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第二章 邂逅(一)

"ブラチェノ川


 空に残る最後の光が、宵闇に呑み込まれていく。夜の帳が下りた。

 物悲しく、重々しい角笛の音とともに、無数の松明の光が、ゆっくりと北へ移動していく。あれは、撤退する人間連合軍の部隊だ。

 目に痛いほどの鮮血が、濁った川の水と混じり合い、滔々と流れてゆく。血生臭い匂いが、まるで影のように辺りにこびりついて離れない。川岸には、見渡す限り、損壊した屍が転がり、屍肉を漁る(ふくろう)の化け物が、空高く旋回しながら、枯れ枝を擦り合わせるような、気味の悪い鳴き声を上げていた。

 数時間前、霊峰(れいほう)に駐留していた人間連合軍は、ダークエルフたちが日中の疲労困憊にある隙を突き、奇襲渡河を試みた。だが、成功目前というところで、カイルモハンに気づかれてしまったのだ。両軍は、わずか数百メートルの川岸で、凄惨極まる陣地争奪戦を繰り広げた。結果、急な応戦を強いられた連合軍は、2000の兵を失い、ブラチェノ川北岸へと撤退する羽目になったのだった。


 ・


 南岸の丘の上、黒い甲冑を纏った男が、馬上で遥か彼方を見つめている。背後には、完全武装の騎士たちが一隊、整然と控えていた。ダークエルフ特有の、鉄色の肌。全身を覆う重厚な精鋼の鎧。その姿は、魔神のごとく魁偉だ。

「渡河に2時間もくれてやったというのに、結局、渡って来られたのは、これっぽっちか」

 男は、北方の灯火を眺めながら、低く呟く。

 騎士の中から1人が馬を下り、進み出ると、片膝をついた。

「申し訳ございません、殿下。敵の警戒心が思いのほか強く、兵たちが痺れを切らせかけた頃、ようやく渡河を始めましたゆえ。前衛部隊は、敵がまた引き返すことを恐れ、やむなく奇襲の命を下した次第で」

「奴らが慎重だったのではない。……あるいは、最初から、渡河そのものが目的ではなかった、ということか」

 男は、かぶりを振る。

 騎士は、訝しげに顔を上げた。

 男は遠くを見つめたまま、それには答えなかった。


 遥か川岸沿いに、1騎の黒馬の影が、疾風のごとく駆けてくる。馬上の騎士の手綱捌きは、恐ろしく巧みだ。黒馬は、累々と屍の転がる戦場を、巧みに駆け抜け、一直線に丘を目指してくる。

「止まれ、騎士! 名を名乗れ!」

 近衛長(このえちょう)が、鋭く命じた。

「スパーグ・アーノルド! 暮山部(ぼざんぶ)所属、伝令! 殿下にお目通りを願います!」

 丘の手前50歩の距離で、騎士は馬から飛び降り、手綱を引いて、その場に片膝をついた。

「立て。状況を報告せよ」

 カイルモハンが1歩、前に出る。低い声。針金のような癖毛の下、その双眸は、溶けた鉄のように、ぎらぎらと熱を帯びていた。

十字軍(じゅうじぐん)の支援を受け、勇者は無事渡河、連合軍本陣へ帰還いたしました」

 アーノルドは、その目を直視できず、恭しく頭を垂れて報告する。

「我らが斥候、深追いは避けましたが、確かに誰か1人、連れておりました。ただ、その者の身元までは、確認できておりません」

 カイルモハンは、微かに頷き、下がれと合図する。

 その時だった。背後の騎馬隊から、誰かが、まるで一筋の白光のように、さっと飛び出してきた。


「コンリン様なのですね!?」

 純白のドレスを纏った少女が、男の傍らに、がばっ、と駆け寄る。その目は、焦りの色も露わに、アーノルドを見つめていた。亜人特有の小さな耳が、切迫した感情のままに、ぴん、と直立している。まるで、怯えた子猫のようだ。

「コンリン様なのでしょう!? 他に何か、何か見ていないのですか、教えてください!」

 突然現れた狐族(きつねぞく)の少女に、アーノルドは、あっけにとられる。相手の身分が分からず、答えるべきか否か、判断がつかない。

「ユーフィリア嬢」

 男は少女を引き寄せ、アーノルドに目配せする。アーノルドは、恭しく一礼すると、慌ててその場を後にした。

「気持ちは分かるが、少し落ち着かれよ」

 ユーフィは、元狐族の聖子(せいこ)であり、魔王の側仕えでもある。あの小娘のことは気に食わぬが、ユーフィに対しては、表向きの敬意を払わざるを得ない。ましてや、今は魔王の命を帯びているのだ。

「コンリン様が……!」

 男の声は、山のように揺るがない。

「たとえ俺を信じられずとも、貴殿の主を信じるべきだ。あの小狐……いや、魔王様は、無駄死にするようなお方ではあるまい」

「ですが……」

「リオポート!」

 男が低く、名を呼ぶ。

「はっ!」

 近衛騎士の中から、1人が馬を下り、跪いた。

「3個小隊と烈箭隼(れっせんじゅん)を率い、人間どもの後を追え。雲上絶域城(うんじょうぜついきじょう)の状況を、真っ先に知りたい」

「御意!」

 騎士は一礼すると、砂塵を巻き上げ、去っていった。


 ・

銀嵐(ぎんらん)霊峰(れいほう)

 ・


 古来より、狐族が聖地として崇めてきたこの巨山は、天然の屏風のように、碧瀾海(へきらんかい)と王都との間を隔てている。ごつごつとした岩肌が山全体を覆い、主峰は雲を突き抜け、天を衝く。雲の上、深々と積もった白雪に覆われた火口には、1つの都市が築かれていた。

 それこそが、狐族領の都、雲上絶域城。そして、現在、人間連合軍が前線基地としている場所だ。

 砂狐(すなぎつね)たちが掘り進んだ坑道を通り、連合軍は山頂内部へと登攀する。

 総勢7万にも及ぶこの大軍勢は、ハイランド王国とフレティア帝国を筆頭に、南北二つの陣営に分かれている。激戦直後とあって、南営全体には、重苦しい空気が漂っていた。数千の戦友を見捨てて生き残った兵たちは、闇霊(あんれい)騎士団の、津波のような突撃の衝撃から、未だ立ち直れていないようだった。


 全身甲冑の武人が、1台の輜重車(しちょうしゃ)に腰掛け、重い兜を脱ぐ。鉄仮面の下から現れたのは、凄まじい形相の顔。先ほどの戦闘で、闇霊騎士の重剣が兜を掠め、眉間に、骨まで達するほどの深い傷跡を残していた。

 従軍牧師の少女が、治癒の呪文を小声で唱え、傷口に手を当てようとした、その時だ。武士は、ぐっ、と眉をひそめ、ギロリと凄まじい殺気を放つ。

 その刃のような眼光に、少女は睨まれ、びくりと、怯えたように手を引っ込めた。

「おい、なんで従軍牧師(あのこ)を怖がらせるんだよ!」

 車の傍ら、白馬に跨る、27、8の男が、苦笑交じりに声をかける。華美な、金細工の鎧を纏った男だ。

「傷の手当てをしようとしてくれただけだろうに」

「ロートベルには、ロートベルの医者がいる。教会の腰抜けどもに、情けをかけられる謂れはない」

 武人は冷たく言い放つ。

「まだ、先ほどのレスリー様の命令に、腹を立てているのか?」

 馬上の男は、牧師の少女に、手で下がってよいと合図した。

「まさか、中央教会(ちゅうおうきょうかい)の連中が、揃いも揃って、命惜しさの腰抜けばかりだったとはな」

 武人は、忌々しげに、ぺっ、と唾を吐き捨てる。

「このベータウィスともあろう者が、あんな畜生どもを信じるとは……とんだ見込み違いだったぜ!」

 3時間前、レスリー大主教(だいしゅきょう)によって下された撤退命令は、この陣地争奪戦の敗北を、決定的なものとした。南営を先頭に、我先にと逃げ惑う兵士たちは、仲間を見捨てて川を渡るしかなかった。主将である彼自身、それを止める術もなく、部下に守られながら、南岸へと逃げ帰るしかなかったのだ。ベータウィスは、従軍以来、その向こう見ずな勇猛さで名を馳せてきたが、これほどの屈辱を味わわされたのは初めてだった。

 キャメロット海峡を渡る前、国王から預かった5000の兵は、この一戦で、ほぼ半数を失った。北の蛮族(おとこ)の、虎のような眼から、怒りの炎が噴き出しそうだ。

「教会が、どう申し開きをするか、見物だな。奴らが(俺たちの納得できる)撤退の理由を示せなければ、我らロートベルの戦士、このまま黙って引き下がるわけにはいかんぞ」

 白馬の騎士は、微かに苦笑する。

(中央教会が、どんな存在か。この極北の地から来た、筋肉バカには、一生かかっても理解できんだろうな)

「殿下、レスリー様より、入城後、狐族の祖廟(そびょう)にて、軍議を行うとのことです」

 副官が白馬の騎士の耳元に近づき、報告する。

「分かった」

 エドワードは馬を進め、怒れるヤマアラシのような、北の武人から離れた。

 足元の道が、次第に険しくなるにつれ、雲上に築かれた古城が、遥か彼方に見えてくる。

 彼は、ふと、振り返り、傍らの副官に尋ねた。

「来る途中で、教会の、あの若い勇者殿を見かけなかったか?」

「ユアン様は、すでに雲上絶域城にご到着とのことです」

 副官は、一瞬ためらい、声を潜めた。

「聞くところによりますと、魔族の王を生け捕りにし、現在、レスリー様のお裁きを受けるため、狐族の祖廟へ連行されているとか。真偽のほどは、分かりかねますが」

 男の眉が、ぴくり、と動く。穏やかだった顔に、様々な感情が、一瞬にして浮かんでは消える。しばしの沈黙の後、彼は、はぁ、と長いため息をついた。

「殿下、なぜ、ため息などを?」

 副官が、いぶかしげに問う。

「我々は、ここで、ちっぽけな土地を、死に物狂いで奪い合っているというのに。自分たちが、井の中の蛙だとも知らずにな。すでに、大陸全体を見据えている奴もいるってことさ」

 白馬の騎士は、苦笑いを浮かべる。

「俺は、レスリーには及ばない、か」

「我が国にも、ユアン様のような強者がおりましたら、殿下が、後れを取られることなど、決して」

 副官が、声を潜めて言う。

「カール、お前、買いかぶりすぎだぞ」

 騎士は、声もなく笑う。

「だが、そう言ってくれるとは、お前を長年、傍に置いてきた甲斐があったというものだ」

 男は天を仰ぐ。その眼光は、鋭い。

「国を挙げたこの戦、長引いてはいるが。教会は、なるほど、天の時、地の利は得ている。だが……人の和は、まだ、どう転ぶか分からんぞ」

 騎士は、ひらり、と馬に一鞭くれる。

「行くぞ。我々も、あの不運な魔王様とやらの、顔を拝みに行くとしようか」


 ・

雲上絶域 深夜

 ・


 狐族の都市は、他の魔族が得意とする石造りの建築とは、趣を異にしている。手先の器用な氷狐(こおりぎつね)赤狐(あかぎつね)たちは、霊峰特産の青梓(あおあずさ)の木を建材とし、山頂の平原に、この木造都市を築き上げたのだ。下から見上げれば、都市を貫く壮大な石畳の道が、頂上まで一直線に続いている。白玉と青木で造られた祖廟は、宮殿のように巨大でありながら、細部には、狐族特有の、繊細さと、こだわりが感じられる。精緻な飛檐(ひえん)や石彫が、四方の壁を飾り、人間界からもたらされた瑠璃の尖塔が、月光を浴びて、冷ややかな光を放っていた。


 銀の鎧に剣を佩いた少年が、片手で手綱を引き、もう片方の手で、黒い外套を纏った少女を抱きかかえている。2人を乗せた天馬(てんま)が、ふわり、と地上に降り立ち、城門の前で止まった。

 様々な拷問具を手にした兵士たちが、2人の姿を、ぽかん、と見つめたまま、その場に立ち尽くしている。捕虜を護送せよとの命を受けていた彼らだが、どうにも、前に進み出ることを、ためらっているようだった。

 実のところ、ユアンにしてみれば、コンリンとこんなに密着するのは不本意だった。だが、魔王と呼ばれるこの少女は、天馬を見るなり、「しっかり掴まってないと(あたしが)落ちるから!」と、強く要求してきたのだ。

「だ、男女が、軽々しく触れ合うものではない!」

 少年は、きまり悪そうに抗議した。

 だが、少女は、じろり、と彼を睨みつけ、当然のように言い放ったのだ。

「あたし、高いとこ、ダメなの」

 その時、彼は、ようやく思い出した。聖剣(せいけん)領域(フィールド)内で魔力を失った彼女は、今や、年相応の、ただの少女に過ぎないのだと。


 ・


 ユアンは、かぶりを振ると、周囲の兵士たちに下がるよう合図し、自ら護送することにした。

 結局のところ、聖剣を持つ彼が傍にいれば、コンリンに抵抗する術はない。逆に、彼がいなければ、目の前の兵士たち数人では、どうにもならない状況だ。レスリー先生が、わざわざこの者たちを寄越したのは、恐らく、相手の気勢を削ぐためだろう。

 少年は、あの銀の仮面の下にあった、柔和な顔を思い出し、ふぅ、とため息をつく。

(あんな様子の魔王に、削ぐべき気勢なんて、あるんだろうか……?)

 御神木(ごしんぼく)の一枚板から彫り出された巨大な扉が、魔法陣の力で、ゆっくりと開いていく。その向こうに、壮麗な都市の姿が現れた。何度見ても、少年は、そこに凝縮された、威容に圧倒される。

「これ、2000年くらい前の聖子が魔王になった時、一族総出で造ったんだって」

 目の前、黒い外套の少女が、ぽつり、と呟く。

「この雲上の都を造るために、死んだ狐族の数は、キャメロット海峡を埋め立てられるほど、だったとか」

「なぜ、そんなことを?」

 少年は馬を進めながら、眉をひそめる。

「まるで、暴君の所業ではないか」

「でも、その陛下は、一族から『仁祖(じんそ)』って尊ばれて、ずっと祖廟に祀られてるの」

 コンリンは、ユアンの反応など気にも留めず、遠くの宮殿を見つめている。そこには、聖子の紋章が刻まれた灯台が、真っ直ぐに立っていた。

「狐族は、十三氏族(じゅうさんしぞく)の1つって言われてるけど、この数千年で、魔王になったのは、たったの二代だけ。もし、この雲上の都がなかったら、とっくに、弱肉強食の他の連中に、呑み込まれてたでしょうね」

「二代の魔王?」

 ユアンは、怪訝そうに尋ねる。

「その1人が、君なのか?」

「あたしの身分、疑ってるわけ?」

 自分より頭1つ分も低い、馬の前に抱えられた少女が、まるで、見下すかのように、ちらり、と彼を睨む。不機嫌そうに、銀色の前髪をかき上げ、つるりとした額を、見せつけるように晒した。

「よく見ておきなさいよ。これ、歴代魔王の証。十三人議会(じゅうさんにんぎかい)に認められて、初めて授けられる、継承の証なんだから。これがあれば、ほぼ全ての魔族に、号令をかけることだってできるのよ」

 そこには、精緻で、華麗で、ほとんど煩雑とさえ言えるほどの紋様が刻まれていた。微かに、だが、圧倒的な魔力を放っており、人の手で真似できるような代物ではない。

「身分を疑っているわけではない。ただ……」

 少年の顔に、複雑な色が浮かぶ。

「亜人の寿命は、我々と、さほど変わらないはずだ。君は、まだ、13、4歳ってところだろう」

「それが、何か?」

「13、4歳で王になることが、何を意味するか、分かっているのか?」

 彼は、ためらいがちに言う。

「その立場のために、罪のない者を殺さねばならないことだって、あるかもしれない。君には、家族も、友もいるだろう。魔王などという、罪深い名を、背負うべきではない……」

 コンリンは、きょとん、とした。少年の言葉には、まるで、世を憐れむかのような、同情の色が滲んでいる。少女は、形の良い眉を、きゅっ、と寄せ、相手の言葉を遮った。

「あたしは、確かに、誰かを殺そうなんて、思ったことはないけど。安っぽい同情は、かけないでちょうだい。世間知らずの、勇者様?」

 幼い少女の瞳に、外見とは、まるで不釣り合いな、厳粛な光が宿る。

「人間みたいに、何かを奪うためだけに、権力を求めるわけじゃない。あたしが、この王位を受け入れたのは、誰かの手から、何かを護りたいと思ったからよ」

 彼女は、一言一言、区切るように言った。

「あたし自身の、この手でね」

 少年は、唖然として彼女を見つめる。自分より、ずっと年下に見える少女に、諭されるとは、思ってもみなかったのだ。

「自分の、手で?」

「そうよ」

 少女の声は、確固としていた。

「だが、君は今や、教会の囚われの身だ。連合軍の裁きを受けて、命まで保証できるかは、分からないぞ」

 コンリンは、彼が、なんと、罪悪感さえ抱いている様子なのを見て、わざとらしく、はぁーっ、と長いため息をついてみせた。

「本には、歴代勇者って、みんな赤子のような心を持ってて、絶対的な正義と慈悲の象徴だって書いてあったけど。まさか、本当に、こんな、おめでたい人だったなんてねぇ」

 彼女は、少年を、じとっ、と睨みつけ、きっぱりと言い放つ。

「敵同士なのよ、あたしたち。分かってる? あたしが、いくら人畜無害そうに見えるからって、戦場で、敵に、ホイホイ同情なんてしないの! そんな態度とられると、こっちが、ちょっと小細工するのにも、なんだか気が引けちゃうじゃない!」

 月光の下、彼女の横顔の線は柔らかく、微かに冷たい光を帯びている。その時、少年は、初めて気づいた。この少女には、天然で、高慢ちきなだけではない、隠された優しさのようなものが、あるのだと。

 彼女は、ぷいっ、と顔を背け、不機嫌そうに言う。

「あなたに剣を渡した人間は、明らかに、あたしの弱点を知ってた。その場で殺さず、捕らえて連れてくるように命じたってことは、死んだ魔王より、生きた魔王の方が、使い道があるって判断したからよ。だから、あたしが簡単にここで死なされることはないわ。あなたが、罪悪感なんて、覚える必要、これっぽっちもないの」

(なんなのよ、もう! なんで、あたしが敵を慰めなきゃなんないの? 魔王やってて、こんなに情けないことって、ある?)

 ユアンは、はっ、として、彼女の言葉を、頭の中で反芻する。銀色の天馬は、ゆったりと歩みを進め、その(たてがみ)が、夜風に流れる雲のように、なびいている。鞍の前の少女が、不意に身を乗り出し、天馬の首を、ぽんぽん、と叩いた。賢い馬は、ひひん、と一声鳴くと、ぱかぱか、と小走りを始める。

白羽(しらは)!?」

 彼は、驚いて、自分の愛馬を見た。

 だが、中央教会が誇る、この希代の名馬は、魔王の前では、軍馬としての警戒心も威厳も、あっさりと解き放ち、まるで草原を駆ける子馬のように、楽しげに走っている。

 夜警の騎士の一隊が、勇者の天馬が駆けてくるのを見て、慌てふためき、散り散りになる。逃げ遅れた数人は、驚いた馬が、前脚を高く上げ、振り落とされたのか、遠くから、悲鳴が聞こえてきた。

「ごめーん!」

 少女は、大声で謝る。だが、振り返ったその顔は、にんまり、と笑っていた。そして、芝居がかった調子で、軽やかに歌い出す。高く澄んだ声が、空に響く風の音のように。

「♪長江(ちょうこう)の水は、東へ流れ、波は千重にも重なりて~ 数十人を乗せたるは、この小舟、一葉(いちよう)のみ。九重(ここのえ)宮殿(きゅうでん)ならねど、これぞ、千丈(せんじょう)虎狼(ころう)の穴。大丈夫(だいじょうぶ)たる者、心は別なり。我、この単刀会(たんとうかい)を、村祭りの如くに見る~♪」

 ユアンは、魔王が、聞いたこともない、奇妙な節回しの歌を、まるで芝居の悪役みたいに、得意げに歌っているのを、ただ、呆然と見つめていた。

「歴代魔王というのは、おぞましく、残忍な怪物で、どんな勇敢な者でも、その絶望の前に震え上がると聞いていた。だが、俺は恐れない。俺は、勇者だからだ」

 彼は、少し、ためらい、声を潜める。

「だが……まさか、噂の魔族の王が、こんな姿だとは、夢にも思わなかった」

「あたしの夢はね、好き放題やって、民を虐げる、地方の小悪党になることなのよ」

 コンリンは、楽しげに馬の首にしがみつき、おかしそうに笑う。

「まあ、あなたの魔王のイメージ、ちょっとズレてるけど、大体は合ってるわ。魔族は、力がすべて。幾千、幾万の者を斬り捨てて、王位についた連中は、当然、殺戮に躊躇のない強者よ。先代魔王ヴィラール殿下みたいにね」

「あの、2年前に、聖地(せいち)に単身乗り込んできて、倒された魔族のことか?」

 ユアンは驚く。

 2年前、ヴィラールと名乗る竜人(ドラゴニュート)が、聖地にある教皇庁本部を急襲した。当時、まだ勇者としての継承を終えていなかった彼は、命からがら、ようやく相手を撃退したのだ。まさか、あれが、先代魔王だったとは。

「あの戦いの後、十三人議会も、魔王様の消息を掴めなくなった。でも、あなたの名前は、十三氏族全体に、知れ渡ったわ。先代魔王様でさえ敗れたのなら、魔族に、あなたに敵う者はいない、ってね。議会の年寄り連中は、教会とあなたに魔界へ攻め込まれるのを恐れたの。戦敗の汚名を着せられるのが嫌で、誰かに、その責任を押し付ける必要があった」

 コンリンは、一呼吸おいて、静かに続けた。

「で、まあ、狐族が、一番、御しやすいってことで。あたしが、歴代で唯一、3つの試練(みっつのしれん)を経ずに、継承を受けた魔王になったってわけ」

 少年は、愕然として彼女を見つめる。

 その時、石畳の道が終わり、大殿の前に、居並ぶ人影が、遥か彼方に見えてきた。少女は、ふっと、声を潜める。

「ほら、もう、おしゃべりはおしまい。お人好しの勇者様、着いたわよ」


 12本の、絡み合う神木が、都市の中心に建つ、この巨大な建築物を支えている。白い法衣を纏った神官(しんかん)たちが、祖廟の本殿前に立ち、その背後には、完全武装の人族の騎士たちが、整然と居並ぶ。白い月光が、精鋼の甲冑に反射し、金属の、冷たい光沢を放っていた。

 真紅の長衣を纏った老人が、人垣を割って、進み出る。その表情は、厳粛そのものだ。

「レスリー先生」

 少年は、慌てて馬を下り、片膝をついた。

 中央教会三大主教(さんだいしゅきょう)の1人、レスリー・ハバクク。今回の連合軍、最高指揮官でもある。60を過ぎたこの老人が、再び戦場に立つ、勇気と、胆力を持っているとは、実際に目にしなければ、信じがたいことだった。

「ユアン、使命を果たしました。当代魔王、アミル・ランウー、生け捕りにして参りました」

 コンリンは、慎重に馬から飛び降りると、傲然とした表情で、少年の傍らに立つ。捕虜らしさなど、微塵も感じさせない。驚愕、恐怖、憎悪、そして好奇心。様々な視線が、一斉に、彼女へと注がれた。

「ランウー?」

 老人は、その古の姓を、低く繰り返す。

「当代の魔王は、やはり、狐族であったか」

(やっぱり。人間たちは、とっくに、あたしの正体を知ってたのね)

 コンリンは、気づかれぬよう、微かに眉をひそめる。

(誰かが、あたしの情報を、教会に売った。カイルモハンか、それとも、十三人議会の、あの年寄り連中か……)

「ご苦労であった、ユアン。両界にまたがる千年の戦、今日、そなたの偉業により、終わりを告げるであろう」

 老人は、跪く少年を立たせる。

「わしが与えた聖剣は、持っておるな?」

 ユアンは頷く。

「ならば、その魔王の傍を離れるでない。こやつの処遇については、連合軍の指導者たちが戻り次第、言い渡す」

 老人の声は、感情の欠片も感じさせぬほど、淡々としていた。

「もし、何か不穏な動きがあれば、その場で処刑することを許可する」

 少年は、一瞬、息を呑み、無言で、こくりと頷いた。"


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