第六章 武人の最期
"ブラチェノ川 南岸
・
「申し上げます! 前線より火急の知らせ、殿下にお目通りを!」
天幕の外で馬を下りた伝令が、声を張り上げる。
すると、音もなく天幕が開き、髪を振り乱した男が現れた。その瞳は、まるで赤熱した炭のようだ。
「雲上絶域城からか?」
騎士は、無言で頷く。
「アパール、ユーフィリア様をお呼びしろ。知らせが届いた、とな」
男が命じる。
侍従長と呼ばれた男は、直立不動の姿勢で一礼すると、踵を返した。
ほどなくして、ドレス姿の少女が、あたふたと天幕に駆け込んできた。傍らでは、黒い甲冑を纏った男が膝を組み、眉間に深い皺を寄せながら、目の前に置かれた布の切れ端――錦の衣の一部を、じっと見つめている。
「おお、ユーフィリア様。よいところへ」
男は顔を上げ、焦りの色を浮かべるユーフィを見た。
少女は、ふぅ、と一つ息をついて呼吸を整えると、膝を折って礼を取る。
「殿下におかれましても、ご機嫌麗しゅう」
「堅苦しい挨拶は抜きだ」
カイルモハンは、未だ天幕の中で片膝をついたままの伝令兵へ、ちらり、と視線をやる。
「知っていることを、すべてユーフィ様にお話ししろ」
「はっ、御意」
騎士はユーフィに向き直り、恭しく頭を下げた。
「四半刻ほど前、霊峰より飛来した烈箭隼が、知らせをもたらしました。砂狐族の内通者が、我が方の斥候に託したもので、必ずユーフィ様にお渡しするように、と」
――必ず、私に渡されるように言われた、と?
「砂狐が? わたくしに?」
ユーフィは、思わず目を見張る。
「狐族は皆、城内に閉じ込められ、出入りを禁じられているはずでは?」
「ロートベル軍が、数百人もの奴隷を駆り出し、城外で死体の処理に当たらせているとのことです。陣を引き払う準備のようで、その隙に、狐族の者が斥候との接触に成功した、と」
「ロートベルが、この期に及んで、陣を?」
カイルモハンは、顎に手を当て、思案顔になる。
「どこへ向かう気だ?」
「そ、それが、分かりかねます。今朝方、教会が城内に結界を張りまして、我らの手の者が潜入するのは、困難な状況でして……」
「それで、どのような知らせが?」
ユーフィが問いかける。
すると、伝令の騎士は、なんとも奇妙な表情を浮かべた。カイルモハンが、目の前の布切れを、ひょい、と掴み上げ、苦笑する。
「これだ。これが、奴らから届けられた知らせ、そのものだよ」
手に取ると、ひんやりとして、滑らかだが、べたつきはない。極上の青絹だ。狐族は機織りに長けているとはいえ、これほどの生地は、並の者には扱えない代物だろう。ユーフィは、怪訝な顔で、その衣の切れ端を受け取った。褐金糸で、華やかな紋章が刺繍されている。
「ユーフィ様には、これが何か、お分かりになるか?」
カイルモハンが、顔を上げて彼女を見る。
「この紋様は……銀狐一門、本家の衣ですわ」
ユーフィは、声を潜めた。
「この大きさからすると、恐らく、トリエラの……」
「狐族の、あの王女のか?」
カイルモハンは、眉をひそめる。
「どういう意味だ? あの姫君も、逃げおおせなかったと、そう知らせたいのか?」
「いえ……」
――違う。
亜人の少女の耳が、ぴくり、と動いた。指先に、どこか懐かしい、幽玄な香りが纏わりつくような……。彼女にとって、それは、とても馴染み深い気配。
聖子の、気配だ。
「北国……急……失道……3日後……」
彼女は、その微かな香りを懸命に辿りながら、ぽつり、と呟く。
カイルモハンの瞳孔が、ぎゅっ、と縮まる。その、ぎらついた眼差しは、まるで獲物に飛びかからんとする獅子のようだ。
「なんだと?」
「北国に急あり、勇者は道を見失い、3日のうちに城が……!」
ユーフィは、はっ、と息を呑むと、抑えきれない喜びの声を上げた。
「コンリン様からの、知らせですわ!」
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・
「どんな手を使っても構わん。這ってでも、ユーフィ様を必ず、無事に王都グァングリンまでお連れしろ。いいな?」
カイルモハンは、少女を自らの手で馬上に乗せると、居並ぶ騎士たちを、冷ややかな眼差しで一瞥する。
25騎の闇霊騎士が、恭しく頭を垂れる。先頭の指揮官が、片手でしっかりとユーフィを支え、もう片方の手で軍礼を返した。
「必ずや、殿下のご期待に!」
「行け。刻限は3日だということを、ゆめゆめ忘れるな。吉報を待っているぞ!」
カイルモハンは、南へ向かって疾走していく騎馬隊を見送ると、背後に整列する軍勢へと、向き直った。
広々とした河岸には、3つの方陣。総勢3000の鉄騎兵が、整然と居並び、待機している。魔界特有の角竜馬に、完全武装のダークエルフの騎士たちが跨る様は、遠目に見れば、さながら鋼の城塞。
「殿下! 闇霊騎士団、暮山部第一、第二、第三部隊、総員3000、集結完了! ご命令を!」
副官が跪拝し、漆黒の一角獣――雄の角竜馬の手綱を引く。カイルモハンは、愛馬の頭を、よしよし、と撫でてやった。数万頭に1頭しか生まれぬという、角竜馬の王、馬王。その一本角には、無数の戦いの傷跡が刻まれ、角の下にある血色の双眸は、灯火のように、爛々と輝いている。
主の闘志を感じ取ったのか、漆黒の駿馬――馬王が、天に向かっていななく。その、獅子の咆哮にも似た、荒々しい気勢。たちまち、他の馬たちは静まり返り、兵士たちは皆、馬を下り、片膝をついて、男の命令を待つ。
「しーっ、相棒、静かにしろ。確かに、喧嘩を売りに行くところだが、今回は、こっそり、だ」
カイルモハンは、ぽんぽん、と愛馬の頭を叩き、角砂糖を一つ、与えてやる。その眼差しは、穏やかだ。
「あのチビ狐への借りは、これで返したことになる、か」
男は、ひらり、と馬上に跨る。乱れた髪の下、燃えるような紅い瞳が、威厳を湛えていた。
「全軍! 渡河するぞ!」
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**雲上絶域**
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満ちようとする月は、まるで少女の物憂げな眼差しのように、優しかった。
冷ややかな白い光が、祖廟の庭園に降り注ぎ、青梓の細い葉に遮られて、細やかな銀色に砕けている。少年は、俯いて、微睡んでいたが、軽やかな足音が、遠くから近づき、数歩手前で、ぴたり、と止まるのが聞こえた。
「シャオイエ?」
顔を上げると、華やかな衣装を纏った小さな女の子が、おろおろと青梓の木の陰に隠れ、ぱちぱち、と瞬きしながら、こちらを見ている。
玉のように、きめ細やかな肌。花の蕾のように、愛らしい、小さな唇。それは、贅沢な暮らしの中でしか、育まれない美しさだ。たとえ、まだ、幼くとも。だからこそ、安全を考え、神官長に頼み、祖廟の中にこの離れを用意してもらったのだ。無用な騒ぎを避けるために。
少女は、ためらいがちに、彼を見つめている。その瞳は、明らかに、何かに縋りたいと願いながらも、怯えを隠せずにいた。
ユアンは、彼女が「ムマ」と呼ぶ砂狐の女から、説明されたことを思い出す。彼の纏う聖子の気配に、トリエラは無意識に懐いてしまうのだ、と。
「怖がらなくていいよ。おいで。午前中には抱っこもしたじゃないか」
彼は、穏やかに微笑み、手招きする。
「ムマは?」
女の子は、おずおずと近づいてくる。彼に、敵意がないと分かったのだろう。ちょこん、と隣に座ると、強張っていた顔が、ふっ、と緩んだ。
「ムマは……ムマね」
トリエラは、少し考えてから、答える。
「お洋服、破れちゃったから、ムマが、縫うもの、探してるの」
少年が目をやると、少女の衣の裾が、大きく裂けている。無理に引きちぎられたかのように、破れた布の隙間から、肌が覗いていた。
「ムマに、伝えておいて。次からは、教会の者に任せるといいって。まだ、戒厳令が敷かれているんだ。勝手に出歩くと、面倒なことになるかもしれないからね」
ユアンは、少女の頭を、そっと撫でる。
「うん……」
女の子は、こくり、と頷き、小さな声で言った。
「お兄ちゃん、また、お姉ちゃんに会いに行ったの?」
少年は、トリエラの聡さに、内心、少し驚かされる。昼頃、確かに、コンリンに食事を届けに行ったのだ。だが、あの、とんでもない魔王様は、朝食の容器を枕に、結界の中で、すやすやと昼寝を決め込んでいた。自分の身に、何が起ころうと、まるで頓着していないかのように。
少年は頷く。
「でも、残念ながら、できなかったんだ」
あの時の、少女の、静かで、穏やかな横顔を思い出す。魔王としての威厳や、傲慢さだけではない。狐族の娘らしい、物静かで、しとやかな一面も、確かに、彼女にはあるのだ。寝ている時だけれど。
「君は、魔……」
彼は、一瞬、口ごもり、言い直す。
「君は、アミルのことが、好きなのかい?」
「お姉ちゃんは、とっても優しい人なの」
女の子は、きっぱりと頷く。
「大好き」
「優しい?」
少年は、少し、ばつの悪そうな笑みを浮かべる。君が見たのは、寝顔だけなんじゃないか、と、内心で思いながら。
「お姉ちゃん、って呼んでるけど、親戚なのかい?」
女の子は、首を横に振る。その、明るかった瞳に、微かな陰りが差した。
「お姉ちゃんには、身寄りがないの」
「身寄りが、ない?」
少年は、唖然とする。
「だから、あたしが、お姉ちゃんって、呼んでるの」
なんだか、話がこんがらがってきたな、と、少年は、がりがり、と頭を掻く。
「お姉ちゃんは、2年前に、ここへ来たの。ずっと、一人ぼっちで、身寄りもなくて。でも、あたし、知ってる。お姉ちゃんは、優しくて、良い人だって」
女の子は、彼の衣の裾を、きゅっ、と握りしめる。まるで、彼を、口の中の、優しくて、頼りになる「お姉ちゃん」だと、思っているかのように。
「お姉ちゃんは、シャオイエの、お家を、見つけてくれた。長老様を助けて、たくさんの人を、救ってくれた。お姉ちゃんは、魔王陛下になった。お姉ちゃんは、一番、すごいの」
少年は、眉をひそめた。君の言う「お姉ちゃん」は、非天結界に閉じ込められて。数日後には、聖地グレーサで火刑に処されるかもしれないんだぞ、と。だが、目の前の、幼い子供の、静かな顔を見ていると、その、ぽつぽつ、と語られる、優しい思い出を聞いていると、その言葉は、どうしても、口にすることができなかった。
「お兄ちゃんも、お姉ちゃんの、お友達?」
この数日、目にした人間たちのように、怖くもなく、辛抱強く、話を聞いてくれる彼に、少女は、すっかり、心を許したようだ。彼の手を、ぎゅっ、と抱きしめ、あどけなく、ねだる。
「シャオイエを、お姉ちゃんに会わせてくれる?」
「ごめんね」
少年は、首を横に振った。
「非天結界は、術者しか自由に出入りできないんだ。僕と神官たち以外、誰も彼女に近づくことは許されない」
少女は、きょとん、とした。何も言わず、ただ、唇を噛みしめ、俯いてしまう。ユアンは、思わず、胸が詰まった。子供の瞳に、これほどの、深い失望を見るなんて、思いもしなかったから。
彼は、ただ、少女の、絹のような長い髪を、撫でてやるしかなかった。
「それに、僕と彼女は、友達じゃない」
少年は、静かに、口を開く。彼女に、言い聞かせているのか、それとも、自分自身に、言い聞かせているのか。
「僕はただの、彼女の……敵、なんだから……」
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「ユアン様!」
そこに、慌てふためいた声が、飛び込んできた。
少年は、怪訝な顔で、伝令教士を見る。教会関係者は、常に、清潔さを重んじるはずなのに、純白の神衣を纏ったその男は、全身、土埃に塗れるのも構わず、ぜぇぜぇ、と息を切らせている。
「落ち着いて。何があったのか、ゆっくり話して」
トリエラは、何かを予感したのか、彼の体に、ぴったり、と身を寄せ、息を潜めている。
「ロ、ロ、ロートベルが!」
教士は、何度も、息を整えようとしながら、叫んだ。
「ロートベル軍が、全滅しました!」
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**2時間前**
**霊峰より30キロ地点**
**ロートベル軍 野営地外**
見張りの兵士は、遠くの夜空を眺め、それから、手元の焚火の傍らにある、鉄鍋をかき混ぜた。
山頂に築かれた、古の城は、すでに、視界から消えている。
国内の動乱により、ロートベル王より、碧瀾海の季節風が変わる前に、キャメロット海峡を渡るよう、厳命が下った。ベータウィスは、部下に最低限の物資だけを持たせ、残りの捕虜や戦利品は、同じ南営にいたハイランド王国とラガットに売却し、ログリン港で補給を行うことにしたのだ。
一日中、強行軍を続けた兵士たちは、革鎧を脱ぎ捨て、焚火を囲んで、食事の準備に取り掛かっている。誰かが、どこからか、狐族の木子酒を、大きな袋ごとらしく、その香りに釣られた戦士たちが、わいわい、と騒ぎ始めた。
ロートベルは、上大陸の極北に位置する。酒で寒さを凌ぐのは、彼らにとって、日常茶飯事だ。ゆえに、軍中でも、果実酒は禁じられていない。蛮族の戦士たちにとって、この程度のアルコールは、水を飲むようなもの。指揮官は、はしゃぐ兵士たちを、がみがみ、と怒鳴りつけながらも、自分もその輪に加わり、酒を一口、奪い取っていた。
――グルルル……ワン!
低い犬の鳴き声が、夜の静寂を切り裂いた。
蛮族は、猟犬を好む。野外においては、よく訓練された狼犬一匹で、3、4人の敵を相手にできるほどだ。その嗅覚と聴覚は、極めて鋭敏で、最も熟練した斥候でさえ、舌を巻く。
指揮官は、愛犬の首を撫で、食べかけの干し肉を差し出した。だが、長年、連れ添った狼犬は、ただ、地面に、じっ、と伏せ、鋭い牙を剥き出しにして、夜の闇に向かって、吠え続けている。
「どうした、アンドリュー? 何かいるのか?」
指揮官は、訝しげに、漆黒の、灌木の茂みを見た。アンドリューが、こんな反応を見せるのは、厄介な魔獣に遭遇した時だけだ。
この、下の大陸に来てから、見たこともない、珍しい獣に、何度も遭遇した。中には、教会の、お偉方でさえ、目を見張るような、強力な魔獣もいた。だが、数万の大軍の前では、どんな魔獣も、逃げ出すのが精一杯。だから、誰も、気にも留めていなかったのだが。
「おい、お前ら、武器を持って、ついて来い」
指揮官は、当直の兵士を数人、手招きし、夜の闇を指さす。
「今夜は、ご馳走にありつけるかもしれんぞ」
犬の鳴き声が、徐々に、低くなっていく。茂みに近づくにつれ、アンドリューの不安が、増しているようだ。蛮族の狼犬は、狼神の血を引くとされ、その気性は、虎や豹にも劣らず、獅子にさえ、噛みつくという。指揮官は、愛犬が、これほど、怯えるのを、初めて見た。
同行していた兵士の一人が、足を止める。
「お頭、なんだか、様子が変ですぜ」
「何が変だっていうんだ?」
指揮官も、内心、薄気味悪さを感じてはいた。焚火のある野営地からは、すでに、かなり離れている。深い夜の闇の中では、何も、はっきりとは見えない。だが、蛮族の、生来の、負けん気の強さが、部下の前で、怯えを見せることを許さなかった。
彼は、振り返り、一喝する。
「たかが獣だろうが。ちょうどいい、殺して鍋の具にしてやる!」
「お頭……!」
兵士の声は、恐怖に引きつっていた。まるで、信じられないものが、彼の背後に、現れたかのように。
指揮官は、腰の刀の柄を、ぐっ、と握りしめ、勢いよく振り返る。
だが、そこには、ただ、闇が広がっているだけだった。
「てめぇ、脅かしやが……」
指揮官の怒声が、途切れた。まるで、一刀両断にされたかのように。
闇の中に、血のような色の灯が、二つ、ゆっくりと灯った。灯と言っても、それは、まるで、風に揺れる提灯のように、ゆらゆらと宙に浮かび、言い知れぬ、不気味さを湛えている。誰もが、無意識に、腰の武器に手をかけた。
――こんな時に、誰が、野営地の外で、灯りなんて?
「誰だ、そこにいるのは!」
指揮官は、怒鳴ったが、その声には、隠しきれない、恐怖が滲んでいた。
「くそっ、名乗らねえなら、斬るぞ!」
灯が、ふっ、と消えた。風に吹き消されたかのように。だが、闇に包まれた林の中は、しん、と静まり返り、風の音一つ、しない。
誰もが、ぞくり、と身を震わせ、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「お頭……思い出しました。ここ、捕虜を埋めた場所ですぜ」
兵士の一人が、震え声で言った。
「お、俺たち、帰りましょうや」
雲上絶域城への、侵攻の際、虐殺された狐族は、3万を下らないという。その死体は、今も、霊峰の周辺に、打ち捨てられているとか。狐族は、魂の輪廻転生を信じており、教会の教えとは、相容れない。もしかしたら、死後、異教の邪法が、働いているのかもしれない。兵士が、怯えながら、果てしない夜の闇を見つめた、その時、アンドリューが、恐怖に駆られたように、狂ったように吠え立てた。
灯が、また、音もなく、現れる。
指揮官は、刀を握る手を、びくり、と震わせた。心臓が、嫌な音を立てる。あの灯が、自分を見ている……?
まるで、血色の、瞳。
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・
突如、野営地全体を、一つの声が、貫いた。
それは、大地を揺るがす轟音のようでもあり、天空を駆ける、巨竜の咆哮のようでもあった。その声を聞いた者は皆、心臓を鷲掴みにされたように、飛び起き、呆然と辺りを見回す。
指揮官は、恐怖に目を見開いた。闇の中から、その「瞳」が、ゆっくりと姿を現すのを。それは、身の丈、3メートルはあろうかという、巨大な角竜馬。全身を、分厚い装甲で覆った、鋼の猛獣。馬上の騎士は、銀の剣を、高々と掲げ、面頬の下、褐色の瞳は、まるで、赤熱した鉄のように、ぎらついていた。
馬王が、天に向かって、いななく。雷鳴のような、咆哮を、上げたのだ。
「全軍!」
騎士の声が、剣のように、鋭く響く。
「突撃!」
銀光一閃。指揮官は、ただ、氷のような殺意が、胸元を薙いだのを、感じただけだった。魔法が付与された重い剣は、彼が、咄嗟に、振り上げた蛮刀を、易々と断ち切り、その首をも、刎ね飛ばす。
「て、敵……!」
指揮官の体は、人形のように、どさっ、と崩れ落ちた。死の間際まで、その、絶望的な警告を、叫ぶことは叶わなかった。
凄まじい地響きが、野営地の静寂を打ち破る。まるで、幾千もの巨人が、闇の中から、迫りくるかのようだ。戦士たちは皆、恐怖に駆られ、武器を握りしめるが、どこを向けばいいのか分からない。四方八方から、轟音が響き渡り、自分たちは、まるで、袋の鼠。
ベータウィスが、天幕から飛び出してきた。寝入りばなを起こされたのか、その身には、薄い下着一枚しか、纏っていない。
「何事だ!? 一体、何が起こった! この、馬の嘶きは、なんだ!?」
ベータウィスにも、あの、いななきは聞こえていた。眉間の傷が、また、ずきずき、と痛み出す。聞き間違いかと思った。あれは、闇霊騎士団特有の、角竜馬の嘶き。だが、並の角竜馬に、これほどの、凄まじい咆哮が、上げられるはずがない。まるで、毒竜だ!
北の蛮族の武人の胸に、ぞわり、と悪寒が走る。
――馬王の声だ!
「カイルモハンか!」
黒い甲冑の騎士が、悠然と、林の中から現れる。その後ろから、怒涛の如き鋼の奔流が、二手に分かれ、津波のように、野営地へと、押し寄せてくる。
丈の低い灌木林など、数千の騎馬隊の前では、何の障害にもならない。闇霊騎士たちは、わずか500メートル先の林の中に、身を潜め、この瞬間まで、奇襲の機を、窺っていたのだ。反応の遅れた蛮族の戦士たちは、突如、現れた騎馬隊に蹂躙され、粉々にされた。辛うじて、突撃を躱した者も、続く遊撃騎兵に、あっさりと首を刎ねられる。巨大な恐怖が、全ての者の心臓を、鷲掴みにした。わずか数分のうちに、野営地を駆け抜けた闇霊騎士たちの後には、数百もの、無残な死体が、残された。
一部の兵士たちが、自発的に集まり、抵抗を試みる。だが、北の蛮族が誇る、野戦能力も、鋼の鉄騎兵の前では、児戯に等しい。闇霊騎士団の突撃は、その集団を、ことごとく、引き裂き、続く遊撃騎兵が、馬上で、一刀のもとに、斬り捨てる。後には、ただ、惨状が残るのみ。
陣営は、阿鼻叫喚の地獄と化した。
「集まれ! 集まるんだ!」
あの、ヤマアラシのような男が、怒号を上げる。
「全軍、集合!」
騎兵は、歩兵に対し、圧倒的な機動力を有する。歩兵が生き残るには、数を頼みに、陣を組んで、防御に徹するしかない。ベータウィスには、夜の闇の中に、どれだけの、ダークエルフの鉄騎兵が、潜んでいるのか、分からない。霊峰の友軍が、この戦闘に気づき、一刻も早く、駆けつけてくれることを、祈るしかなかった。
だが、この、わずか2日の間に、二度も、騎兵の突撃による蹂躙を受けた北国の兵士たちは、この、一方的な虐殺に、ついに、耐えられなくなった。多くの者が、林の中へと、逃げ惑う。夜の闇が、自分たちの命を、守ってくれると、信じて。主将の号令に応え、この混乱の中、持ち場を守り、その傍に、駆けつけたのは、わずかな近衛兵だけだった。
「将軍、お逃げください! もはや、これまでです!」
副官が、次々と現れる騎馬隊を見て、悲鳴を上げる。
ベータウィスは、顔面蒼白になり、全身を、わなわな、と震わせ、きつく噛みしめた、顎から、一筋の血が、流れ落ちる。
「カイルモハン!!」
武人は、刀を、がっ、と引き抜き、絶叫した。
「卑怯者め!!」
遠くにいた、銀剣黒甲の男が、ゆっくりと、こちらを向く。蛮族の武人の周りに、集まった兵たちを見ると、冷ややかに、目を上げた。
銀色の剣先が、一筋の、冷たい光となり、本陣を指し示す。
「殲滅しろ」
男の声は、感情の起伏もなく、ただ、冷たい。
「一人残らず、だ」
轟く蹄の音の中、武人は、咆哮とともに、絶命した。"




