第八章 落城の約定(二)
"王都グァングリンからブラチェノ川までは、馬で、わずか1日の距離。連合軍がログリン港に上陸した当初の目論見は、勇者の、一騎当千の力で強行突破し、敵の本拠地を急襲する、「斬首作戦」だった。
だが、この完璧なはずの計画は、「満月の真珠」と謳われる王都に到達する目前で、潰えることとなる。かつて、この地に都を定めた初代魔王――ダークエルフの聖子は、己の氏族をこの地に留め置いた。それが、後に、下大陸最強と謳われる騎馬隊、闇霊騎士団の礎となったのだ。そして今、当代の聖子カイルモハンは、ブラチェノ川という天然の要害を盾に、自軍の2倍もの兵力を擁する人間連合軍の侵攻を阻んでいる。
しかし、初代以降、ダークエルフ族から魔王が輩出されることは稀となり、この騎士団も、次第に、エルフ族全体の、配下軍のような位置づけになっていった。そこで、後の魔王たちは、グァングリンにおいて、己だけの親衛隊――氏族に属さず、ただ魔王にのみ忠誠を誓う軍、かの有名な王城禁衛軍を組織し始めたのである。
この軍は、武王の時代には、8個兵団、総勢4万人にまで膨れ上がり、上下大陸を席巻、聖地グレーサにまで迫ったこともある。その後、4個兵団にまで縮小されたものの、歴代魔王が、最も信頼を置く、直属部隊であり続けた。だが、先代魔王ヴィラールが消息を絶ち、当代魔王アミルが囚われの身となった今、この軍の帰趨は、初めて、微妙な問題を孕むことになった。
・
**6時間前 夕刻**
25騎の黒甲の騎士たちが、まるで、墨色の稲妻のように、小蘭蘇草原を疾駆していく。先頭の騎士が、遠くの雷鳴山脈を見やった。起伏に富んだ稜線は、まるで、黒い波濤のように、地平線の彼方まで、うねうね、と続いている。ブラチェノ川の源流は、満月湖。そして、「満月の真珠」と称えられる王都は、その山脈の麓に位置しているのだ。
「ユーフィ様、少し、お休みになられますか?」
丸一日、馬を走らせ続けたことで、馬上で育ったと自負する男たちでさえ、さすがに、堪え始めていた。
魔界の角竜馬は、重い荷を運ぶのには長けているが、長距離の移動には、不向きだ。もし、カイルモハンが、最初から、替え馬を用意させていなかったら、王都に着く前に、馬の方がへばっていただろう。
「禁衛軍の駐屯地まで、あと、どれくらいかかります? 指揮官殿」
ユーフィが尋ねる。
「このまま、速度を維持できれば、夜になる頃には、グァングリンの北門に到着できるかと」
指揮官は、少し考えてから、答えた。
「夜間の騎行自体は、我らにとって、問題ではありません。ただ、王都の外に広がる、この草原一帯は、先代魔王ヴィラール殿下が消息を絶たれて以来、少々、物騒でしてな。夜、松明を掲げて通過するとなると、よからぬ輩に目をつけられる可能性が」
「構いません」
ドレス姿の少女は、きっぱりと、首を横に振った。
「わたくしは、カイルモハン殿下がお選びになった兵士と、指揮官殿を信じております。一分一秒でも早く、禁衛軍の駐屯地に到着したいのです」
「では、ユーフィ様、しっかりとお掴まりを」
指揮官は、傍らの戦友たちに、ちらり、と目をやると、声を張り上げた。
「全員、最後の乗り換えだ! 余力のある者は、単騎で、俺に続け! 残りは、馬の世話を見てやれ!」
25人のうち、11人が、隊列から進み出る。残りの騎士たちは、ゆっくりと速度を落とし、疲労困憊の角竜馬たちを、一か所に集め始めた。
遥か彼方、岩と氷で築かれた王都が、夕陽を浴びて、真珠のように、きらきら、と輝いている。
・
「何者だ!」
夜の闇の中、指揮官が、怒声を上げた。
それは、亡霊のような、黒い影。まるで、幽鬼のように、騎馬隊の後ろに、ぴったり、とついてきている。最初、指揮官は、雲が月を遮った影かと思った。だが、ふと、空を見上げると、そこには、清らかな月光が、煌々と輝き、雲一つ、なかったのだ。
同行の騎士たちも、異変に気づき、ある者は、機弩を取り出し、その影に狙いを定める。
「気をつけろ!」
指揮官が、佩刀を抜き放ち、叫ぶ。
――ガキンッ!
金属の、鋭い音が響き渡る。佩刀は、何か、非常に硬いものに当たって砕け散った。満月の光の下、その「何か」が、冷たい、黒い光を反射する。まるで、爬虫類の鱗のようだ。そして、それは、一瞬のうちに、また、姿を消した。
生臭い風が、ふわり、と漂う。角竜馬たちは、何か、恐ろしいものを予感したのか、低く唸り声を上げ、その場に、ぴたり、と立ち止まった。黒い影は、30センチほどの高さの草むらの中を、音もなく、するする、と動き回っているが、近づいてこようとはしない。まるで、何かを待っているかのように。
指揮官は、仲間から佩刀を受け取ると、部下に、自分を中心に、防御陣形を組むよう命じた。相手の速度は、馬に匹敵する。下手に逃げるより、この場で迎え撃つ方がいい。それに、敵は、一人だ。
「我らは、カイルモハン殿下、直属の闇霊騎士団! こそこそと嗅ぎ回る賊よ、名を名乗れ!」
ザァァ、という風の音の中に、女の、なまめかしい、嘲笑が混じる。
「闇霊騎士団? カイルモハンの名は、聞き及んでいるけれど、あたしに名を名乗れと言うには、あんたたちじゃ、役不足ってもんよ」
声は、あちこちから聞こえ、掴みどころがない。
「主君の名を知っているのなら、闇霊騎士団の気性もご存知のはず。このまま立ち去るというのなら、我々も何もなかったことにしてやろう」
指揮官が、冷たく言い放つ。
笑い声が、さらに、媚を含んだものになる。
「あら、随分と、物分かりのいい騎士様。でも、もし、あたしが引かないと言ったら?」
「ならば、死あるのみ!」
指揮官は、怒号一閃、刀を横薙ぎに払った。会話の隙に、あの黒い影が、馬の隊列をすり抜け、音もなく忍び寄っていたのだ。相手も、彼が、この騎馬隊の長であると見抜いている。彼を倒せば、この隊は瓦解する、と。
血生臭い匂いが、ぶわっ、と鼻を突く。指揮官の佩刀と、青灰色の鋭い牙が、交錯した。月光の下、草むらから飛び出した黒い影が、ついに、その正体を現す。それは、なんと、数十メートルもの長さを誇る、藤蟒――巨大な蛇だった。その、黄金の提灯のような、巨大な瞳が、ぎらり、と冷たく輝いている。
藤蟒は、一撃を外し、チロチロ、と舌を出し入れしながら、再び、草むらの中へと身を潜めた。指揮官は、警戒を怠らず、周囲に目を配る。その手の甲には、青筋が、びくびく、と浮き出ていた。先ほどの、一瞬の攻防で、胸に衝撃が走り、佩刀を取り落としそうになったのだ。
――なんという、馬鹿力。
周囲の騎士たちが、慌てて防御線を狭め、指揮官の周りに集まる。その時、馬の、悲痛な嘶きとともに、一人の騎士が、どさっ、と地面に叩きつけられた。巨蟒の、鋼のような鱗に覆われた尾が、一閃、角竜馬の四肢をへし折り、馬上の騎士は、地面に転がったところを、鋭い牙を剥き出しにした、血塗れの、大きな口に襲われたのだ。
指揮官は、馬を進め、騎槍を抜き、仲間を助けようとする。だが、その背後で、キィン、という鋭い音が響き、細い、白い光が、草むらから飛び出し、彼が抱える少女へと向かってきた。
「双生蛇!?」
指揮官は、落馬した騎士を助けるのを諦め、右手でユーフィを抱き寄せ、左手で、重い騎槍を放り捨て、なんと、素手で、その小さな蛇を掴もうとした。だが、白蛇の鱗は、まるで、滑らかな陶器のようで、生死の境にあっても、顔色一つ変えぬ彼が、驚愕の表情を浮かべる。蛇は、彼の手をするり、と抜け、青灰色の毒牙を、少女の顔面に突き立てようとしていた。
風の中に、女の、勝ち誇ったような、嬌声が響く。
「ユーフィ様!」
氷の結晶と、鋭い牙が、ぶつかり合い、火花が散った。
ユーフィは、まるで、小蛇が来るのを待っていたかのように、右手を、すっ、と前に出す。水晶のような氷の壁が、虚空に、わずか数センチ、展開され、いとも容易く、その毒牙を受け止めた。
「凝!」
月光の下、白蛇は、恐怖に駆られ、毒牙を引き抜こうともがく。だが、氷壁の冷気が、まるで、生き物のように、その体に這い上がり、空気中の水分が、みるみるうちに凍りつき、小蛇を、純白の氷像へと変えていく。少女は、凍りついた蛇の尾を、軽やかに掴むと、静かに言った。
「禁衛軍第三統括、アイリン様。これが、貴女の王の使者に対する、歓迎の仕方ですの?」
「ほう、あたしのことを知っているのかい?」
風の中の声に、初めて、別の色が混じる。好奇心、そして、詰問。
「王の使者だって? 行方不明のヴィラール様のことかい、それとも、あの、捕まった子狐のことかい?」
「アミル・ランウー陛下のことです」
少女は、冷たく、言い放つ。
「やっぱりね……」
風の中から、一つの影が、ふわり、と舞い降りた。それは、背中に、二枚の翼を持つ、純白の翼人。だが、その顔の半分は、青い鱗に覆われ、もう半分の、なまめかしい女の顔と相まって、聖なるものの中に、ぞっとするような、冷たさを湛えている。
「カイルモハンが、あの小娘狐の生死を気にかけるなんて、随分と、お熱いことだねぇ」
女は、黒甲を纏った闇霊騎士たちを見て、くすり、と笑う。
「でも、残念だったね、あんたたち遅かったよ」
「遅かった?」
少女の胸に、冷たいものが走る。
「十三人議会の使者が、もう、先に来ちまってるんだよ」
・
・
**雲上絶域城 翌朝**
昨夜の騒ぎで、城内は、大混乱に陥っていた。ロートベル軍が奇襲された二の舞を演じないよう、連合軍の将軍たちは、暗黙のうちに、自軍を城内へと再配置し始めていた。各国の兵士たちは、城内の狐族を住居から追い出し、場所を確保する傍ら、潜伏している可能性のある間者を、虱潰しに捜索している。
「いちいち、調べるまでもねぇ。城内の魔族なんざ、全員引っ捕らえちまえばいいんだ。食い物も水も与えなけりゃ、3日もすりゃ、暴れる元気もなくなるだろうよ」
巡回の兵士が、住居を奪われ、泉水広場に集められた群衆を監視しながら、ぼやく。
「お前、昨日、あのダークエルフどもが、3日以内に城を攻めるって言ったのを、本当に聞いたのかよ?」
隣の仲間が、兵士の肩を、つんつん、と突ついて、尋ねる。
「間違いねぇって。俺は昨夜、ちょうど塔楼で夜警に就いてたんだ。この耳で確かに聞いた。あのダークエルフの将軍が、城外で、『3日のうちに、必ずや、この城を落とす』って、大声で叫んでたんだ。城壁にいた奴ら、全員聞いてるはずだぜ」
兵士は、急に、声を潜めた。
「それに、もっと、やべぇ話もある」
「もっと、やべぇ話?」
「勇者殿下が、魔王を捕らえてから、急病にかかられたって噂だ。レスリー様は、その件で心を痛められ、食事も喉を通らず、丸一日、誰とも会われていないそうだ」
兵士の声に、ため息が混じる。
「今年の戦、いつになったら終わるんだろうな。俺が発つ時、女房が身ごもったばかりでよ。男の子か、女の子か、まだ分からねぇんだ」
「お前みたいな、ひょろ長い奴の子だ、九分九厘、女の子だろ」
仲間は、痩身の兵士を見て、からかう。
「男でも女でも、どっちでもいい。一目、会えりゃそれで」
兵士は、苦笑する。
「ただ、3日後、魔族が城攻めに来た時、王子殿下が、俺たちを城壁の守りに就かせないでくれるといいんだがな」
その時、仲間が、彼の衣の裾を、ぐい、と引っ張り、しーっ、という仕草をした。二人は、慌てて、その場に跪き、礼をとる。
金色の鞍を置いた白馬が、見張りの兵士たちの前を、通り過ぎていく。エドワードは、見るからに、寝不足で、けだるげな顔をしながら、傍らの副官が、くどくど、と報告する、ハイランド軍の、現在の兵力と、物資の状況を聞いていた。
「なあ、カール。ところで、この戦、一体、どれくらい続いてるんだっけ?」
エドワードは、煩雑な話にうんざりし、欠伸を一つ、話題を変えた。
若い副官は、実は、先ほどの兵士たちの会話を聞いていたのだが、知らぬふりを装う。彼は、手元の書類を閉じ、懐中時計に目をやった。
「殿下に申し上げます。一昨年、レディレイクを出発してより、1年と11ヶ月、5日と2時間になります」
「そんなに、経つのか」
エドワードは、片眉を、ひょい、と上げる。
「もし、俺が発つ時に、嫁でももらっていたら、今頃、子供が生まれてたかもな」
「殿下、女性の懐妊期間は、通常、十月十日です。2年も留守にしていて、子供が生まれるとしたら、それは、他の男の子供かと」
副官は、大真面目に答える。
「カール、お前、時々、ほんっと、ユーモアのセンスないよな。言っとくけど、それじゃ、彼女なんてできないぞ?」
エドワードは、親しげに、少年の肩を、ぽんぽん、と叩く。王子としての威厳など、微塵もない。
「なんなら、この俺様が、女の口説き方を教えてやろうか? 一生、役に立つこと、請け合いだぞ」
「軍人に、彼女など不要です」
副官は、話をはぐらかそうとする相手の言葉を、きっぱりと遮り、再び、書類を開いた。
「殿下、話を逸らさないでください。これが、本日、殿下に目を通していただくべき書類です」
「俺は昨夜、カイルモハンの、あのイカレ野郎のせいで、城壁で、一晩中、風に吹かれたんだ。頭が、がんがんする。今日一日くらい、俺を勘弁してくれないか?」
王子は、苦笑いを浮かべる。
「これは、軍の、機密事項です」
少年は、眉をひそめた。
「どんな大事なことだって、この俺様の健康より、重要だと言うのか?」
男は、いかにも、頭痛がするという顔で、反論する。
少年は、黙って、彼を、しばらく見つめていたが、やがて、はぁ、とため息をついた。
「では、ロートベルから引き渡された物資については、各将軍への、補充に充てたと報告しておきます。教会との受け渡しについては、後ほど、私が、神官長様にお願いに上がります。残りの捕虜については、商会に、3日後に引き取りに来るよう、伝えておきますので」
副官は、書類を閉じ、淡々と言った。
「天の父に感謝を」
エドワードは、慌てて、少年の頭を撫で、感激した、という顔をする。
「お前みたいな、有能な副官が、俺の傍にいてくれて、本当に、助かるよ」
「殿下、一つ、お伺いしても?」
「俺の性的指向以外なら、何でも」
男は、にやり、と笑う。
少年は、一瞬、間を置き、彼の冗談を無視して、静かに尋ねた。
「殿下は、3日後、カイルモハンが、本当に、城攻めに来ると、お思いですか?」
男は、眉をひそめ、少し、考え込んでから、口を開いた。
「人を見る目には、自信があるつもりだ。ダークエルフの聖子、カイルモハンは、小賢しい、心理戦を仕掛けてくるような男じゃない。奴が、城を攻めると言ったのなら、3日後、必ず来る」
「では、我々は、守り切れるでしょうか?」
少年は、ためらいがちに、尋ねる。
「妙な言い方だが、6万の兵で、3万の敵から城を守るんだ。たとえ、それが、6万匹の豚だったとしても、負けるはずがないだろ?」
男は、安心させるように、少年の頭を撫で、微笑んだ。
「心配するな。教会の、あのチビ勇者が使い物にならなくても、俺たちには、まだ、剣を握る手がある。いざとなれば、この俺が、直々に城壁に立ったって、お前を出すような真似はさせないさ」
「私の任務は、殿下の、ご安全をお守りすることです!」
副官が、真面目腐った顔で、彼の言葉を遮る。
「はいはい、じゃあ、二人で一緒に、城壁に立つ。これでいいだろ?」
「殿下は、尊きお方。万が一の際には、まず、臣下である私が、城壁に立つべきです」
少年は、あくまで、生真面目に反論する。
「殿下が、軽々しく、危険を冒されるなど、断じて、あってはなりません」
「時々、思うんだが、俺がお前を副官にしたのって、自分でも無自覚なマザコンのせいだったりするのかねぇ」
男は、こめかみを揉みながら、いかにも寝不足といった、困り顔で言った。
「そういえば、あの、『病気』になったとかいう、チビ勇者は、どうしてる?」
「ユアン殿下ですか? 今朝早く、魔王が封印されている離れに向かわれたと聞いております」
副官は、少し、ためらってから、答えた。
「食事を届けに行かれた、とか」
エドワードは、一瞬、虚を突かれたような顔をし、それから、ふっ、と苦笑を漏らした。
「我らが勇者殿が、あの小娘狐と、いい仲になったのでなければ、いいんだがな」"




