82.森の中で
「やあーっ!」
「シィィッ!」
静かな森の中に勇ましい二つの声が鳴り響く。一つは低く重く、聞いた者の身を竦ませるような激しさを含んでいる。
しかし相対するもう一つの声はやや間延びした甲高いもの。それはまるで子供が遊んでいる様子を彷彿とさせるような、明るさを感じさせるものだった。
まったく異なる響きを持つ二つの声は、正面から激しくぶつかり合うと、交じり合いながら木々の間をすり抜けて行く。
心休まる静かな森の中に、喧騒が耳やかましく響き渡る。が、声の主である二人は意に返しもせず、お構い無しに声を張り上げながら激しい攻防を繰り広げる。
そしてどちらとも無く距離を取ったかと思えばお互い油断なく構え、一呼吸ほど置いて、また力強く地を蹴った。
方や大人の男性。方や小柄な少女。
徒手で対峙する二人のリーチの差は比べるまでも無い。圧倒的に少女が不利だということは誰の目にも明らかだった。
「ハァァッ!!」
気合と共に男が繰り出す拳は、空気を鋭く切り裂きながら幾度も少女に襲い掛かった。その攻撃は正しく嵐のようで、ひいき目に見ても少女に勝ち目など無い。
圧倒的な体躯の差とそれを生かした激しい攻撃に、少女は成す術もなく地に伏す――そのはずだった。
「ニャハハハ! ほい! ほい! ほいっと!」
そう、それがただの少女であれば、だ。現実というものは時としてセオリー通りとは行かないものである。
当の少女本人の口から発せられたのは、打ち倒される苦悶の声ではなく、実に楽しそうな笑い声だった。
「くっ……! 当たらん……!」
「攻撃が真っ直ぐすぎー! 簡単簡単!」
その少女――ホシは、笑顔を崩さずに目の前の狼頭の男――ガザにダメ出しをしながら、軽やかな足使いでその攻撃をひょいひょいとかわし続ける。更にそのままじりじりと前進し、ガザとの距離を詰め、自分の間合いへと持ち込んでさえいた。
そんな様子を見て、俺ことエイクは苦笑いを漏らしていた。
ホシはいとも簡単にやってのけているが、あれはそう易々と出来るものではない。ここから見ていても、ガザの攻撃の苛烈さは並大抵のものではないと分かる程だ。攻撃をさばくだけでも相当の技量が要求されるものだった。
その証拠に、いつもなら模擬戦ですらぴょこぴょことふざけた動きをしていることも多いホシも、今は実戦さながらの足使いを見せている。
彼女の緋色の髪が左右に激しくなびいているのがここからでも良く見える。ホシ自信も、遊び半分で相手が出来る手合いで無いことを感じているのだろう。
まあ、とは言え楽しんでいることは間違いないのだろうが。あの攻撃の中、ホシの表情は常に満面の笑顔だった。
一方それに対するガザはたまったものではないだろう。自分の攻撃をかすらせもしない相手が満面の笑みでじりじりと近づいてくるのだから。そこに焦りを覚えたとしても仕方の無いことだ。
「く……はぁっ!」
今まで手技ばかりだった攻め手を一転、ガザは急に至近距離からの回し蹴りを繰り出した。
恐らくホシの動きを止めようというのだろう。彼の目論見通りであれば、急に足元から来た攻撃にホシの体は仰け反り、一瞬でも硬直を見せるはずであった。
しかし、ホシも然る者引っかくもの。
くん、と体を低くして蹴りをかわすと、そのまま地を這うように彼の足元まで飛び込み、
「ほい!」
オーガ族特有の怪力を発揮し、造作も無いといった様子でガザの軸足を片手でバシッと払ってしまった。
「うお――!?」
両足が浮いてしまえば後は地に落ちるしかない。ガザは無様にもその臀部を強かに打ち付け――なかった。その尻に救いの手を伸ばす酔狂な者が、まさに目の前にいたのだ。
「よいしょっ!」
「おわぁっ!?」
地に落ちようとする尻はホシにひょいと片手で持ち上げられ、どうだとばかりに頭上へと両手で掲げられる。掲げた張本人の顔は、なぜか得意満面であった。
「うっひゃぁーっ!!」
そして何が面白いのか奇声を上げながら、ホシはそのまま森の中を爆走し始めた。
そばで見ていたオーリとデュポも目を丸くする。ガザも慌てて四肢をバタつかせるが、哀れそれを止めるものは誰もいなかった。
今俺達がいるここは、王都の東にあるハルツハイム領の、街道に程近いとある森の中である。
目的地であるシュレンツィアに向けセントベルを出発し、早一週間。いくつかの小さな村々を経由し、目的地まであと一日と言ったところまで近づいていた。
今は昼食を取り終わり少々食休みをしているところで、各々が思い思いの行動を取っている。大別すると、後片付けをする者と、腹ごなしに体を動かす者の二通りか。
かく言う俺はと言うと――そのどちらでもなかった。
「ふっ! ふっ!」
木に背を預け地面に座り込みながら、俺は目の前で素振りをしている魔族の女――コルツをぼんやりと見ていた。
彼女は一心不乱にブンブンと武器を振っていたが、しばらくして構えたまま息を整えると、何か言いたそうな視線をこちらへと送ってくる。
「どうでしょうか」
「握りが戻ってるぞ」
「む……」
俺がそう指摘すると、彼女は自分の手元へと視線を移す。そしてすぐに握りを変え、またこちらへと顔を向けた。
俺が頷いてみせると彼女はまた真正面に向き直り、刀を上段へと振り上げ、そして一太刀、確かめるようにゆっくりと弧を描きながら振り下ろした。
以前から俺の持つ太刀に興味津々であったコルツは、こうしてわずかな休憩の合間も惜しんで俺に指南を仰いできた。今もまた教えて欲しいと言ってきたため、特に拒否する理由もなく、俺はこうして彼女の素振りを眺めているのだ。
剣と刀は形状こそ似ている武器だが、握り方も振り方も全く異なる。剣は叩き切るのに適しているが、刀は切り裂くのに適している武器だ。同じ使い方をされてはすぐに折れてしまうだろう。
そのため彼女には基礎から教えているところだ。今もコルツの刀が描く曲線は滑らかな弧を描いているが、まだわずかに剣先がぶれている。実戦で使うにはまだまだ時間がかかりそうだった。
さて、そんな俺達から少し離れた所では、後片付け組みがやっと一息つき始めていた。
そこにいるのは、銀色の髪を持つ痩身の美女であるハーフヴァンパイアのスティアと、黒い全身鎧を着ている筋肉質なダークエルフの大男、バド。そして狸の頭を持つ魔族であり薬師の女、ロナの三人だ。
今日は生憎の曇天で、森の中は木漏れ日も差さず、より一層鬱蒼としている。スティアもロナも夜目が聞くため問題ないらしいが、俺達人族やバドはそうもいかない。今も火を灯したカンテラが、かすかに音を立てながら周囲を仄かに照らしていた。
三人のうちロナとバドは何やら座って話し始めた――バドは喋ることが出来ないため厳密には話してはいないのだが――が、スティアは立ち上がるとこちらへと向かって来る。
「まるで相手になってませんわねぇ」
そう言いながら彼女は俺の隣へと腰掛ける。どうやら彼女もホシとカザの様子を見ていたようだ。
呆れるような口調にちらりと横目で様子を伺うと、そこにあったのは台詞に反して穏やかな横顔だった。意外な反応に驚いたものの、彼女の心境の変化を感じた俺は頬が緩んだ。
つい先日まで彼女は、ガザ達魔族に対してかなり辛辣な態度を取り続けていた。
無理は無い。彼ら魔族達と俺達人族はつい二ヶ月ほど前まで戦火を交えていたのだ。
今は除隊しているが、俺達四人は元々王国軍に所属していた軍人である。ちなみに俺が第三部隊の師団長を務め、他の三人は部下で、大隊の隊長だった。
戦争自体は俺達人族の勝利に終わったが、それでも戦時中に数え切れないほどの部下や仲間達を失っている。だからこそ魔族に対して良い感情など持ちようが無い。
スティアは一度仲間と認めた者に対しては非常に情が深い人間のため、殊更思うところがあっただろう。
いくら保護したとはいえ、俺達と魔族との間には禍根が残ったままだ。彼女の辛辣な態度は当然のものであり、俺にもその気持ちが十分理解出来る。そのため、いさめることもできなかったのだ。
しかし一週間前のことだ。セントベルという町に立ち寄った際に、俺達が知り合ったユーリちゃんという人族の少女が、町を食い物にする盗賊達に拉致されるという事件が起こってしまった。
その時俺達も勿論すぐに動いたが、それよりも早くに動いたのが、意外なことにガザだった。
盗賊のアジト近くに待機させていた彼は盗賊団相手に一人奮戦し、窮地に陥る危ない局面はあったものの、何とかユーリちゃんを無事に救出した。
またその事件をきっかけにガザの思いを知る機会もあったのだが、スティアの態度が少し軟化し始めたのは、間違いなくそれからだった。
なおホシも最初は、魔族達を同行させることに難色を示してはいたのだが――
「ニャハハハ! ニャハハハ!」
今はすでにあの通りである。友達のユーリちゃんを助けてもらったこともあるだろうが、ホシの態度はもう完全に軟化しきっていた。
今もなおガザを頭上に掲げたまま、ホシは森の中を走り回っており、ガザの部下だったというオーリとデュポがそれを止めようと慌てて追いかけている有様だ。
ガザ自身もじたばたともがいているが、あれではホシからは逃げられないだろう。
ホシはまるで風のように木々の間を駆け巡り、近づいてきたオーリやデュポをひらりひらりとかわす。いや、かわすだけでなく隙があれば尻を蹴ったり足をひっかけたりしているな。完全に遊ばれているようだ。
しかしガザのあの扱い方はいかがなものだろうか。激しく動くホシに担がれているものだから、質の悪い馬車で全力疾走しているみたいにガクガクと上下動している。
気になりちらりと様子を伺うと、目の端におかしそうに笑うロナの姿が映った。
保護した際、ガザは非常に深い傷を負っていた。出合った当初は辛うじて会話が出来たものの、それ以来一週間ほど意識が朦朧としており、起きることもままならない状態だったのだ。
だがセントベルにて生命の秘薬を購入し――安くも無いものをとスティアにはぶつぶつ言われたが――使用したところ、期待通り効果が現れ、今はもう自由に動き回れるほどまでに回復していた。
今までの状態を考えるとまだ安静にしていたほうが良いのではないかとも思ったが、彼の治療を懸命にしていたロナが口を挟まないところを見るに、もう大丈夫と言うことなのだろう。
魔族の体のことなど全く分からないが、同じ魔族であり薬師でもある彼女がそう考えているのであればこちらも安心しても良いのだろう。そう思い、俺はロナから視線を外した。
「しかしまあ騒々しいですわねぇ。折角森の中にいるのですから、もう少し静かにして貰いたいものですが」
騒いでいる四人組の様子を眺めていると、スティアは呆れたように溜息を漏らした。
魔族はこの国では忌むべき存在。魔王ディムヌス率いる魔族らが引き起こした三百年前の聖魔大戦より現在に至るまでずっと、この国の国民の共通認識として、そう長く語り継がれてきた。
また、つい最近も魔族と人族との戦争、第二次聖魔大戦が勃発したため、魔族に対する脅威は記憶に新しい。
そのため、そこに魔族がいると知られれば一騒動どころでは済まない。だからこそ俺達はわざわざ食事を取るのにも人目を避け、一々森の中に入るようなことをしているのだった。
だがあそこまで騒いでいればその努力も水の泡。なるほど言われてみればその通りだった。俺は立ち上がり、ホシ達に向かって手を上げる。
「おーい! お前ら、もうちょっと静かにしろ!」
「ほーい!」
喧騒の元凶であるホシは俺の言葉にピタリと足を止める。彼女を追いかけていたオーリとデュポもホシの両脇にへろへろと追いつき、膝に手を突いてがっくりと頭を垂れた。
「体力が無いですわねぇ……。シャドウの中でぐうたらしているからですわ」
肩で息をしている彼らの様子にスティアの辛辣な一言が突き刺さる。彼らは俺達人族よりもずっと耳が良い。俺には呟いたようにしか聞こえない声も、彼らにはどうやらバッチリ聞こえていたようで、肩で息をする二人の耳がへなりと垂れ下がった。
しかし、この言葉は別の方向にも突き刺さったようだ。カンテラの明かりに照らされ伸びる俺の影が、まるで自分のせいじゃないとでも言いたそうにぷるぷると揺れはじめたのだ。
彼の名前はシャドウ。俺の影に住み着く謎生物だ。いつの間にか住み着いていたため初めはびっくりしたものの、今では俺の頼れる相棒である。
彼には不思議な能力がいくつもあるが、その内の一つに影の中に色々な物を収納できるというものがある。魔族達が人目につかずにここまで来れたのは、ひとえに彼のその能力の賜物だった。
「お前のせいじゃないから気にするなよ」
そう足元に声をかけると、揺れていた影はまるで安心したかのようにピタリとその動きを止める。
まったく不思議な謎生物だ。こちらの言っていることを理解していることも相まって謎が深まるな。
「もう少ししたら出発するぞー」
『はーい!』
皆に声をかけると、スティアとホシ、そしてロナの三人が大変良い返事を返した。
魔族を伴って、そして王都からの追っ手を気にしての、注意すべき事柄が多い旅。だというのにまったくのん気なものだ。
あまりにも能天気な雰囲気に一抹の不安を覚える。だが起きてもいないことを気にしても仕方が無いと軽く頭を振り、嫌な予感を振り払った。