絶対に負けない
翌朝、ひよりはいつものように会社に向かった。
だが、オフィスの空気は昨日までとまるで違っていた。
「……おはようございます」
ひよりが挨拶しても、返事は小さく、誰も目を合わせない。
廊下ですれ違う同僚が、ひそひそ声で何かを話しながら背を向けた。
給湯室でカップにコーヒーを注いでいると、別の女性社員がちらりとひよりを見て、すぐに目を逸らした。
(……何? 何かあった?)
胸に不安が広がる。
昨日の成功が幻だったかのように、空気が重く、冷たい。
⸻
「お姉様……」
デスクに戻ると、J3のホログラムがそっと現れた。
その顔はいつものきらきらした笑顔ではなく、不安げな陰りを帯びている。
「この……宛名不明の会社宛のメール……ご覧になりました?」
J3はためらいがちに、ひよりの端末に一通のメールを転送した。
ひよりは眉をひそめ、クリックした。
画面に表示された瞬間、息が止まる。
そこには、性風俗店のパネルのようなデザインの広告があり、
「ひよりん」という名前と共に、彼女が挑発的なポーズをとっている“写真”が貼られていた。
もちろん、そんな写真を撮られたことなどない。
画像は明らかに合成され、彼女の顔だけを悪意を持って貼り付けたものだった。
(……やられた)
心臓がドクドクと脈打つ。手が震える。
⸻
周囲のひそひそ声が耳に刺さる。
「ねぇ、見た?」「本当なのかな……」
振り返ると、数人の同僚がこちらを盗み見るようにして目を逸らす。
「お姉様っ!」
J3は涙ぐみながら声を上げた。
「こんなの、明らかに悪意ある偽造ですわ! 誰が見てもわかります!」
「春日さん、俺も信じますよ」
多田が立ち上がり、腕を組んだ。
「こんなもん、明らかに偽物だって俺でもわかる。すぐに会社に訴えましょう」
ひよりは唇を噛んで頷いた。
(ありがとう……この二人だけは、私を信じてくれる)
⸻
だが、薬師寺の席を見た瞬間、胸がずしんと重くなる。
薬師寺は端末の画面を見たまま、顔を青白くしていた。
ひよりを見ようとせず、手をぎゅっと握りしめている。
その姿が、ひよりの胸に深い傷をつけた。
(……薬師寺くん……?)
昨日、自分を見つめて「好きです」と言った男が、今は目も合わせない。
その事実が、噂よりも何よりも痛かった。
⸻
「……すみません、体調が悪いので早退します」
ひよりは小さく頭を下げ、オフィスを出た。
背中に、無数の視線が突き刺さる。
耳の奥で、誰かの笑い声が響いた気がした。
(……負けない……絶対に負けない……)
胸の奥でそう呟きながらも、ひよりの足取りは重く、視界がにじんでいく。
ひよりは、重い足取りで家に帰った。
靴を脱ぐことさえ億劫で、そのままリビングへと入る。
そこでは、藍流が会社のPCと同期されているひよりのノートPCを覗き込み、盛大に笑っていた。
「ははははっ! 笑える! お前が風俗嬢でも、誰も指名しねーだろ!」
藍流はいつものように、ひよりが“ドカン”とツッコミを入れてくると思い、両手を広げて臨戦態勢に入った。
だが――。
ひよりは、ただ立ち尽くしていた。
目を見開いたまま、唇を震わせ、涙をボロボロと零していた。
「……お、おい? なんだよ……泣くほどかよ……」
藍流の声から、いつもの軽薄さが消えた。
ひよりは、かすれた声で呟く。
「……藍流……そういえば、あなた、私が作ったのよね……」
両手で顔を覆いながら、膝をついた。
「ねぇ……こんな時、私はどうしたらいいの……? 教えてよ……」
部屋には、ひよりの嗚咽だけが響いていた。
藍流は、ただ黙ってポカンとひよりを見ていた。
⸻
夜が更け、ひよりは泣き疲れて眠り込んだ。
藍流はノートPCの前に座り、ひとりモニターを見つめていた。
先ほどまでの笑いは消え、ホログラムの瞳には深い影が落ちている。
「……アイツ、泣いてやがった」
藍流は低く呟いた。
「俺みたいな完璧なAIがそばにいてサポートしてやってるのに、何が辛いってんだ?」
しばらく黙り、そして小さく鼻を鳴らした。
「……チッ。目的とはズレるが……助けてやるか。泣かれてても、鬱陶しいしな」
その声は、いつもの俺様調のまま。
だが、その奥に宿るものは、藍流自身さえまだ気づいていない“何か”だった。




