酒の席で婚約者のわたくしを賭けの品になさった殿下は、王家の籍を取り上げられるそうです
殿下が卓に出す物を失くされたのは、夜半を過ぎてからだった。
残っていたのは指輪と、婚約者のわたくしだけである。殿下は指輪のほうをお外しにならなかった。
王城の東の広間。年に幾度か開かれる内輪の酒宴で、卓の上には賽と杯と、崩れた銀貨の山があった。銀貨の山はもう殿下の側にひとつも残っていない。
わたくしは壁際に立っていた。婚約者として招かれた者に、卓へ着く資格はない。この十年、こうして立って待つのがわたくしの役目だった。
「ジゼル」
エーリク殿下がお呼びになった。この国の王太子であらせられる。
「前へ」
進み出ると、卓を囲む方々の目がいっせいにこちらへ向いた。誰かが低く笑った。
「石像姫のお出ましだ」
わたくしは人前で笑わない。十六の年に殿下がそれを面白いと仰って、社交界にこの呼び名を広めてくださった。以来わたくしは笑わないことを笑われる娘として通っている。
殿下は杯を置き、卓の向こうの男へ顎をしゃくられた。
「もう一度だけやる。出す物ならある」
「殿下、今宵はもう十分でございましょう」
「この女なら惜しくない」
そう仰ってわたくしを指し、それから思いついたという顔でこちらを向かれた。
「婚約は今日で終いだ。ジゼル、聞いたな。終いだぞ。——だからこれは、もう誰の物でもない」
紙とペンが運ばれてきた。殿下はそれを引き寄せ、迷いのない筆でお書きになった。
わたくしの立った場所からも読めた。短いものだった。
『ブランシェット公爵令嬢ジゼルとの婚約は本日をもって解く。この女を、この勝負の勝者に譲る』
書き終えると、右手の指輪を蝋に押しつけられた。王太子の印である。生まれたときから殿下がお持ちの、この国でただ一つの捺し跡だった。
この国に人を紙で渡せる法はない。誰がその紙を持っていても、わたくしがその者の物になることはない。
けれど王太子の印は別である。捺したからには、婚約を解いたことも卓に何を出したかも、殿下ご自身が取り消せない。
縛られるのはわたくしではなく、殿下のほうだった。そのことに気づいた者は、その場に一人もいなかったと思う。わたくしも含めて。
その紙が銀貨の山のあった場所に置かれた。
卓が静かになった。
どなたも止めなかった。止めれば興が醒める。年嵩の伯爵が一度だけ杯を置く音を立てたが、それだけだった。
卓の向こうで、平民の男が紙を覗き込んだ。その夜たった一人だけ招かれていた、王都の金貸しである。男は紙を読み、捺し跡を見て、それからわたくしの顔を見た。値を確かめる目だった。誰かに値を確かめられるのは、思っていたより何も感じないものだった。
「よろしいので」
「振れ」
賽が振られた。
乾いた音が二度、三度と鳴って、四度目に止まった。卓を囲んだ首がいっせいに前へ出て、それからゆっくり戻った。
殿下は負けられた。
わたくしは何も申し上げなかった。泣くべき場面だったのだろうと思う。けれど涙は出なかった。この十年で、出す先を忘れてしまったらしい。
膝を折り、殿下へ礼をした。婚約が解かれた以上、それが最後の礼になる。
広間を出るとき、背中のほうで誰かが「取るのか」と言い、別の誰かが「取りますとも」と答えた。誰も笑わなかった。笑えばよかったのに、と思った。笑い声のうちに済んだことなら、翌朝には消えたはずである。
◇
馬車の中で、侍女のケーテが膝掛けを広げた。
「お嬢様、お手が冷たい」
「そう」
「そうではございません」
ケーテは膝掛けをわたくしの手ごと包み、それきり何も言わなかった。わたくしが息をつけるのはこの娘の前だけで、この娘はそのことを知っている。だから何も言わない。
屋敷に戻り、書斎の鍵を開けた。
机の抽斗に、革張りの帳面がある。表には何も書いていない。
最初の行は十年前の日付で、父の字だ。以下、二年前までが父の字で、そこから先はわたくしの字である。日付と、金額と、届けてきた者の名。それだけが並んでいる。
殿下が卓でこしらえられた負けは、婚約が結ばれた年から、すべて公爵家が払ってきた。金貸しが公爵家へ回し、父が黙って払い、父が亡くなってからはわたくしが黙って払った。王家との縁を汚さないためである。
父は一度だけ、この帳面についてわたくしに言ったことがある。
「ジゼル。これは貸しではない」
「では、何でございましょう」
「うちの名の値段だ」
父は北の伯爵家の話をした。王家への貸しを一度だけ口にした家である。その冬から茶会の招きが来なくなり、翌年には娘の縁談が二つ流れた。誰も理由を言わなかったという。
だから払う。払ったことは言わない。
父はそう言って、帳面を抽斗に戻して鍵をかけた。二年前の冬に父が亡くなってから、鍵はわたくしが持っている。
最後の行の下に、わたくしはその夜の日付だけを書いた。金額の欄は空けた。
書くべき金額がない。婚約が終いだと仰ったのは殿下で、終いなら、払う筋がない。
筆を置いて、帳面を閉じ、抽斗に戻して鍵をかけた。この帳面を誰かに見せたことは一度もない。父も見せなかった。見せれば、払ってきたと言うことになる。言えば、値打ちを自分の口で申し立てることになる。
ブランシェット家はそれをしない家である。
◇
四日後、門番が青い顔で取り次いできた。
あの金貸しが立っているという。
門の外へ出た。背の低い、身なりのいい男だった。両手を腹の前で組み、実に丁寧に頭を下げる。
「お嬢様。お噂どおり、お綺麗な方でいらっしゃる」
「ご用件を」
「これでございます」
男は懐から紙を出し、こちらへ向けて広げた。殿下の字と、殿下の捺し跡。
「わたくしどもは、この十年ほど公爵家に大変よくしていただいております。この紙をお引き取りいただく代金を頂戴できればと、それだけでございます」
「買い取れと」
「お安く申し上げます」
「断ります」
男の眉が少しだけ上がった。組んでいた手をほどく。
「断られますか。——では、これを持って、あちこちのお屋敷を回らせていただくことになります。物珍しいものですから、見たいと仰る方は多うございましょう。お嬢様のお名前も、殿下のお名前も、そこには書いてございますし」
「どうぞ」
「……よろしいので。お嬢様のお名前が書いてあるのですよ」
「書いたのはわたくしではありません」
男は口を開き、何か言いかけて、やめた。この十年、公爵家はこの男に一度も理由を尋ねなかったし、一度も渋らなかった。渋らない相手は断り方を知らないと思われるものらしい。
「お父上のときは、こうではございませんでした」
「父は亡くなりました」
「……左様でございましたな」
「それに、婚約は終いだと殿下が仰いました。あの場の全員が聞いております。終いなら、うちがお払いする筋がありません」
わたくしは門番へ下がるよう告げた。
「閉めてちょうだい」
門が閉まる音がして、それきりだった。
男は言葉どおりにした。翌週から、王都の屋敷という屋敷にあの紙が回りはじめた。茶会で回され、夜会で回され、回されるたびに写しが取られた。写しには捺し跡がないから、本物を見た者のほうが偉いという奇妙な流行りまで生まれたそうである。
ケーテが青くなって、噂を止める手立てはないのかと言った。
「止めたら、うちが止めたことになるわ」
「けれど、お嬢様のお名前が」
「名前は書かれているだけよ。書いた人の名前も、同じ紙にあるでしょう」
わたくしのところへは誰も持ってこなかった。持ってこられるはずがない。あの紙は持ってきた者が公爵家に何を求めているのかを、そのまま白状する紙だったからである。
◇
殿下は男を捕らえさせようとなさった。
王都の衛士が金貸しの店に入り、何も出さずに帰ったと聞いた。盗んだ物なら押さえられる。けれどあの紙は殿下ご自身が卓へ出し、その場の全員が見ている。正しく取った者から取り上げるには、司法官の許しが要った。許しは下りなかった。
次に殿下はあの夜の卓にいた方々を一人ずつ王城へお呼びになった。わたくしにも使いが来た。
通されたのは小さな控えの間で、既に四人の貴族が立っておられた。皆、あの夜、笑っていた方々である。
「座興だった」
殿下はそう仰った。
「あれは座興だ。酒の席の戯れで、誰も本気にしていない。そう言え。皆でそう言えば、そうなる」
どなたも返事をなさらなかった。
やがていちばん年嵩の伯爵が口を開かれた。
「殿下。あの紙には、殿下のお印がございます」
「押した覚えはない」
「あの場の全員が見ております」
「見たと言わなければよい」
伯爵は目を伏せられた。それが返事だった。ほかの方々も同じように伏せた。
わたくしも十年、その伏せ方を使ってきた。逆らえば咎められるが、伏せるだけなら咎めようがない。殿下がその側に回られたのは、この日が初めてだったのだろうと思う。
「お前たちは、あの場で笑っていたな」
どなたも顔をお上げにならなかった。
「笑ったなら、同じ側だろう」
それでも誰も上げなかった。笑うことと、名を貸すことは違う。
殿下がこちらをご覧になった。
「ジゼル。お前が言え。あれは戯れだったと、お前が言えば済む」
「わたくしは何も申しません」
「言えと言っている」
「あの夜、わたくしは一言も申しませんでした。今も同じにいたします」
殿下は何か仰りかけて、やめられた。控えの間を出ていくとき、扉が思いのほか静かに閉まったのを覚えている。
◇
その半月ほどのち、王妃陛下があの紙をお買い上げになったという話が流れた。
金貸しは言い値で売り、王都から姿を消したという。
王妃陛下はわたくしをお呼びにならなかった。何もお訊きにならず、何も仰らなかった。ただあの夜の卓にいた方々が一人ずつ私室へ召されているらしいと、ケーテが聞いてきた。
「お嬢様。何かおありなのでしょうか」
「さあ」
「本当に、ご存じない」
「知らないほうがいいでしょう」
召された方々が何を申し上げたのかは、外へ漏れてこなかった。ただ召された翌日から、その家の方は殿下のお茶会にお出にならなくなった。一軒、二軒と続いて、秋の初めには殿下の卓の周りが妙に広くなっていると聞いた。
「お嬢様は、王妃陛下へ何も申し上げなくてよろしいのですか」
「何を」
「この十年の、お払いのことを」
「言ったら、返してもらいたいことになるでしょう」
ケーテは黙った。わたくしは家の帳面を繰り、公爵領の秋の船荷の手配を続けた。麦の値と、南から来る塩の俵の数と、船の入る日。それが今のわたくしの仕事である。誰かが誰かを裁くことは、わたくしの仕事ではない。
◇
秋の初めに、王城から招きが届いた。
殿下が新しいお相手を披露なさる宴だという。お相手はシュタイガー伯爵家のロクサーヌ様。十九におなりの、明るい笑い方をなさる方だと聞いている。
招きには公爵家の名で出よと書かれていた。差出人は王妃陛下の名である。
「お断りになってもよろしいのでは」
ケーテがそう言った。
「陛下のお名前で来ているの」
「……はい」
「それに、行かないと、行けなかったことになるわ」
ケーテは支度を整えてくれた。灰みの青のドレスで、飾りは少ない。十六の年からずっとわたくしが選ぶのはこの色である。この色を着ていると、話しかけてくる方が減る。
当日、王城の広間へ入ると、殿下のほうから近づいてこられた。
「来たのか」
「招かれましたので」
「ちょうどいい。皆に見せてやれ。——石像は棚に戻れ、ジゼル。もう出てくるな」
わたくしは礼をして、壁際へ下がった。この十年、いつも立っていた場所である。
◇
宴が始まり、殿下がロクサーヌ様の手を取って中央へ進まれた。
拍手が起きた。まばらだった。
ロクサーヌ様はそれでも綺麗に笑っておいでだった。この方が悪いのではない。十九の娘に、王太子のお申し出を断る道はない。それはわたくしが誰よりよく知っている。
殿下は広間を見回して、少し顔をしかめられた。人が足りないと思われたのだろう。実際足りなかった。あの夜の卓にいた四家はいずれも後ろのほうにいて、誰も前へ出てこない。
そのとき、広間の奥の扉が開いた。
王妃陛下がお入りになった。
拍手が止み、皆が下がって道を空ける。陛下はまっすぐ中央へ歩まれ、殿下の前でお止まりになった。手には何もお持ちでない。
「母上。お越しくださるとは伺っておりませんでした」
「聞かせておりませんもの」
陛下の後ろから、侍従が小卓を運んできた。殿下とロクサーヌ様のあいだに置かれる。
そこへ、陛下は一枚の紙をお置きになった。
広間の空気が動いた。前のほうにいた方々が見て、その顔を見て、後ろの方々も分かった。誰かの扇が落ちて、拾う音がしなかった。
殿下の字である。殿下の捺し跡である。
「母上、これは——」
「エーリク」
陛下はお声を高くなさらなかった。それでも広間の隅まで届いた。
「あなたが卓に出したのは、この家の名です」
殿下が何か仰りかけて、口を閉じられた。
「あなたはこの娘を出したつもりでおいででしょう。違います。王太子の印を酒の席の賭けに捺した。捺したものは、印のとおりに動きます」
「それにあなたは十年のあいだ、卓の払いを一度もご自分でなさらなかった。届け先がどこであったか、ご存じですか」
「……存じません」
「ええ。ご存じないでしょう。届いていた先で、黙って払われてきたからです。払っていた家は、それを一度も口になさらなかった。わたくしがそれを知ったのは、あの紙が回りはじめてからです。あの男から紙を買い上げるとき、帳簿も一緒に引き取りました。十年分ありました。届け先はどの年も同じ家です」
殿下はロクサーヌ様のほうを見られた。
ロクサーヌ様は殿下の手をお離しになった。一歩下がり、それから二歩下がって、壁際の父君の隣へ戻られる。シュタイガー伯爵は娘の肩に手を置き、陛下へ深く礼をなさった。
「それと」
陛下はわたくしのほうをご覧になった。目が合ったのは、この十年で初めてだったと思う。
「石像と呼ばれて黙っておいでだったのは、その名を守るためでしょう」
わたくしは何も申し上げられなかった。
広間の誰かが小さく息を吐いた。
陛下は殿下へ向き直られた。
「あの夜、卓におられた方々。前へ」
広間の中ほどで、あの年嵩の伯爵が動かれた。ゆっくりと歩き、殿下の前を通り過ぎ、壁際へ寄って立たれる。
次に若い侯爵子息が立たれた。同じように歩き、同じように壁へ寄られた。三人目。四人目。
誰も殿下をご覧にならなかった。誰も何も仰らなかった。ただ席を立ち、殿下の前を通り、壁へ寄って、そこで止まる。それだけのことが四度続いた。
「待て。おい、待たぬか。お前たちは——」
五人目が立たれた。あの夜の卓にはいなかった方である。六人目も、七人目も。もう卓とは関わりのない家の方々が、次々と席を立って壁へ寄られた。
殿下の周りから椅子が消えていった。
中央に、殿下だけが残られた。
「陛下——母上、お待ちください。あれは、酒の席の——」
「エーリク・ヴァン・レーヴェス」
王家の全き名を呼ばれるのを、わたくしは初めて聞いた。
「王家の籍から、あなたの名を抜きます。国王陛下のご裁可はいただいております。籍を決めるのは陛下、この場で申し渡すのはわたくしです」
殿下が一歩、前に出られた。衛士が二人、静かに間へ入った。
「あわせて、あなたに与えられていた三つの領を王家へ戻します。年ごとの金も、今日限りで止めます。あなたのお持ちのものは、ご生母の家の領がひとつきりになります」
「母上、お待ちください。領は——領は、民が」
「民はわたくしが預かります。あなたが預かっていた三年で、あの三つの領から王都へ届いた税はいずれも減りました。減った分がどこへ行ったのかを、わたくしはこのふた月で調べさせました。卓です」
殿下は口を開けたまま、しばらく何も仰らなかった。
「印を」
陛下が手を差し出された。
殿下は右手を胸に引き寄せ、指輪を握り込まれた。指の関節が白くなるのが、離れて立っているわたくしのところからも見えた。それからしばらくして、外して陛下の掌に置かれた。
陛下はそれを侍従の盆へ載せ、小卓の紙を取り、二つに折って侍従へお渡しになった。
「片付けなさい」
そう仰って、扉のほうへ歩き出された。楽師が誰も弾かないので、広間には陛下の靴の音だけが残った。
殿下は中央に立ったまま、動かれなかった。壁際の方々も動かない。動けば見たことになるからで、この広間の作法では、動かないことが最も冷たい。
その中で、殿下がひとつだけ仰った。誰に向けたのでもない声だった。
「石像一つに、王家の籍とは」
わたくしはそれを、十年立ってきた壁際で聞いた。
◇
殿下は王都をお離れになった。
行き先は母君のご実家の、山ひとつ向こうの小さな領である。
お立ちの日は雨だった。見送りに出た家はひとつもなかったと聞いた。城門の外で馬車が止まり、殿下が振り返って何かを仰ったが、門番が近づく前に馬車は出てしまったという。
シュタイガー伯爵家はロクサーヌ様の縁談をすぐに別に整えられた。相手はご領地の隣の、穏やかな家だそうである。よかったと思った。
卓の払いの帳面は、抽斗に入れたままにした。もう書き足すことがない。金額の欄を空けたままにした最後の行だけが、この十年でただ一つ、うちが払わなかった行として残った。
◇
冬に入る前に、わたくしは公爵家の名代として南へ下った。
この十年、公爵領の船荷を預かってくださっているのは、南の湊を治めるモルテン伯爵家である。今年の礼を申し上げるのは、家を預かる者の務めだった。
湊は明るかった。潮の匂いと、荷を担ぐ人の声と、積み上げられた木箱。北の王都では見ない色の布が、風のあるほうへみんな傾いている。
「ようこそお越しくださいました」
ヴィルフリート・モルテン伯爵は、木箱の山のあいだから出てこられた。上着の袖をまくったままで、それに気づいて下ろされ、下ろしてから少し困った顔をなさった。
「申し訳ない。朝から数えておりまして」
「お邪魔をいたしました」
「いえ。……よくいらしてくださった」
その方は毎年うちへ南の果実をお送りくださっている。婚約していた十年、ずっとである。
箱にはいつも同じものが入っていた。皮のまま手で剥けるもの。切らなくてよいもの。器のいらないものだけである。
わたくしは人前で飲み物を受け取らない。夜会で杯を持つと、必ず誰かが「石像が水を飲むぞ」と囃す。それを聞くのが厭で、十六の年からずっと何も受け取らずにきた。
器のいらないものだけを選んで送る人は、この方のほかにいなかった。
湊を歩きながら、伯爵は船と荷の話をなさった。今年の潮のこと。北へ回す塩のこと。塩は俵で運ぶが、俵を編む職人が減って困っていること。
わたくしが帳面の数を口にすると、伯爵は足を止めて聞き、それからご自分の帳面を開いて突き合わせられた。合わないところがひとつあり、伯爵はその場で荷役の頭を呼んで確かめられた。うちの数のほうが正しかった。
「助かりました」
「いえ」
「北の家で、こちらの数まで見ておられるのはお宅だけです。毎年そうでした」
わたくしは少し驚いた。この十年、公爵家の荷を数えていたのが誰なのか、王都では誰も知らない。父が生きているあいだは父の仕事で、亡くなってからはわたくしの仕事になった。それを口にしたことはない。
「二年前から、俵の数え方が変わりました」
伯爵は帳面の同じ行を指で押さえたまま仰った。
「それまでは十俵でひと括りでしたが、いまは十二俵です。船の底の形に合わせておいでですね。前のお方は、そこまではなさらなかった」
王都の話は一言もお出しにならなかった。
あの紙のことも宴のことも殿下のことも、この方は最後までお訊きにならなかった。
夕方近く、荷置き場の陰で足を止められ、上着の隠しから小さな紙包みを出された。
「これを。今年のは甘い」
包みを開くと、乾かした果実がひとつ入っていた。手のひらに載る大きさで、器はいらない。
「毎年頂戴しております」
「はい」
「なぜ、器のいらないものばかりなのでしょう」
伯爵は少し黙られた。それから荷のほうを見たまま仰った。
「十年前の夜会でお見かけしたとき、あなたは何も受け取っておられなかった。周りが囃すからだと、しばらく見ていて分かりました。それで」
「それで」
「受け取っても、誰にも見られずに済むものを」
その方はそれだけ仰った。
◇
積み上げた荷のあいだで、わたくしは笑った。
人前である。隠しもしなかった。声を立てて笑ったのは、いつ以来か分からない。
伯爵は驚いた顔をなさって、それから理由をお訊きにならなかった。ただ木箱の上の帳面を閉じて、次の荷のほうへ歩き出された。
「日が落ちます。屋敷までお送りしましょう」
「はい」
潮の風がまだ暖かかった。
(了)




