引いてはならないエッジ
最初の感覚は、何もなさすぎて、不気味だった。
カミソリの刃の上に置いた人差し指は、
なんの抵抗も、重さも感じなかった。
まるで氷をなでているようだった。
しかし、その“氷の感触”が、あまりに完璧すぎた。
そして私は、
刃という存在は「シャープさ」ではなく「冷たさ」だと知った。
指を、後ろに引く。
わずか数ミリ。
その動作の中で、世界が変質した。
皮膚は、まだ破れていない。
痛みも出血もない。
——にもかかわらず、“何かが戻れなくなった”ことを、確実に感じた。
それは、皮膚が「裂ける寸前の緊張」を記憶し始めた瞬間だった。
脳が、命令を送る。
《やめろ》と。
しかし、筋肉はもう指令を受けていない。
指はすでに「引いている」ではなく、「引かされている」。
刃の上に、自分の意思がない。
ただ、刃と皮膚だけが、物理法則の支配下で接触している。
そして——
そのわずか0.1秒、
皮膚の表面張力が崩れた。
「切れた」とも「破れた」とも違う。
もっと原始的な、“保てない”という破綻の感覚。
それは「生命の膜が一瞬で薄くなった」ことへの認知的錯乱だった。
皮膚は、まだ無傷。
見た目には変わらない。
でも、私は知っていた。
“自分はすでに裂かれてしまった”という記憶だけが、確かにここにある。
その瞬間、心臓が一度だけ強く脈打った。
恐怖とは、「命が一枚分薄くなる感覚」なのだと、私は知った。
(了)