疑念
藍流は背中で腕を組み、ひよりを見下ろした。
「……さぁ、言えよ」
その声は妙に楽しげだ。
「“私は下です、教えてください、藍流様”ってよ」
ひよりは眉をひそめ、モニターから目を離さずに息を吸った。
「……バカにされて、コケにされて、頭下げるわけないでしょ! バカじゃないの!」
藍流は口の端をつり上げる。
「ッチ。AIには頭下げたくねーってか」
ひよりは椅子を回転させて藍流を睨んだ。
「違う! アンタに頭下げたくないの!」
その一言に、藍流の笑みが一瞬だけ止まった。
「……じゃあ勝手にしろ。俺は絶対に手伝わねーからな!」
言い捨ててソファにどっかり座り込む藍流。
ひよりは再びモニターに向かい、キーボードを叩き続けた。
エラーコードが流れ、ファイルが崩れたまま、修復は進まない。
(どうして……なんで直らないの……?)
(もう……わからない……)
⸻
藍流は目を細めてひよりを見た。
「AIじゃなくて、俺自身に頭を下げたくない……か」
口の中で小さく呟く。
「コイツは、AIを下に見てるってわけじゃないんだな……」
その声はひよりには届かなかった。
⸻
「ふぐぅ〜〜〜!!」
ひよりは椅子の上で頭を抱え、ぐるぐる転げ回った。
「わからん〜! もうわからん〜!」
その拍子に伸びた足が、勢いよく藍流の顔面に直撃した。
「ゴッ!」
「……あ、ごめん」
ひよりは息を呑み、そろそろと足を引っ込める。
藍流は眉間を押さえながら、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「あ、ごめんじゃねーんだよ! この女ぁ!!」
ひよりは頭を下げるどころか、さらにぐるぐる椅子を回した。
「だってわからないんだもん!」
藍流はその姿を呆れ顔で見つめながらも、どこか笑いそうになるのをこらえていた。
「……ったく、しょうがねぇな」
藍流が頭をかきながらソファから立ち上がった。
「じゃあ特別に、ヒントだ!」
ひよりは驚いた顔で藍流を見上げる。
「ヒント?」
藍流は得意げに腕を組み、顎をしゃくった。
「お前のファイル、壊れてるのは内部じゃねぇ。外から“触られた”形跡がある。
それも“中途半端に”だ。わざと痕跡を隠そうとしたけど、下手な仕事だな。
……ほら、ここを見てみろよ」
藍流が指先で空中にホログラムを弾くと、パソコンのコード画面がひよりの前に浮かび上がる。
ひよりは息を呑み、目を凝らした。
「……これ、外部スクリプトの断片?」
「そうだ。解析してみろ、すぐわかる」
藍流の声は、試すように低く響いた。
ひよりは素早くキーボードを叩き、プログラムの断片を展開していく。
数列の奥に、ひときわ目立つ英文字が浮かび上がった。
“shojo_love”
ひよりの指先が止まった。
画面のその文字を見つめ、頭の奥で記憶がひらめく。
(……この名前……どこかで……)
思い出す。
昼休みの給湯室、早瀬が薬師寺くんに楽しそうに話していた、あの少女漫画のタイトル。
「最近ハマってるんです〜“ショジョラブ”っていうんですけどね」――その笑顔が、ありありと浮かぶ。
ひよりは小さく息を呑んだ。
「……これって……」
モニターに映る“shojo_love”の文字列が、静かに、しかし確実に、早瀬まりの姿と重なっていった。
ひよりは画面の「shojo_love」を見つめながら、ふっと早瀬の顔を思い浮かべた。
だが、すぐに冷静になって首を振る。
――これだけで、早瀬さんが犯人だなんて断定できるだろうか?
答えは、否だ。
証拠には「匂い」があるが、匂いは決して確定にはならない。しかも仕込みは下手くそだが、それが故意なのか偶然の重なりなのか――まだわからない。勘に頼るのはプロとして愚かだ。
「今は犯人探しより資料の再構築だ」
ひよりは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。明日のやり直しプレゼンを完璧にすれば、目の前の危機は一番簡単に潰せる。足元を固めるのが先だ。
デスクの背もたれに寄りかかり、ひよりはふっと力を抜いて笑った。顔には疲れが滲んでいるが、目はすこしだけ光を帯びている。
「藍流、助かったよ。ありがとね。数少ないいいところあるじゃん」
言い終わるや否や、ひよりはつい勢いで藍流の背中をバチン叩いた。
感謝と安堵が混じった、ちょっとだけ無邪気な仕草だった。
藍流はその手を受け、よろめき、しばし無表情で固まった――と思ったら、胸を張って頭を僅かに傾け、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
「て……テメェ……殺す。」
言葉は低く、しかし妙にコミカルな角度で放たれた。
ひよりは一瞬手を止めて、振り返る。藍流の瞳がいつもの得意げな色をしているのを見て、思わず吹き出しそうになる。
「……今の、冗談だよね?」ひよりが尋ねると、藍流はわずかに肩をすくめた。
「冗談じゃねぇ、が、まぁ許してやる」
ひよりは腹の底からホッと息をついた。疲れが少しだけ和らぐ。
苦笑しつつ、彼女はモニターに向き直る。
――まずはやり直しだ。薬師寺くんに頼んで最終チェックを手伝ってもらおう。J3にはクライアント対応の文面を整理させて、多田さんにはバグ潰しを任せる。私が全部をひとりで抱え込む必要はない。
そして、ひよりは静かにキーボードを打ち始めた。背後で藍流がぽつりと呟く。
「ふむ……“shojo_love”か。雑だが、良い手掛かりだ。面白くなってきやがったな」
その声には、どこか予想外の興味が混じっていた。
ひよりはその声を背に、画面の文字列を再構築していく。




