タイトル:「融解」
風がなかった。
その代わり、空気がこちらに寄りかかってくるようだった。
夏の午後二時。
日陰に置かれたベンチに座り、コンビニのアイスコーヒーを膝の上に置いていた。
プラスチックのカップが、指の中でじわじわと汗をかいている。
蝉の声が、空間を震わせていた。
高音で、無数で、境界がない。
最初は、汗だった。
首の後ろを伝い落ちる一滴に、たしかに自分の“皮膚”を感じていた。
だがその次に来た汗は、すでに外の空気と区別がつかなかった。
自分が「暑い」のか、大気が「自分なのか」、
そのあたりの関係が、少しだけ緩んだ気がした。
耳鳴りのような蝉の声に、意識の輪郭が削られていく。
コーヒーの氷はすでに全部溶けていた。
それを口に含むと、味がしなかった。
味覚が死んだのではない。
たぶん、“味を判断する距離”がなくなったのだ。
目を閉じると、自分の姿が想像できなかった。
手のひら。
足首。
背中。
それらを「私」と認識する力が、どこかへ逃げていった。
肺に空気が入ってくる。
だが、“吸っている”のか“吸われている”のかが、わからない。
皮膚と空気の膜が、裏返しになったような感覚。
体の中心が、どこにもない。
代わりに、“広がる”という感覚が、ある。
そして、それは始まった。
膨らみだす。
身体が。
意識が。
ひとつの球体のように、膨張していく。
静かに、静かに。
皮膚という境界はなくなり、
“私”は、夏の空気に向かって染み出していく。
草の匂い。
アスファルトの照り返し。
鳥の羽ばたき。
遠くの犬の吠え声。
それらすべてが、今や“私の中”にある。
“私”という輪郭が、
セミの鳴き声と共鳴し、
空の光に反射して、
徐々に、大気そのものに拡散していく。
まるで、永遠に膨張をつづけるバルーンのように
ベンチの上に置かれた、透明なアイスコーヒーのカップ
気泡はすでに溶け、
プラスチックの縁に、ひとすじの指紋だけが残っていた。
(了)