表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

タイトル:「融解」

風がなかった。

その代わり、空気がこちらに寄りかかってくるようだった。


夏の午後二時。

日陰に置かれたベンチに座り、コンビニのアイスコーヒーを膝の上に置いていた。

プラスチックのカップが、指の中でじわじわと汗をかいている。


蝉の声が、空間を震わせていた。

高音で、無数で、境界がない。


最初は、汗だった。

首の後ろを伝い落ちる一滴に、たしかに自分の“皮膚”を感じていた。

だがその次に来た汗は、すでに外の空気と区別がつかなかった。


自分が「暑い」のか、大気が「自分なのか」、

そのあたりの関係が、少しだけ緩んだ気がした。


耳鳴りのような蝉の声に、意識の輪郭が削られていく。

コーヒーの氷はすでに全部溶けていた。

それを口に含むと、味がしなかった。


味覚が死んだのではない。

たぶん、“味を判断する距離”がなくなったのだ。


目を閉じると、自分の姿が想像できなかった。


手のひら。

足首。

背中。

それらを「私」と認識する力が、どこかへ逃げていった。


肺に空気が入ってくる。

だが、“吸っている”のか“吸われている”のかが、わからない。


皮膚と空気の膜が、裏返しになったような感覚。

体の中心が、どこにもない。

代わりに、“広がる”という感覚が、ある。


そして、それは始まった。


膨らみだす。

身体が。

意識が。

ひとつの球体のように、膨張していく。


静かに、静かに。

皮膚という境界はなくなり、

“私”は、夏の空気に向かって染み出していく。


草の匂い。

アスファルトの照り返し。

鳥の羽ばたき。

遠くの犬の吠え声。


それらすべてが、今や“私の中”にある。


“私”という輪郭が、

セミの鳴き声と共鳴し、

空の光に反射して、

徐々に、大気そのものに拡散していく。

まるで、永遠に膨張をつづけるバルーンのように



ベンチの上に置かれた、透明なアイスコーヒーのカップ


気泡はすでに溶け、

プラスチックの縁に、ひとすじの指紋だけが残っていた。


(了)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ