第一章 勇者
"「これじゃまるで、3000年前と立場が逆になったみたいだな」
玉座に腰を下ろした人物は、黒衣を纏い、精巧な純銀の仮面をつけていた。分厚い書物のページがぱたりと閉じられ、その声が広々としたホールに響き渡る。
3年前、先代魔王ヴラドが勇者との一騎打ちの末、行方不明となって以来、魔界の形勢は日増しに危うくなっていた。神子とまで称えられるあの勇者に率いられ、人間連合軍は実に700年の歴史で初めてキャメロット海峡の天険を突破し、魔族の領土に足を踏み入れたのだ。勝利の美酒に酔った人間たちは、貪欲なまでにブラチェノ川以北の全土を併呑。あろうことか、魔族が『満月の真珠』と呼ぶ王都ゲアングリンにまで、その食指を伸ばそうとしていた。
「人間どもは、どこまで来てる?」
銀の仮面をつけた魔王の声はか細く、まるで子供のように聞こえる。
「は。陛下にご報告申し上げます。3日前に霊峰が陥落、現在、人間軍は雲上絶域を占領しております。カエル・モルヘン殿下が闇霊騎士団を率い、ブラチェノ川の天険を死守しておりますゆえ、人間どもの足止めは可能かと」
少女は恭しく答えた。
「ですが、教会の勇者は、陛下の居場所を掴んでいる模様です。昨夜、単身でこちらの防衛線を突破されました。今頃はもう、王都の外に到着しているものと思われます」
魔王の傍らに立つ少女は、優雅なドレスを纏い、銀色の長髪の下には亜人種特有のふさふさとした耳を隠している。彼女はくるりと身を翻し、玉座に向き直ると、スカートの裾を摘まみ、綺麗なカーテシーを決めた。
「ただいま衛兵長より、念話による報告が。勇者が正門を突破、近衛隊は、壊滅的な被害を受けたと……」
「もう? 早いな……」
魔王は驚きを隠さない。
さすが神子って呼ばれるだけのことはある、か。あんな規格外の単独戦力がいるせいで、魔族側はずっと有効な抵抗組織を構築できずにいるのだ。
「全員退かせろ。これ以上は、勇者に経験値をくれてやるようなものだろう」
魔王は、はぁ、とため息をついた。
後半の意味はよく理解できなかったものの、少女は謙虚に頭を下げる。
「仰せのままに」
その瞬間、宮殿全体を覆っていた重苦しい空気が、すっと和らいだ。まるで、闇に潜んでいた無数の視線が静かに退き、後にしんとした静寂だけが残されたかのようだ。
「ユーフィ、お前は残れ」
静寂の中、その声が静かに告げる。
少女は顔を伏せたまま、微かに笑みを浮かべた。
「ユーフェミア・ランウー、この身この命、永遠に陛下のお傍に」
そのあまりにまっすぐな告白に、仮面の人物は少しばかり気恥ずかしくなったらしい。
「いや、そういう意味じゃなくてだな。ええと、お前は手を出すな、安全な場所にいろってことだ。もし私に何かあっても、前もって言いつけておいた通りにするんだ。そうしないと、またイグナーツの奴に、お前たちが難癖をつけられるだろう」
「コンリン様に、万一のことなどございません」
ユーフィの声は揺るぎない。
「まさか悪役やるのがこんなに大変だなんてねぇ……まあ、その言葉、信じさせてもらうとするか」
魔王は手のひらに、ふっと息を吹きかけた。白い吐息の中、組まれた両手は玉のように白く滑らかで、見たところ普通の人間のそれと変わりない。
「……なんだか、急に冷え込んできたな」
「勇者が、参りました」
ユーフィが冷ややかに告げる。
静まり返っていたホールに突如、雷鳴のような轟音が響き渡ったかと思うと、ごうっ、と凄まじい暴風が巻き起こる。周囲の温度は、何らかの魔法によって強制的に奪われたかのように急低下し、空気中の水分が氷結。渦巻く暴風は鋭利な氷礫を伴い、死神の鎌よろしく、固く閉ざされた青銅の扉へと殺到した。
ちょうど扉を開け放ったばかりの少年は、真正面から襲い来る殺意の嵐に、あっけにとられたように目を見開く。
「見事なブリザードだ」
彼はぽつりと呟いた。
少年は冷静に剣を抜き放ち、目の前の床へと突き立てた。漆黒の剣身はまるで墨色の翡翠。刹那、巨大な『領域』が生成され、ホール全体がその中に包み込まれる。
ユーフィは愕然として、その場にへたり込む。体内にあったはずの力が、潮が引くように、すぅっと失われていくのがわかった。魔力の供給を断たれた暴風は瞬く間に霧散し、凝固していた氷の粒は粉々に砕け散って、まるで細雪のように、はらはらと舞い落ちる。
穏やかな声が、遠くから響いてきた。
「この『殲滅の光』は、領域内すべての者の魔法能力を奪う。無用な殺生は好まない、狐族の娘よ。この神聖なる戦い、手出しは無用だ」
銀色の鎧を纏い、厳粛な面持ちの少年は、顔を上げて玉座の影を見据え、高らかに声を張り上げる。
「我が名はユアンデノ、当代の勇者なり! 魔族の王よ、女の陰に隠れるのが貴様の誇りか!」
だが、魔王と呼ばれた当人は、彼の言葉などまるで耳に入っていないようだった。
「手を出すなって言っただろう!」
そのか細い声には、微かな焦りが混じっている。勇者が幾度となく想像してきた、おどろおどろしい魔王の声とは全く違う。魔王は慌てて、脱力した少女を支え、自身の玉座にもたれかかるように横たえた。
「コンリン様……」
ユーフィはもがくように再び立ち上がろうとしたが、相手にそっと抱きとめられる。
その人物は、少女の髪を撫で、慰めるように言った。
「心配するな。戦う力だけがすべてじゃないさ。それに、帰る方法を見つけるまでは、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ」
「ですが……」
「主人の言うことを聞くのがメイドの本分だろう?」
少女はついに目を閉じ、こうべを垂れた。
「仰せのままに」
彼は安堵の息をつき、玉座の前に立つ勇者に向き直る。銀鎧の少年は、まるで一本の槍のように、背筋を伸ばして静かにそこに立っていた。
「遺言は済んだか?」
少年が低く問う。
(さすがは選ばれし勇者サマ、ってとこか。こんだけキザで傲慢なセリフだってのに、こいつが言うと、妙に当然というか、エレガントに聞こえちまうんだからな)
「始める前に、礼を言わせてくれ」
魔王は、地声を隠すかのように、低く言った。
「小細工は通用せんぞ」
「さっきはユーフィが無礼を働いた。だが、(俺たちは)手出しはされなかった。そのことについて、礼が言いたかっただけだ」
魔王は立ち上がり、少年を見据える。
「他意はない」
銀の仮面の人影が立ち上がった時、少年は初めて気がついた。黒衣の魔王は、決して大柄ではなく、自分よりも頭1つ分は低い。王たる者としては、なんとも、まあ、迫力に欠ける背丈ではある。
「聖剣を持つ俺にとって、魔法使いなど、丸腰も同然」
少年は告げる。
「丸腰の女性に手を上げることはない。それが騎士としての矜持だ。礼を言われる筋合いはない」
「随分と誇り高いんだな、勇者殿は」
魔王は眉を、ぴくり、と持ち上げる。
「礼を言うのに素顔も見せぬとは、随分と傲慢なのだな、魔王殿は」
少年も淡々と返す。
(よく回る口だ)
魔王は眉をひそめる。
(やっぱ、正義の味方ってのは、まず口撃スキルからカンストさせるもんなのかねぇ)
「ええと……勇者ユアン(Furigana)、だったか。戦う前に、1つ聞いてもいいか?」
「人間連合に関する問いなら、答えられぬ」
勇者は冷静に答える。
「いや、この世界についてだ」
魔王は視線を落とし、言葉を選ぶ。
「中央教会の『往世書』には、この大陸の、ほぼすべての歴史が記されていると聞く……なら、プリムス(Furigana)の外に、別の世界があるって話は知ってるか? 例えば、そう……『アース』っていう」
「魔族の奇妙な信仰でも説くつもりか?」
勇者が警戒の色を見せる。
「プリムスは天の父により創られた。それは、この世界の知的生命体すべての常識だ。他に世界があるとすれば、それは神の御許以外にありえぬ」
「お前、神子って呼ばれてるんだろ?」
魔王は、わずかに語気を強めて問い詰める。
「だったら、その神の御許ってのがどんな場所か、知ってるはずだよな? ええと、鋼鉄の森とか、走る鉄の缶詰とか……あと、変な格好した奴らがいっぱいいるような、そんな場所じゃないか?」
「神の御許は、人が踏み入ることのできる場所ではない。神子など、人間が勝手にそう呼んでいるに過ぎぬ」
少年は声を潜める。
「貴様の言うようなものは、知らぬ」
「お前でも、知らないのか……」
魔王の声は、ひどく落胆していた。抑えていた地声が、思わず漏れる。鳥の囀りのような、か細い声。
「勇者なら、もしかしたら、あっちのことを知ってるかもって、思ったのに」
胸の奥を、風が吹き抜けるような感覚。
少年は眉をひそめ、怪訝そうに顔を上げる。
「なぜ、他の世界のことなど知りたがる? 一族のために、新たな土地でも求めるつもりか、魔族の王よ」
「俺の、故郷なんだ」
純銀の仮面の奥、その瞳に、寂しげな色が浮かぶ。
「あっちには、俺を待ってくれてる人がいる。ただ、帰りたいだけなんだ」
恋しさと、深い情愛のこもった眼差しに、若き勇者は、はっ、と息を呑む。遠い記憶の断片が、胸の内で瞬いた。
遥かな湖畔の町。緑の木陰の下、少女は、やはり同じような眼差しで彼を見つめていた。膝の上に彼の頭を乗せ、玉のように白い手が、頬を撫でる。まるで、白い蝶のように。
――帰ってきてね、ユアン。
記憶は鋭い刃となって、心の奥底を抉る。骨身に染みる、痛みを伴って。
少年は、さっと顔を伏せた。その声には、微かな、気づかれぬほどの揺らぎが混じっている。
「人である限り、限界はある。俺とて、すべてを知りうるわけではない。だが、この広大なプリムスだ、貴様の故郷へ帰る方法も、どこかにあるやもしれぬ」
「お、おう……?」
初めて聞く穏やかな声色に、魔王は、きょとん、として少年を見返した。
「だが、それは俺を倒してからの話だ」
少年は深く息を吸い込み、眼前の聖剣を、ぐっ、と引き抜く。そして、厳かに告げた。
「無駄話はここまでだ、魔族の王よ。さあ、来い。両界にまたがる千年の戦、今日、この場で終わらせる!」
だが、玉座の魔王は、眼前に迫る生死をかけた戦いなど、どこ吹く風といった体だ。こてん、と首を傾げ、少年に問いかける。
「最後に1つだけ。なんで、そんなに俺を倒すことに拘るんだ? 俺が魔王だから、それだけか?」
「貴様を倒してこそ、この戦を終わらせることができる。戦火に身を投じ、家を失った者たちを救うことができるのだ」
少年は剣を横薙ぎに構え、凛として言い放つ。
厳粛な祈りの言葉が、雷鳴のごとく、広間全体に轟く。
「天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。願わくは、御身の子らを祝福し、その剣に炎を与えたまえ。血と炎の輝きは、一切の罪業を灰燼に帰さん……!」
少年が1歩踏み出し、剣先を玉座に向ける。剣身から、目に見えるほどの炎が、ごうっ、と潮のように噴き出し、その背後に巨大な日輪を形作る。夜明けの光にも似た、眩い輝き。
「へぇ、これが噂の『神闘気』ってやつか」
感心したような声が上がる。
「やっぱ、昔から勇者ってのは主人公待遇だよなぁ。いちいち演出が派手でカッコいいったらありゃしない」
あまりに緊張感のない敵に、いらだちを覚えたのか、少年の声に怒気が混じる。
「丸腰の相手を倒したくはない! 武器を取れ、魔王!」
「降参」
あっさりと、その人物は言った。
「はあっ!?」
不意に、極北の風雪を思わせる、凛とした冷たい香りが鼻をかすめた。
その人物は、銀の仮面を外す。静かで、美しい眼差し。
若き勇者は、白磁のような、汚れのない顔を、驚愕と共に見つめる。
現れたのは、1人の少女。彼女は、優雅に腰を折り、完璧な宮廷作法の礼をとった。
「当代魔王、アミル・ランウー。コンリンと呼んでくれても構わないわ」
彼女は、にこり、と微笑む。
「降参するわ、勇者ユアン」
魔王が、こんな、幼い少女だっただと……?
「アミル……ランウー?」
少年は、その姓を、ぽつり、と繰り返す。
「貴様も、十三氏族の、狐族なのか?」
マナに対する天性の感応力を背景に、魔界では十三の氏族が、他の民の上に君臨している。歴代の魔王も、多くはこの十三氏族から輩出されてきた。氷狐は狐族の一派であり、肉弾戦は得意としないが、天性の術者だ。聖剣を持つ自分は、彼女にとって、まさに天敵というわけか。
(この日のために、生涯をかけて準備してきた。両界の命運と、あまたの命を賭けた、宿命の戦いが――まさか、始まる前に、終わってしまうなんてことが?)
少女は、こてん、と首を傾げ、苦笑する。
「そんなバグみたいな代物、持たれちゃってさ。術者職のあたしが、いくら足掻いたって、無駄に苦しむだけじゃない。だったら、さっさと降参した方がマシでしょ」
「降参が何を意味するか、分かっているのか!?」
少年は、自分が崩壊してしまいそうな心地だった。
「貴様は、魔族の王なのだぞ!」
「王だからこそ、状況を見極めて、無意味な意地は張らないものよ」
少女の長い髪が風に揺れる。くるり、と玉座に向き直り、腰を下ろすと、少年を見据えた。
「それとも、その剣を捨てて、あたしと正々堂々、1戦交えてくれる?」
その瞬間、少女が放った威圧感は、金剛力士の怒りか、はたまた魔神の降臨か。『アナイアレーション・ライト』の領域が微かに揺らぎ、少年の手の中で、聖剣が、キィン、と不安げな音を立てる。
生まれて初めて、勇者は感じた。古来より、人間が魔族に対して抱いてきた、根源的な恐怖を。
「その剣、あなたのじゃないわよね。たしか、今の勇者は剣使いじゃなかったはずだけど」
頬杖をつきながら、少女が、ぽつり、と呟く。
少年は、辛うじて頷いた。
「あなたを寄越した人間は、あなたが自力であたしに勝てるとは信じてなかった。だから、その剣を持たせた、ってとこかしら」
少女は、面白そうに彼を見る。
少年は、はっ、とした。師がこの剣を持たせたのは、そういう理由だったのか、と。
「もし、あなたがここで負ければ、孤立無援の人間連合軍は最大の拠り所を失い、魔族が盛り返して、また戦火が広がる。剣を持たせた人間は、そう言ってたんじゃない?」
魔王は、すべてお見通しとでも言いたげな、退屈そうな顔だ。
「だから、慈悲深く、民を想う勇者様のことだもの。たとえ卑怯者の汚名を着せられても、何万人もの命が懸かった戦いで、みすみす勝ちを捨てるなんてできない。……その剣を渡した人間、随分と先まで読んでるわね」
少年は驚愕し、玉座の少女を見つめる。魔王の言葉は、刃のように彼の虚勢を剥ぎ取っていく。確かに、ほんの一瞬、そんな卑しい考えが、頭をよぎらなかったわけではない。
勇者の瞳に、初めて葛藤の色が浮かぶ。ユアンは、ぐっ、と歯を食いしばり、顎の筋肉が、わなわなと引き攣った。
己の名誉のため、剣を捨て、正々堂々と戦うか?
それとも、戦を終わらせるため、このまま相手を制するか?
自分こそが、神の最も忠実な信徒だと信じてきた。どんな困難も、絶望も、使命の妨げにはならないと。
だが、今、この瞬間、丸腰の敵を、こんな卑怯な手段で打ち破らねばならないのか?
(くそっ!)
「すまない、魔王アミル・ランウー。すべては、この戦を終わらせるためだ」
少年は、ありったけの力を振り絞るかのように、聖剣を振り上げた。
少女は首を傾げ、微かな笑みを浮かべる。嘲りか、それともからかいか、判然としない笑み。
「ふん、人間って、ほんと卑怯よね」
(やっぱり……悪役やるからには、一度くらい、このセリフ言っとかないと、なんか締まらないしね)"