90.妖怪ババア
ホシが最初のオークを潰してから、体感で凡そ二時間と少しか。腹もすいてきた俺達は、そろそろシュレンツィアに戻ろうかと魔窟を出ることにした。
外の土を踏んだ俺は、腰に手を当て背中を伸ばしつつ、手をかざして空を仰ぐ。
青空高く太陽が輝いているのが見える。あの位置であれば時刻は正午を過ぎたくらいか。
空から目を離し前を向けば、二両の乗合馬車が町へと帰るであろう冒険者を待っている様子が目に映った。
流石に辻馬車はこんなことろまで来ないか。まあここには今俺達しかいない。帰りはあれで戻ればいいな。
「あははは! あー面白かった!」
「良かったですわねぇ、また来ましょう?」
「うん!」
思うがままに暴れたから、ホシの機嫌も随分と良くなった。スティアと手を繋いでニコニコ笑顔だ。
まあそれもそのはず。そうでなければ倒されたオーク達が報われないというものだ。
「三十六匹……」
「うん……」
魔窟に入ったときの勢いはどこへやら。随分口数の少なくなったサイラスとウォード君が、呆然とした足取りで俺達の後に続き、地上へと顔を出す。
太陽の陽を浴び露になった顔には、まるで狐につままれたような表情を浮かべている。ぼそりと呟いたその言葉が彼らの心情を如実に表していた。
あれからの、見敵必殺と言わんばかりの暴れっぷりは凄かった。まるで子供が自分のおもちゃを容赦なく破壊するかのように、慈悲も無く片っ端からオークを叩き潰して回ったのだ。
しかも一匹にかかる時間は所要数秒。オークの姿が見えたと思ったら、次の瞬間黒い霧になって霧散していくのだ。
そしてそれを行う張本人はもう満面の笑み。にっこにこである。ケラケラ笑ってすらいた。
本来命のやり取りであるはずなのに、遊びとしか認識されていないその様子に、オーク達が哀れに思えてしまった。
いくら敵とは言っても憎悪しているわけではない。潔く成仏して欲しいものだ。
「俺達はあの馬車で帰ろうと思うが、君達はどうする?」
声をかけると、揃って下を向いていた二人がハッとこちらを見返す。
「あ、ああ……。もう少し残るつもりだ。俺達、殆ど何もしてねぇからな」
「そうか。くず魔石の取り分は本当にいいのか?」
もう帰ろうかと言う話が出た際にくず魔石を等分しておこうと話をしたのだが、彼らは「俺達が倒したわけじゃないから」と固辞し受け取らなかったのだ。
念のためもう一度話を振ってみたが、サイラスとウォード君はこくりと一緒に頷く。どうやら意思は変わらないらしい。ずいぶん謙虚なものだ。
「分かった。じゃ、もう行くわ。じゃあな」
彼らに別れを告げた俺達は、皆で馬車へと向かうことにした。
「ちょっと待ってくれ」
が、そんな俺達をサイラスが呼び止める。
振り向くと、彼はやけに真剣な顔をしていた。
「あんた達、明日ももぐるつもりか?」
「ん? んー……。正直予定は無いが」
「……そうか」
彼の煮え切らない態度に俺達は顔を見合わせる。
サイラスは何か言いたそうに何度か口を開きかけたが、結局気を取り直したように首を振ると笑顔を見せた。
「いや! やっぱ何でもねぇ! 悪かったな! 行こうぜウォード」
「えぇ……? ぼ、僕達も帰らない? もう疲れちゃったよ、僕……」
「なぁーに言ってんだよ! 昼飯も持って来てるんだ! ここで食って、また行くぞ!」
「か、勘弁してよサイラスぅ~……!」
彼はウォード君の首に腕を回すとがっちりと押さえ込み、そのまま踵を返して去って行く。彼のよく分からない行動に、俺達はまた顔を見合わせた。
「何だったの?」
「さぁ……?」
くりくりとした目を俺に向けるホシ。しかしその行動からも、そしてその感情からも、彼の意図は俺にも分からず終いだった。
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明るいうちは人でごった返していた中央広場も、日が変わろうとしている今、動く影は殆どない。
街灯がぼんやりと周囲を照らし、昼とはまた違った町の表情を映し出している。しんと静まり返った町はまるで息をひそめているかのようだ。
それをからかうように、町を吹き抜けていく風が、時折どこかの看板をキィ、キィと鳴らしていた。
手にカンテラを持った二人の衛兵が、カツカツと足音を響かせながら町中を歩いている。彼らはぽそぽそと互いに話をしながら、南の方角へとゆっくりその姿を消して行った。
その後姿を見届けた俺達は、頷きあうと足音を立てずに走り、細い路地へとするりと入った。
俺とホシはローブを目深にかぶり、裏路地を急ぎ足で進んで行く。
静まり返った裏路地には、俺達二人が空気を押しのける音だけが残る。だがそれもすぐに闇に溶けていった。
入り組んだ裏路地をするすると進んで行く。すると目の前にぼんやりと明かりが灯っているのが目に映った。
人の気配すら殆どしない路地裏の奥の奥だと言うのに、酒場が一軒、まだ看板を上げているようだ。
俺とホシは足早に路地を進みその店へ静かに入ると、カウンターへと腰掛ける。
このような時間だと言うのに店内には二人ほど先客がおり、酒か何かを飲んでいる様子が目の端に映った。
「……らっしゃい」
俺達がフードを脱ぎ顔を見せると、マスターがボソリと声をかけてくる。
「ぼろい店だね!」
それに先制パンチを食らわせたホシ。途端にマスターの顔がむっとしたものに変わった。
「子連れか。お帰りはあちらだぜ」
「すまん。今日は何がある? お勧めがあれば教えてくれ」
「ここはそんな大層なものは置いてねぇよ。エールとワイン。あとちょっとしたつまみぐらいだな。適当に言ってくれ」
「そうかい。ならホットワインと適当なフライを幾つか、あとそうだな……ポワレがあれば頼む」
俺の注文にマスターは顔をしかめる。
「こんな場末の酒場でポワレなんて小洒落たもん出せなんて、物好きもいたもんだな」
「好物なんでな。出来ないか?」
「……時間がかかるぞ。邪魔だから二階の手前の部屋で待ちな。できたら持って行ってやる」
「分かった。それじゃ頼む。行くぞ」
「うん」
俺とホシはマスターがアゴで指し示した通りに二階へと上がり、廊下を進む。そして四つ並んだドアの一番手前――ではなく、奥から一つ手前の部屋のドアを五回、ゆっくりと叩いた。
「何だ? この部屋は今使用中だ」
ドアの奥から男の声がする。俺はそれに、こう答えた。
「それは悪いな。邪魔したな探求者」
ガチャリと言う金属音が聞こえ、音も無くドアが開く。
そこから覗いたのは、人を射殺さんばかりの鋭い目つきと白髪交じりの黒髪を持つ、初老の男の顔だった。
「入れ」
その男はじろりとこちらを見ると、アゴで入るように促す。俺達は促されるまま部屋へと足を踏み入れた。
中には簡素なテーブルが一つと椅子が四つ置かれており、テーブルには仄かに周囲を照らすランプが一つだけ置かれていた。
しかしそれ以外の調度品は何も無く、生活感が異様なほど何も無い。加えて言うのなら窓すらも無い。
ぼんやりと部屋を灯すわずかな光が、この部屋がただの客室として使われているものでないことを明確に示していた。
「随分とご無沙汰だねぇ、エイク」
部屋の奥からしゃがれ声が聞こえる。そこには腰の曲がった白髪の老婆が静かに椅子に座っていた。
「まだ生きてたのかババア」
「ご挨拶だねぇ。ひっひ、あたしゃまだ五十年は生きるよ」
「もう化けモンじゃねぇか」
「そうさ。下水を這い回るドブ鼠だからね、あたしゃ。しぶといのさ」
お互いに挨拶代わりに軽口を叩き合う。このやり取りも久しぶりだ。王国軍に入る前だから、確実に五年以上は前になるか。
しかしババアがここにいるとは思わなかった。以前と同じ憎まれ口の応酬に懐かしく思う。見ればババアもその目を細め、柔らかな表情をしているように見えた。
彼女の名は俺も知らない。俺を彼女に引き合わせた親父も知らなかったため、恐らく知っている者は殆どいないのだろう。
歳も分からないが、その風貌から恐らく八十は超えていると思われる。
「あたしゃまだ二十歳だよ」
「心を読むなババア」
「ひっひっひ」
俺がジロリとねめ付けると、彼女はそれを軽く笑ってサラリと受け流した。
以前聞いたことがあるが、人の表情で思っていることが大体分かるらしい。亀の甲より年の功とはよく言ったものだ。
まるで手の平の上で踊らされているような感覚を抱くことも、このババアの前ではしばしばあった。人の感情を読み取れる俺だからこそ、余計にそう思わされるのだろう。
しかしこの人の食ったようなババアだが、俺は嫌いではなかった。
そしてホシもまたそうなのだろう。いるかどうかも分からないこのババアに会うために、嫌いなフードをかぶってまでこうして俺に付いてやってきたのだから。
「ばーちゃん!」
「ひっひっひ……あんたもいたのかい。しかしまぁ、まだちんちくりんなんだねぇ。どうなってんだい全く」
ホシがちょこちょこと駆け寄ると、両腕を広げ、彼女はそれを迎える。
「会ったばかりのエイクもこんなちんちくりんだったのに、今じゃもうおっさんだからね、早いもんだよ。時間が経つってのは。あたしもババアになるってもんさ」
彼女はホシの頭をなでながらその目を細めた。
「適当なことを言うな。俺が会ったときは十六だったし、もっとでかかっただろが。と言うか、俺が会ったときからあんたババアだっただろ」
「そうだったかねぇ? ひっひっひ! 忘れちまったよ」
「ったく……まだ耄碌するのは早ぇぞ。ボケるなら俺達が帰ってからにしてくれ」
「つれないねぇ。年寄りは大切にしな。老い先短いんだから」
「長いのか短いのかどっちかにしろや」
ババアは誤魔化すように口を歪めて笑い、またホシへと顔を向けた。
「しっかし不思議だねぇ……。確か、もう二十は超えているんだろう? オーガなんてのはあたしも会ったことはないけど、この若さがどこから来ているのか、あたしにも秘訣を教えて貰いたいもんだよ。ああ、ホシちゃん。立ったままじゃ可哀想だ。ここに座りな」
「うん!」
まるで近所の婆ちゃんよろしくホシの世話を焼くババア。こうしていると、本当に無害な婆さんにしか見えない。
「おい妖怪ババア。んな秘訣を知ってどうするんだよ。あんた、一体いつまで生きるつもりだ?」
「あと百年は生きてみたいねぇ」
「そりゃ欲張りすぎじゃねぇのか?」
「何が欲張りなもんかい。人生なんてのは生きてナンボなんだよ。あたしにだってまだ薔薇色の人生が待っているはずなんだよ。運命の王子様だってね」
「王子様だ? やめろ、ゾッとする」
「出会えたら骨までしゃぶり尽くしてやるさね。ひっひっひ!」
「おぞましいからやめろ!」
ババアは可笑しそうに笑うと、再び顔を上げこちらを向く。
「エイク。あんたは今、ちゃんと生きているのかい?」
彼女はその細い目をさらに細め、俺の顔をじっと見つめてくる。まるで俺の胸中まで見通すかのような視線にどきりと胸が弾んだ。
「……ああ、大丈夫だ。仲間に恵まれてな」
「そうかい。そりゃ良かったねぇ」
一瞬言葉に詰まってしまったが、俺がそう答えると彼女はその頬を緩ませた。
ああ、駄目だな。このババアには敵う気がしない。一体どこまでお見通しなのか検討もつかない。
いたたまれず頭をかく俺を、ババアは「ひっひっひ……」と可笑しそうに笑いくさった。いつまでもガキ扱いしやがって。
会話が一通り済むと、そのタイミングを見計らっていたのだろう、後ろの男がわざと足音を立てて歩み寄りテーブルにつく。
彼の顔には、相応の人生を歩んできたことを思わせる深い皺が刻まれている。
その鋭い眼光は萎縮しそうなほど鋭利だ。もし子供だったなら目が合っただけでチビるだろう。
しかし、今ここにはあの妖怪ババアがいる。どんなに強面な男だろうとババアの後ではインパクトに欠けてしまう。残念だったな。
「ロージャン、あんたも妖怪ジジイになれば対等に戦えるぞ」
「……なんの話だ」
俺の言う事が分からなかったのか、彼はいぶかしそうな視線をこちらへ向ける。そのせいでババアから「余計なこと言うんじゃないよ」と突っ込まれてしまった。おのれババア。
「さ、座りな。話を聞こうじゃないか。最も金次第だがね。影の探求者の情報は安くないよ。当然持ってきたんだろうねぇ?」
彼女はそう言ってコンコンと指先でテーブルを叩いた。