85.駆け込み宿
「あー! 疲れた! もう走れねぇ!」
ドカドカと足音を立てて廊下を歩きドアを乱暴に開く。部屋に踏み入るや否やローブやブーツを脱ぎ散らかし、自分へ適当に”乾燥”をかけると、最後の仕上げとばかりに鎧をぽいと脱ぎ捨て、俺はベッドへと倒れこんだ。
雨はもう本降りになっており、屋根を打つ音が部屋の中まで聞こえてくる。雨音が響く部屋の中、俺は特別柔らかくも無いベッドに身を沈ませ息を吐いた。
騎士達をまいてから一時間程の間、彼らに追いつかれないよう、俺達は雨の降る中を走り詰めた。
徐々に強まった雨脚のせいで泥を派手に跳ね上げながらの道中となり、大分汚れてしまったが、そのかいあって昼前にはシュレンツィアまでを踏破し、その門をくぐることはできた。
だが一時間もの間ずっと精を練りながら走っていた俺は、疲れがもうピークを超えてしまっていた。
長時間の活性化はかなり集中力を必要とする。それに、精による体の活性化は確かに身体能力を向上させはするが、精の元になる生命力を徐々に失ってしまう。
一時間もその状態を維持し続けた結果、俺の精神力と体力は共に底を突き、俺は限界をとうに突破してしまっていた。
シュレンツィアの門をくぐる際は、もう生まれたての小鹿も「キューン!?」と仰天するほどプルプルしていたと思う。
いやキューンと鳴くかどうかは知らんが。もしかしたら「グガ……ガギゴゲ!」とか鳴くかもしれん。
さておき、バドに支えられながら何とかここまで辿り着いたが、ベットに倒れこんだ今はもうピクリとも動ける気がしなかった。
何やら動いている気配を感じ、うつ伏せになりながら頭だけを動かして横を見ると、俺が投げ散らかした装備を、バドが片付けてくれていた。
しかしそんな光景を見ても、彼に悪いなと思うものの、体は鉛のように重い。まさに精根尽き果てた今、こうしてベッドに倒れていたいという欲求があまりにも強く、俺はまるで風が無い時の吹流しのように、だらりと伸びていることしか出来ないでいた。
ぼんやりとバドの様子を見ていたそんなとき。コンコンコンと部屋のドアがノックされたかと思えば、返事をする間もなく誰かが入ってきた。
「おーっす!」
「ちょっとホシさん、勝手に開けてはいけませんわよ」
ノックをしたスティアに構わず、タタタと軽い足音を立てながらホシが部屋に入ってくる。
「あはは! 情け無い!」
「ほっとけ……」
俺のペッドにポンと座り、ホシはニシシと憎まれ口を叩いてくる。
俺が情けないんじゃない。お前らが異常なんだ。
「バドも脱いでしまいなさいな。エイク様のローブは私が」
一方のスティアはまだ鎧姿のバドにそう促しながら、彼が持っていた俺のローブに手を伸ばし、手際よく”乾燥”をかけ始めた。
ぐっしょりと濡れそぼったそれは瞬く間に乾き、仕上げとばかりにかけられた”浄化”によって付着した泥もその姿を消す。水と泥に塗れたローブは瞬く間に、洗濯が終わり取り込んだばかりのように様変わりした。
「悪い、スティア……」
「このくらいお安い御用ですわ。さ、ブーツと鎧も乾かしてしまいましょう」
「お、おっかさん……!」
「誰がおっかさんですか!」
スティアは俺の冗談に付き合いころころと笑いながら、脱ぎ散らかしたブーツにも魔法をかけていく。
彼女のことだ。きっと俺が倒れこんでいると予想して、こうして来てくれたのだろう。本当にありがたいことだ。このやんちゃ坊主とはやはり違う。
嗅覚鋭くホシがジロリとこちらを見るが、俺は気取られまいと枕に額を押し当てた。
随分と固い枕だが、野宿に比べればベッドもあるし雲泥の差だ。それに今の俺の疲労感はそれはもう甚だしい。上等なものではないが、泥のように眠れそうだ。
そろそろ昼時になるが、こうして枕に突っ伏していると空腹よりも眠気がだんだんと強くなってくる。鎌首をもたげ始めた睡魔に抗う気力も無く、俺はそのまどろみの渦へたちまちのうちに飲まれていった。
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結局その後俺が目を覚ましたのは、日も暮れてしまう黄昏時だった。
体を起すとスティアとバドが武器を手入れをしている最中で、二人が同時にこちらを向いた。
スティアが可笑しそうにちょいちょいと指を差すので、何かと思いそちらを向くと、俺の隣でホシがへそを出して高いびきをかいていた。
……なるほど。何だか寝苦しいと思ったがこいつが悪さをしていたらしいな。
意趣返しに丸出しのお腹をペンと軽く叩くと、ホシはなにやらむにゃむにゃ言いながらボリボリと腹をかく。まるでオヤジのような仕草に、俺達はそろって噴き出した。
「時間も良い頃合ですし、そろそろ参りませんか?」
もう夕食時になる時刻だ。俺達を起こそうかと、丁度二人で話をしていたらしい。
「分かった。おいホシ、起きろ」
「う~ん……。何ぃ~……?」
小さな頭をなでつつ声をかけると、目をこすりながらホシがむくりと起き上がる。俺達は寝ぼけ眼のホシの手を引きながら部屋のドアを開けた。
階下へ降りた俺達の目に映ったのは、テーブルに座り食事をする多くの人達の姿だった。恐らく雨脚が強いため、皆外出を控えているのだろう。
まあかく言う俺達も思うことは同じだ。部屋の隅に空いていたテーブルを一脚見つけた俺は、皆にそこに座っているように伝えると、一人店主へと足を向けた。
「夕食を四人分頼む」
「おう。ちょっと待ってな」
俺は忙しそうに動いている店主に声をかける。部屋を取る際に聞いていたが、食事はパンとスープに肉を焼いた物が出てくるとのこと。
二人部屋一つ素泊まり小銀貨1枚で、一食つけると一人分小銅貨8枚。一食小銅貨8枚とは不安が残る安さだ。
ともあれ彼に四人分の食事を頼んだ俺は、皆が陣取る席へと戻った。
宿泊する宿によって、食事を出す宿もあれば素泊まりのみの宿もある。この宿は希望すれば食事を出してくれるようだが、しかし価格設定で察して欲しい。
食事というのは美味しいものもあれば不味いものもある。豪華なものもあれば貧相なものもある。つまり、そういうことだ。
今回雨が酷すぎて、駆け込んだのがこの宿だったのだ。普通に食べられるだけでもありがたい限りだろう。
そう。そうなのだ。
「そう落ち込むなバド……」
だから俺は、目の前に座り、ローブで顔を隠しているバドにそう慰めの言葉をかけた。
彼は周囲に目をやり、食事の内容を知った途端、目に見えてがっくりと肩を落としていた。テーブルに突っ伏しかねないほどのうな垂れようは可哀想なほどだ。
シュレンツィアに向かうと言って一番楽しみにしていたのは、間違いなくバドだ。色々美味いものが食べられそうだと張り切っていたのだ。
それがいきなり肩透かしを食らったわけだから、まあ、気持ちは分からなくは無い。
「明日! 明日はちゃんとした食堂で食べれば良いですわ!」
「そ、そうだな。それがいい。今日はさっと食べて、明日に備えよう。な?」
俺とスティアが慌ててとりなすと、彼はようやっと頭を上げ、力なくコクリと首を縦に振った。
このハルツハイム領は、北にそびえ立つドゥルガ山が生み出す豊富な水源と、温暖な季候が生み出した、広大かつ肥沃な大地を保有している。
そのため農業が非常に盛んであり、特産品として有名なものがいくつも存在する。そしてその中でもとりわけ有名な物が油だった。
なぜ油? と不思議に思うかもしれないが侮るなかれ。油と一口に言ってもシュレンツィア特産の油は非常に様々な種類があり、動物や植物から作られるもの全てを合わせれば片手では数え切れないほど存在する。
人間が生活する上で最も大切な者は衣、食、住の三つ。そして、油はその内の食と切っても切り離せない密接な関係にある。
人間が生きている以上需要の尽きない油を多種多様に揃えているこの領は、油の産地として有名であった。
俺が王都にいた頃は、油というと大体がハルツハイム領産だった。逆にハルツハイム領産でない場合、どこだよそこ、なんて思ったものだ。
王都とは地理的に近いという理由もあるのだろうが、それにしてもシェアが半端ない。
恐らくセントベルでシェルトさんが使っていたオリーブ油なんかも、ここハルツハイム領が原産地だったはずだ。
まあそんな事情があり、セントベルを発ってからここまで、バドはずっと美味い食事を楽しみにしていたのだ。喋ることが出来れば鼻歌の一つでも歌っていたことだろう。
だがその一発目がこれだ。この落ち込みようも仕方がないことだった。
俺達がバドの落胆振りを見て困り顔を見合わせていると、急に背後から声がかかった。
「ちゃんとしてない食事で悪かったね」
そこには不機嫌そうに片方の眉を上げた店主が立っていた。彼は両手に持ったトレイをドンドンとテーブルへ置き、
「そんじゃごゆっくり」
そうぶっきらぼうに言い残し、その場を去って行った。
どうやら俺達のやりとりが聞こえていたらしい。ばつの悪さもあって、俺はその背中に何も声をかけられなかった。
「……ま、食べようぜ」
「……そうですわね」
せっかくの食事、ありがたく頂かなければバチが当たる。店主には悪いことをしてしまったが、とにかく頂くことにしよう。
俺はスプーンを手に取るとスープへとくぐらせ、そして口へと運ぶ。ゆっくりと口に含んだそれは……やっぱり薄い塩味がするだけの、可も無く不可も無い、面白みのないスープだった。
ちらりと店主の方を見ると、遠くから腕を組みこちらへ目を向けており、俺は慌てて顔を伏せた。これは何も言わぬが吉だな。皆も察してか口数少なく食事を口へと運んでいく。
ふと目線だけを上げると、バドも黙々と食べている様子が目に映った。ただ、いつも真顔で表情を変えたことが無いバドの眉がしおしおと下がっているように見えたのは、俺の気のせいではなかったと思う。