惨劇チャンネル
『勇者様、起きてください。勇者様』
『どこからともなく声が聞こえて、僕は目を開けた。起き上がってあたりを見回すと、木漏れ日が差し込む静かな森のようだった。僕が今まで暮らしていた、都会の町中とは似ても似つかない場所だ』
『ここは、一体……』
『お目覚めになられたのですね、勇者様』
『困惑する僕の頭に、またあの声が響く。どうやら声の主は頭上にいるようだ。僕は上を向く。そこには大きな羽のついた、天使のような美しい女性がいた』
『君は……?』
『わたしはこの世界の女神です。あなたはこの世界を救うために、異世界から召喚された勇者様なのですよ』
『ゆ、勇者?』
『細かい説明は後にしましょう、まずは、この世界に召喚された者への礼儀として、祝福の口づけをしなくてはなりません』
『く、口づけだって?』
『赤面する僕を意に介さず、彼女は羽をゆっくりと動かしながら、少しずつ降りて近づいてきた。そして、僕の唇に優しくキスをした』
俺は思わず、スピーカーの音量を下げた。車内に漂っていた朗読者の声は、冷房から吹き出る風の音にかき消されていった。
けっ、なんだこの話は、いきなりキスとか都合が良すぎだろう。俺だって、空から降りてきた美人に思いっきりキスしてもらいたいもんだね。
点灯し続けている赤信号を確認しながら、カーオーディオに繋がれているスマートフォンの画面を開く。
みんなのショートストーリー朗読チャンネル、と表示された文字列を上にスライドさせ、下から現れたボタンをタップすると、ラジオアプリはチャンネル選択画面に戻った。
もうちょっとマシなチャンネルは無いのか……。
普段カーオーディオに接続されているはずの、数百種類の楽曲を詰めたUSBメモリは、今、自宅で留守番をしている。新曲をダウンロードした時、パソコンに差し込んだまま忘れて出勤してしまったのだ。
だから今日だけは、スマートフォンでネットラジオでも聞いてみようかと思い立ったのだが、いまだに俺の肌に合うチャンネルが見つからない。
リストに表示されたチャンネルリストをスクロールしていると、車のほうから電子音が鳴りだした。
先行車の発進を知らせる通知だ。
ああ、もう青なのか。
結局チャンネルは決まらなかったが、このまま無音で走行するのも寂しい。少しずつアクセルを踏む力を強めながら、左手の親指で、無造作にスマートフォンの画面をタップしまくった。
スピーカーから、チャンネルが選択された効果音が聞こえてきたので、スマートフォンを空の助手席へと放り投げる。
どうせ決まらないんだ、完全にランダムでやったっていいだろ。
すでに数十メートルは離れた先行車を追うように、車を勢いよく発進させた。
数分ほど走行して、俺は違和感を覚えた。
スピーカーから、ほとんど音が出ていないのだ。かすかに感じるのは、波の音にも、砂の音のようにも聞こえる雑音だけ。
おかしいな、確かにチャンネル選択音がしたはずだが――
『みぎ……みぎ……』
思わずスピーカーを凝視する。その声は、男か女かもわからない、そもそも人間が発しているのかも怪しい、無機質で、電子的な響きをしていた。
『みぎ……みぎ……』
またも同じ音声が耳に入る。
みぎ……右? 右かどうかしたのか?
俺は誘導されるように、道路の右側を見た。
「あっ!」
一目で状況がわかった。
対向車線の、さらに向こう側にある歩道。
スマートフォンを見ながら自転車で走行している男。
反対側からは子どもと会話をしながら歩いている母親。
両者とも、接近に全く気がついていない。
「危ない!」
車内で発せられた声が届くはずもなかった。次の瞬間には、自転車と母親が真正面から衝突してしまった。
俺は目を伏せつつ、その場を通り過ぎた。
しばらく進んだところで赤信号に捕まり、俺はようやくさっきの出来事を反芻する機会を得た。車のエンジンは静かなEVモードに切り替わったが、俺の心臓は騒々しい駆動音を鳴らし続けていた。
頭の中に、細切れの思考が巡る。
二人は大丈夫か?
あの後どうなったのだろう?
子どもも巻き込まれはしなかっただろうか?
自転車もけっこうスピード出てたよな?
右、そう右だ。なんでラジオからそんな――
『ひだり……ひだり……』
一瞬、ブレーキペダルから足が浮いてしまった。
左。確かにそう聞こえた。意識しながらも、しかし俺の目線は前方に向けられたままだった。見ないほうがいい、そう直感していた。
交差点の右側から、猛スピードで横切るバイクが現れるまでは。
俺の顔はビンタを食らったかのように左に振られ、急停車するトラックをかわしきれずに激突するバイクを、しっかりと視界に捉えてしまった。
金属が激しく変形し、ガラスが割れる音。
悲鳴とざわめき。
バイクから投げ出され、横たわる人体。
青になった信号。
俺は逃げるように、車を発進させた。
やばい、いったい、何が起こっている?
車を路肩にでも停めて、一呼吸置きたかった。
しかし今は通勤の時間帯。3車線の道路はいつの間にか、前後左右とも鉄の塊でスシ詰めの状態になってしまった。流れに従って、前に進むしかない。
そうだ、せめてこの気味の悪いチャンネルを止めなければ……。
ハンドルから離した左手は震えていた。顔は前のほうを見つつ、助手席にあるスマートフォンを手繰り寄せ、手当たり次第に画面をタップする。
だが、スピーカーからは何の反応もない。今まで通りに無機質な雑音が聞こえてくるだけだ。
くそ、せめて何か、他のチャンネルに切り替わってくれよ!
焦ってスマートフォンを掴もうとしたが、手汗で滑り落ちてしまい、スマートフォンは無情にも助手席とサイドブレーキの隙間へと吸い込まれてしまった。
このクソスマホめ!!
『ひだり……ひだり……』
ま、また……。
落っこちたスマートフォンに顔を向けていたのが悪かった。顔を上げた時には、ちょうど惨劇の前兆が見えていた。
左車線の車の合間から見える、立ち入り禁止の文字。
歩道の整備工事を知らせる看板。
ゆっくりと前に進むロードローラー。
その前に、転がったボールを追いかけて侵入してきた子どもが――
知らない。見なかった。俺は何も見なかったぞ。何かがひき潰される音や、女性の悲鳴かなんかも、全然聞こえなかった。
俺はヤケクソ気味に左側から意識を振り切ろうとした。
『みぎ……みぎ……』
だが、ラジオの声は容赦なし。
見ない見ない見ない! 絶対右なんて見ないからな!
全力でフロントガラスに意識を集中させた。
右側で、巨大な風船が破裂したような音が聞こえる。
そして、フロントガラスに大量の血飛沫が付着した。
「うわああああああああ!」
一人しかいない車内に、絶叫がむなしく響く。
『みぎ……みぎ……』
『ひだり……ひだり……』
『みぎ……みぎ……』
『みぎ……みぎ……』
俺は恐怖で喉が詰まり、一言も発することができずにいた。
しがみつくようにハンドルを握り、顔の上半分だけを覗かせて運転をしている。もはや右や左でどんな惨劇が起ころうとも、状況を処理する余裕なんて残っていなかった。ただ無事でいたい、その一心だ。大荒れになった海の沖合で、ヨットを操縦しているような心境だった。
『ひだり……ひだり……』
『ひだり……ひだり……』
『ひだり……ひだり……』
『みぎ……みぎ……』
車はもう血まみれどころか、得体の知れないモノが車体にへばりつき、その臭いまで車内に届いている。
俺は半狂乱になりながらも、カーオーディオからケーブルを抜き、スピーカーを消音にするなど手を尽くしてみた。だが、それでも惨劇を予告する声は、いつまでも響き続けている。
もう勘弁してくれ! 誰か助けてくれ!
そう心の中で叫んだ時だった。
ベタベタに汚れたフロントガラスの隙間から、青地に白抜き文字で、P、と描かれた看板が、わずかに見えたのだ。
やった、パーキングエリアだ!
見つけた瞬間、そこに車を停めることしか考えられなかった。
車線を大きく逸れ、車の間を縫うようにして、決死の運転を試みる。こんな状況だ、交通ルールがどうだの言ってられない。
ついにパーキングエリアに車を押し込んで、倒れるように車外に出た時、俺は今までに溜め込んでいた恐怖をため息にして吐き出した。
体の中の空気を入れ替えるように、立ち上がって深呼吸をする。まだ頭の中は不快な感覚が抜けないが、ともかく、これで惨劇から解放されたのだ。
『うえ……うえ……』
開いたドアの向こうから発せられた声が、安堵していた俺の耳に入り込んだ。
な、なんだって? う、うえ、上だって?
俺は空を見上げた。
大きなビルのてっぺんがいくつも見える。
空はとても青く晴れている。
その空に不自然な黒い点が一つある。
黒い点は少しずつ大きくなっている。
だんだんと、黒い点が立体的に見えてくる。
顔。
人間の顔だ。
屋上からか。
女性だ。
目をつむっている。
飛び降り。
自殺。
どんどん、俺のほうに近づいて――
理解した時には、もう何もかも遅すぎた。
数秒後、俺は空から落ちてきた女性と、思いきりキスをした。
-END-
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