9.不穏な影
「申しわけない話なのですが……お願いがあるのです」
村長がそう話を始めたのは、夕食をご馳走になり、奥さんに食器を下げてもらってからのことだった。
「もう三日も前のことです。村のもんが一人、森の中でおかしなものを見たと言い出しましてな」
先ほどまではにこやかに対応してくれていた村長。しかし今彼が浮かべる表情は、うってかわって浮かないものだ。
今気づいたが、顔には少しくまができているようだった。
「犬の頭をした奴が武器を持っていたと。それもどうも、一人だけでは無いようなんですわ。他のもんは信じとらんようでしたが、私はそれが気になって気になって……。も、もし魔族だったらと思って、村のもんにはとりあえず森に入るのは止めて村を守るよう言ったんですが……でも本当に魔族だとしたらどうしようかと、もう恐ろしくて恐ろしくて……っ!」
言葉に出すのも恐ろしいのか、彼は血の気が引いた表情を浮かべている。テーブルの上に組んだ手も、ぶるぶると震えていた。
俺達は次の言葉を待つ。だが彼は、その先の言葉を言うべきか悩んでいるのか、言葉に詰まってしまう。
俺達の間にわずかの静寂が訪れた。
魔族と言うものの恐ろしさは、英雄王ヴェインの英雄譚を知る者なら誰でも知っている。
雷のように野を駆け、大岩をも素手で砕き、人を好んで食い生き血をすする怪物。英雄譚にはそううたわれている。
まあここに、鎧を脱ぐと気持ち悪いくらいすばやく動くダークエルフと、頭で岩を粉砕できるオーガの子供、そしてたまに俺の血が欲しいと駄々をこねるハーフヴァンパイアがいるが、それは置いておこう。
その話が事実であったなら、魔族と言う生き物は人間が敵う相手ではないと馬鹿でも分かるだろう。
そんなものがこの近くに複数いる。もし襲ってきたのなら、小さな村に抗うすべなどあるはずもない。
ここまで彼が怯えるのも無理からぬことだった。
改めて目の前に座る村長を見る。その表情から、彼の抱えている恐怖がどれほど大きかったのかが、気の毒になるくらいよく分かった。
村に生まれた者がその村から出ていくことなく暮らし、生涯を終えるなんてのは珍しくもない。例外は買出しや出稼ぎ、商いの時くらいだろう。
村の人間は村での生活がその世界の殆どを占めている。それを失うかもしれないというのは筆舌に尽くしがたい不安があるはずだ。
今回に限っては、それに未知の怪物である魔族が絡んでもいる。
彼が抱える心労はいかばかりか。
あまりにも悲痛な村長の顔。なんだか涙が出て来てしまった。
「それは大変でしたね、本当に……!」
元々こういった話に弱かった俺。しかし歳が三十を超えてからはなおさら涙脆くなってしまって、もう本当に最近は駄目だ。
一年一年歳を重ねるごとにどんどん涙腺が緩くなっていく。不安で仕方がない。
「えーちゃん、また泣いてるの?」
「うるせえなぁ! だって……可哀想じゃねぇか……っ!」
「貴方様、失礼しますわね」
ホシが呆れたような声を出す一方、スティアは懐からハンカチを出し、慣れた様子で俺の涙を拭う。
子供扱いされているような気がしないでもないが、彼女がハンカチなんて小洒落たものを持ち歩いている理由が、こういう場合に備えてだと言うのを俺は知っている。
戦時中は何かと辛いことも多く、恥ずかしながら堪えきれないことも多かった。
そんなとき袖で拭っていたのを見かねて、高いものをわざわざ用意してくれたのだ。
最初は俺も小っ恥ずかしく、止めろと拒否した。しかしそうしたところ、
「そうか……。無駄になってしまったな……」
と、実に悲しそうな顔をするのだ。だから今はもうしたいようにさせている。
ちょっと力加減が強くて痛いときもあるが、それもご愛敬だ。
俺は改めて村長の様子を伺う。こんな話をするというのは、まあそういうことなんだろう。
魔族絡みの話と言うこともあって、言い出しづらそうにしている村長。なので、彼の相談の続きはこちらから切り出すことにした。
「それはどの辺りでしょうか。俺達でよければ、様子を見てきますよ」
「――! それは、ありがたいが……。本当に、良いのでしょうか……?」
「ええ。実はその話、こちらにお邪魔する前に聞いてまして。我々も気になる話ですし、切り出すタイミングを伺っていたんです」
「しかし、この村は見ての通り裕福な村ではありません。もしやって頂けるのでしたら対価になりそうなものは全てお渡しするつもりですが、それでも釣り合うかどうかは分からんのです。それにもし……本当に、魔族がいたら……。皆さんも、ただでは済まないのでは……」
渡りに船な話だろうに、彼はそう言って俯いてしまった。不安で一杯だろうにこっちを気遣ってくれるとは、彼の人の好さがしみじみと感じられた。
世話にもなったことだし、力になってあげたいという思いはある。
だがそれは別の理由で、これを放置することに強い抵抗感が俺にはあった。
彼の言う話が本当で、森にいるのが魔族の残党であれば、これは王国軍の取りこぼしである可能性が高い。
軍から抜けた身ではあるものの、当時師団を預かっていた者としてはやはり責任を感じてしまう。魔族絡みと分かった時点で見過ごす気はさらさらなかった。
しかし、見返りか。まあ確かに、何も要求しないというのも裏があるようで、彼らも不安を感じるかもしれない。何か提案しておいた方がいいだろう。
さて。村長が望むのは、森の調査および可能であれば魔族の討伐だろう。
そんな依頼を冒険者ギルドに出せば、下手をすると金貨が必要な話になるかもしれない。
あまりこの村に負担をかけずに、かつ怪しまれないようこちらから何か要求するとすれば、何が適当か。
俺はアゴを撫でながら少し考えた後、村長の申し出に首を横に振った。
「いえ、魔族なら戦争で何度かやりあったので大丈夫ですよ。それと報酬のことでしたら代わりにお願いしたいことがありますので、それを聞いて頂ければ必要ありません。あ、もちろんそう無茶な話ではありませんので」
「そ、そんなことでいいのですか?」
「ええ、それで十分です」
「あたし、あの薬草の飲み物が欲しい!」
「おいコラ」
「あの薬草なんかでよければいくらでも差し上げます! ありがとうございます! 本当に、ありがとう……っ!」
急に口を挟んだホシをじっとりと見ていると、村長はテーブルに両手を突いて深々と頭を下げた。
彼の掠れたような涙声にぐっと来たが、今度は軽く鼻をすすってなんとか堪えきった。本当にもうこの涙の奴、何とかならないものだろうか。
その後、村長にこちらからの”お願い”の内容を伝えると、彼は少し驚いたような顔をしたが、最後には真剣な表情で請け負うと約束してくれた。
これで契約は成立だ。俺達は軽く頷き合うと、また村長へ改めて頷いて見せた。
それを見た村長はまた深々と頭を下げる。すると村長の後ろにいつの間にか立っていた、奥さんの姿が目に入った。
彼女はこちらから目に入りにくい少し離れた場所に立っていたのだが、その顔は不安で歪んでおり、俺と目が合うと村長と同じように、深々と頭を下げていた。
こちらの義務感もあるが、彼らの事を考えれば、なんとか不安を取り除いてやりたい。
そう思いながら、彼らが必死に頭を下げる様子にまた崩壊しそうになった涙腺を、俺は必死に堪えるのだった。