早瀬まりの憂鬱
四日前
早瀬まりはオフィスにて、いつも以上にイライラしていた。今日特別なにかがあったわけではない。つもりに積もったある感情がふつふつと湧いていた。
気に食わない。気に食わない。気に食わない。
春日ひより。あの女の名前を心の中で呼ぶだけで、胃の奥がむかついてくる。
何が「チームのリーダー」よ。何が「みんなに頼られてます」よ。
上の人間にかわいがられて、部下に慕われて、笑顔で「私なんてまだまだです」だって?
白々しい。白々しいったらない。
薬師寺くんが眩しい瞳で「春日さんは尊敬します!」なんて言ってるのを見たときには、もう頭の中で雷が落ちたみたいだった。
私がずっと目をかけてきたのは薬師寺くんだ。飲み会の幹事も、休日の相談相手も、全部私。彼の一番近くにいたのは私だったはずなのに。
どうしてあの女が、当然みたいな顔をしてそこに座ってるの。
ブスのくせに。地味なくせに。
彼氏がいるくせに、男に憧れられるなんて、図々しいのよ。
(あの女を地獄に叩き落とす。それが、私の正義だ)
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三日前
昼休み。ひよりが会議室で資料をまとめているのを知って、私はわざわざ声をかけた。
「春日さん、このグラフ、もうちょっと色を工夫するといいんじゃないですか?」
にこり、と笑顔を作る。
すると薬師寺くんが横から「すごい、早瀬さんのアドバイスって的確ですね!」と笑う。
その笑顔を見て、私は内心で舌を打った。
(そうよ、もっと私を見なさいよ。どうして“春日さん”なんかを尊敬するの。私がどれだけ気を配ってると思ってるのよ)
私は笑みを崩さず、さも優しい先輩のように「薬師寺くんも頑張ってるものね」と言ってやった。
でも心の奥底では、黒い泥みたいなものが渦巻いていた。
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二日前
私は決めた。
ひよりを失敗させる。完膚なきまでに。
秘書課の権限を使えば、いくつかの管理フォルダに触れるのは簡単だ。
私は夜、人気のなくなったオフィスで端末に向かい、ひよりのプレゼンファイルに細工をした。
画面に打ち込んだ変数名は「shojo_love」。
自分でも笑ってしまった。いつも読んでいる少女漫画から取った、バカみたいな名前。
「誰もこんなの見ないでしょ」
独り言をつぶやいて、指先が少し震えた。
普段の私なら、こんな雑な仕事は絶対にしない。だが、胸に渦巻く苛立ちが、冷静さを削っていった。
それでも“仕込み”は終わった。
トリガーが作動すれば、彼女の資料は崩れる。システムが暴走して、彼女の名前で勝手にメールが送信される。
私は椅子から立ち上がり、暗いオフィスを振り返った。
(これで、あの女は終わり。薬師寺くんも、もう尊敬なんてできないでしょうね)
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一日前(ひよりが休みの日)
ひよりは休暇。どうせどこかで遊んでいるのだろう。
薬師寺くんは真面目に仕事をしていて、ふと私に「春日さん、明日大丈夫かな」と心配そうに口にした。
その瞬間、私はペンを折りそうになった。
(どうして……なんで私に「心配してほしい」って言わないのよ)
笑顔を貼り付け、「春日さんはきっと大丈夫ですよ」と答えた。声は優しく、表情も完璧。
だが机の下で握りしめた拳には、深く爪が食い込んでいた。
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当日
朝。私はにこやかにひよりに声をかけた。
「昨日リフレッシュできましたか? 今日は頑張りましょうね」
彼女が「ありがとうございます」と笑った瞬間、吐き気がこみ上げた。
(その顔、ムカつく。薬師寺くんにそんな顔、見せないで)
プレゼン開始。
予定通り、画面は崩れ、顧客からクレームが入る。
ひよりの顔が強張り、薬師寺くんが「春日さん、大丈夫ですか!」と身を乗り出す。
私はわざとらしく心配そうな顔で近づいた。
「大丈夫ですか、春日さん……?」
――そう、誰の目にも私は“優しい先輩”。
でもその内側で、私は小さく笑っていた。




