくり撫でてくれる。
「まったく、かわいいものだな。好きなだけここで休むといい」
ごろごろ、ごろごろ。
窓から、午後の光が差し込んでいる。首元では、青い宝石が、きらりと光った。
吾輩は猫である。名前はチャーミング。
世界を救った覚えはない。英雄になるつもりも、まったくない。ただ、いつもの毎日が、いつもどおり続いてくれたら、それでいい。
今日もわたしは、世界でいちばん贅沢な座布団の上で、とびきり幸せな猫をしている。




