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タクシードライバー

作者: タナボタ

 違う、これも違う。自分の追い求めている重さではない。並々に注がれたジョッキ、油の滴る唐揚げ、道端に転がるただの石、全部求めているものではない。都会のネオンの明かりが自分の孤独をくっきり影と映しているけれど、コンクリートの上に照射された自分の影は、まるで主人を失ってしまったかのように不安定に動いている。自分はひどく酩酊しているということを自分の影を通して理解する。世界がぼやける。自分と周りの境界線がだんだんと曖昧になって、自分という個が世界に溶け出していくような感じがする。そんな世界の中で、自分は自分を失っていく。周りには何もない。何かあるようで、そこにあるのは自分だったりする。

 隣には誰かが肩を担いでくれている。多分会社の後輩だが、はっきりとは見えなくて、やっぱりこれも自分であって他の誰かではない、という気分になるけれど、結局その自分という存在が何なのか自分にはわからない。

酩酊した思考を垂れ流しにしていると、後輩が足を止め、自分もつられて足を止める。

「だいぶ酔っちゃってて、お願いできますかね?」

と、彼は自分の住所をタクシードライバーに教えている。乗り込むとタクシーの運転手は自分に水を出してきた。何も聞かずにその水を飲み込む。酒で熱くなっていた自分の体に冷たい液体がすうっと入っていき、自分の思考をクリアにしていく。だんだんと自分という存在がはっきりしてくる。

「すいません、ありがとうございます。」

クリアになった思考で感謝を告げる。ただ水を飲んだだけなのに、さっきとは段違いだ。

「いえいえ、自分も結構飲むので。」

運転手は、はにかんだ顔でバックミラー越しに自分の顔を見て話す。自分が分節化されていく気がした。外を見ると、後輩の鈴木君が心配そうにこちらを見ていたので、悪かったね、ありがとう。と言ってタクシーのドアを閉めた。タクシーは静かに、タイヤを回し始めた。


 自分という存在が時折わからなくなる。自分はいったい何をもって定義できるのだろうと。ほかの人にあって自分にないものを考えても特には思いつかない。むしろ自分にはなくて他人にはあるものばかり思いついてしまって、自分をそういう秤では定義できないことに気が付いた。それでも自分はこうして存在している。自分という存在がきっとそこにあるはずなのに、まるで芯が通っていなくて、掴もうとすれば自分の体は忽ち煙のようになって掴むことはできない。自分の人生はそんな浮雲のような取り留めの無いものだ。

「お客さん、よく飲むんですか。」

運転手が聞いてくる。彼の言葉は堅苦しそうで、そうではなかった。どこか親しみやすい抑揚と朗らかな表情、彼との会話にはきっと無理な表情を付けた会話は必要ないと気づく。窓の外に見えるネオンの明かりが、窓に映る自分の表情と二重写しになって煌めいている。

「そうなんです、最近大きな仕事があるんですけど、それがどうも最近話題になっているAIの導入についてのもので、私の勤めている会社は接客が主なんですけど、それが必要なのかって話を彼としてたんです。」

自分から出ていく言葉が変にぶっきらぼうだと思った。自分はまだ酔いがさめていない。それにいつもなら自分からこんな話を持ち込まない。誰かの話しているのに適当に相槌を打つだけ。

「最近話題になってますね。なんだか私は恐ろしくってたまりませんね。どうやら人類にとって代わるんじゃないかってSF映画のような話まで出てきてますしね。」

はい、はい、と相槌を打つ。いつもならこんな相槌を打てば気まずくなるはずなのに、今日は不思議と気分がいい。

「接客か、私もタクシードライバーなんてのは接客ですけれど、なんだか人工知能が発達したら真っ先にとって代わられるのはタクシードライバーだなんてネットに書かれてましたけどね。こんな人間味の帯びた仕事、他にないと思ってますけどね。」 

「私なんてのはよく酔った方をお乗せするんですけど、そういう時なんてのはきっと人工知能には対応できないんじゃないかと思いますね。お客さんはまだ酔いの浅いほうだと思いますけど、かなり酔ってらっしゃる方はとんでもないことをおっしゃいますからね。」

と言って運転手は笑う。というと?と返す。

「酔った時ってのは人間の本性が出ますからね。その人が日ごろ隠しているものが一気に出てきますから。この前乗せたお客さんなんて横に彼女さんがいらっしゃるのに全く別の女の人の名前を叫んでらっしゃって、もう空気が悪い悪い。おまけにその方途中で漏らしてましてね、シートがべちゃべちゃです。彼女さんは途中で降りて帰っちゃいましたよ。」

「そんなこともあるもんなんですね。自分は酔っても自分を隠しちゃうタイプなんですよ。なぜかしゃべらなくなるって友人が言ってましたね。」

「でもそっちの方が気が楽ですよね。酔っても心配することが何もないから。」

「それはそうなんですけど、もしかしたら自分は隠してるのではなく、何も隠すものがないのかもしれないと思ったら、急に怖くなったりして。」

一瞬、車内が静寂に包まれたのがわかった。そうか、自分はやっと自分の体の一部が少しだけ掴めたような感覚になった。長いトンネルに入ったタクシーの窓には、自分の顔だけ、薄く映し出されている。

「さっきの話に戻りますけど、自分は人工知能とか、コンピューターっていうのがどうも好きになれないんですよ。」

運転手は続ける。

「なにも私が生まれた時代が時代だったから、という訳ではなく、何というか、利便性を求めていく時代、そればかりに頼ってしまうと、何もかも、希薄になっていってしまう気がするんですよ。」

自分は固唾を飲んで彼の主張を待つ。それは彼の主張がすっと、清水のように体に入ってきたからで、私が彼の主張を肯定しているからであった。

「多分お客さんが隠してることが無いっていうのは本当だと思うんです。それは今の時代のコミュニケーションがだんだんと薄くなっているからで、あなたという存在がどんどんと薄くなっているから。」

「利便性を求めすぎた時代、誰とでも、手元の機器で簡単にコミュニケーションが取れてしまう。だけれどその実、それはただ人の人生を覗いているだけなんです。そこには顔を合わせたり、抑揚を感じたり、表情を読み取ったりという行為は存在しない。それは人間的な行動ではないんです。だからこそ人々は段々と自分という人間の存在を、自分と剥離して考える。そのうえ自分の覗いた他人の人生と、自分の人生が混同して、終いには自分が何のために、どんな人生を生きているのかわからなくなる。つまりは生きながら死んでいるような感覚に陥るんだと思います。」

心の中を覗かれているような気がした。彼の思想はそっくりそのまま、自分の人生をかたどったようなものだった。

「だからあなたは何も隠してない、隠すものがない。あなたを生きていないから。まるで他人の人生を生きているように、自分の人生を生きているから。」

そのあと彼はこう続ける。

「あなたの人生を取り戻すんです。あなたの存在を取り戻すんです。方法はきっともう分っているはずです。だってそれがありのままのあなたで、今のあなたなんですから。」

長いこと走っていたタクシーは、すっかりトンネルを抜けていて、空には数々の星々が綺麗に煌めいているのが見えた。ルームミラーには運転手の目が映っていた。彼の目は息が詰まるくらい真剣で、真っすぐに道の先を見つめていた。まだ家路は長いけれど、この運転手になら任せて良いと心底思った。

結局、私が探し回っていたものはタクシードライバーだったのだ。

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