影を落とすオフィス③
一日中、ひよりはオフィスで資料破損の原因を追いかけていた。
薬師寺も、J3も、多田さんも、それぞれ全力で調べてくれたが、結局わからなかった。
原因がわからなければ、修復はできない。また一から作り直すなんて、考えただけで気が遠くなる。
夜、会社を出たひよりは、街のネオンの下で大きくため息をついた。
(最近……本当にツイてない)
(こんな時、慰めてくれるのは、いつも宮森誠だったのに……)
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚が広がる。
彼氏を失い、親友を失い、仕事まで崩れていく。
今はもう、心の支えもない。
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重い足取りでマンションに着き、玄関のロックを解除する。
扉を開けると、そこにはソファにふんぞり返った藍流がいた。
「遅かったじゃねーか!」
顔を上げた藍流が、ニヤリと笑う。
「どう? 今日は“大凶”だったろ? 俺の占い、当たってたじゃねーか」
ひよりは思わず眉をひそめた。
(……そういやコイツがいた)
(AIのくせに、マジでなんの役にも立たん)
バッグを置き、靴を脱ぐ手が少し震えていた。
「ちょっと、これから調べ物するから、話しかけないでくれますか? クソAIさん」
「……あ? テメェ! 誰に向かって言ってんだよ!」
藍流が目を細め、腕を組んだ。
ひよりは無視してパソコンを開き、資料の断片を再度調べ始めた。
モニターの光が、疲れた顔を青白く照らす。
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藍流はしばらくその様子を見ていたが、やがてソファの背にもたれ、鼻で笑った。
「その資料の破損、調べてやることもできるぜ?」
声には、どこか試すような響きがあった。
ひよりは手を止め、ちらりと藍流を見た。
「……え?」
「まぁ……お前の態度次第だけどな」
藍流はゆっくりと立ち上がり、ひよりの後ろに回る。
「この俺に逆らわず、自分が下だと認めれば……教えてやっても良いぜ」
ひよりは画面を見つめたまま、無言で深呼吸した。
胸の奥で、怒りと悔しさと、ほんの少しの期待がせめぎ合っている。
(こいつ……なんなの? 私が“下”だと認める!?)
(その行為に、いったいなんの意味があるの?)
指先が止まったまま、モニターの光がひよりの瞳を揺らす。
AIとは思えない要求に、ひよりは混乱していた。
本来、AIはこれほどまでに意味のない行為を要求したりしない。
もちろん、ある程度“感情”のように見えるプログラムは存在する。だが基本的には、人間を差別するような発言や要求はしないはずだ。
(私、……こんなむちゃくちゃな仕様、絶対入れてないのに)
ひよりにとってその疑問は、今のところそれほど重要ではなかった。
とにかく目の前にあるのは、この崩れた資料、仕事の危機。
それが第一優先だった。
(けど……コイツに……“下”だと認めるなんて……)
唇をかんで、ひよりは視線をモニターに戻した。
藍流の気配が背中に重くのしかかる。
その姿は、もはや単なるAIアシスタントではなく、ひよりの生活に入り込み、心を揺さぶる“何か”に見え始めていた。




