幕間.押し殺されてきた憎悪
夕食を取り終え自室に戻った王国宰相デュミナスは、テーブルに置かれていた一通の封書に気づいて眉間にしわを寄せた。
その手紙の封蝋を見れば、重要なものなのだな、と一目で分かる。
しかしデュミナスが顔をしかめたのは、そんな理由からではない。その黒い封蝋が指す意味を理解しているからこその、その反応だった。
デュミナスは後ろ手にドアを閉めると、ゆっくりとテーブルに近づく。そしてその手紙を手に取り、封蝋についと目を落とした。
そこには人間の目を模ったシンボルがあった。こちらを凝視する片目のシンボルは、黒い封蝋と相まって、どこか不穏な空気を感じさせる異様なものだった。
”影の探求者”。
通称、盗賊ギルドと呼ばれている、裏社会の諜報機関。この黒い封蝋と目のシンボルは、彼らであることを示す印だった。
”影の探求者”は、誰かのために働く者達ではない。善意で動く機関でもない。
あくまでも彼らは彼らのために動く。場合によってはこの国に牙をむくことも考えられる、非常に危険な相手だ。
だがデュミナスはそんな非合法の組織を使い、王都から消えた第三師団長のその後の行方について調査を進めていた。
無論デュミナスも相手の危険性を承知で依頼を投げている。王国の宰相になどなれば、ある程度割り切るしかない状況も多いため、非合法だろうと何だろうと、使えるものを使うことに抵抗感はさほどない。だからその点はそこまで気にはしていなかった。
しかし侯爵であるデュミナスの屋敷に忍び込み、こうして調査結果を誰にも知られず彼の自室に置いて去るとは。
大胆不敵といっていいやら、屋敷の警備体制をなげけばよいやら。彼が渋面を浮かべてしまうのも、立場上無理もないことだった。
なお、もちろん王国にも諜報機関はある。デュミナスが一声かければ即座に動いただろう。しかし彼は秘密裏に調査をすべく、”影の探求者”を頼ることとした。
王国の情報が教会に筒抜けだという可能性を危惧した意味もある。だがそれ以上に、王国の諜報機関とはいえ貴族の息がかかる組織であって、デュミナスはそれを信用できなかった。
今回の件は彼にとって、何を犠牲にしようとも譲れない大きな理由があった。
だからこそ、少しでも邪魔の入る可能性を排除することを重要視し、金を積んで買うことのできる信用を選んだのだった。
デュミナスはソファにどかりと座ると、はやる気持ちを抑えつつ封を切る。中には丁寧に折りたたまれた、二枚の羊皮紙が入っていた。
彼はそれを広げて素早く目を通す。一枚目に目を走らせると、そこには王都を出た後の第三師団長の足取りや行動などが、つぶさに記載されていた。
(やはり代官を殺したのは盗賊ではなかったか)
確証はないと前置きがあったものの、今回のセントベル代官暗殺の件と第三師団長には関連があるとの一文を目にしたデュミナスは、予想していた通りだと目を細める。
意外にも、その口元には笑みが浮かんでいた。
彼にとって、代官が死亡したことは”どうでもよかった”。
今回の件で、タスキネン子爵が非常に無能だったという結果を彼はすでに受け取っている。今彼がすべきことは、後釜に有能なものを据えることと、無能者を代官に任命した者の責任問題を追及すること。それだけだった。
本来、王国において貴族殺しは大罪である。勿論平民であっても殺人は罪だが、それは時と場合によることもあった。
例えば、人を武器で切りつけた平民を、騎士が制圧しようとした結果誤って殺してしまったとして、それが問題になるか、と言えばそんなことはない。
当然のこととして処理され、騎士にはなんのお咎めもないだろう。
だが先ほどの例で、暴漢が貴族だった場合はどうだろう。騎士がその貴族を殺してしまっても、平民の時同様にお咎めなしか、と言えばそうではない。
軽く済んで辞職。相手が高位貴族であったなら、最悪処刑もある。
貴族殺しというのは、この国においてはそれだけ重いものだった。それ故に、デュミナスの態度は、王国法に照らしても、倫理的に見ても、到底容認できるものではない。一人の人間として見ても、冷酷と言わざるを得ない姿勢だった。
だが。一人の人間である前に、彼は宰相にまで上り詰めた貴族だった。
貴族の持つ権力というのは、時として真実を覆い隠し、歪め、それとは異なる事実を作り出すこともできる大きなものだ。
その是非はともかくとして、そうした政治が国を安定させるために不可欠なのは、歴史がすでに証明している。
真実を隠蔽することも国のためならば是とする。それが当然の世界で彼はずっと戦い、生き抜いてきたのだ。
だからデュミナスは、第三師団長が代官を殺したという内容を気にもせず、二枚目の羊皮紙に目を向ける。
タスキネン子爵のように権力におぼれた貴族は王国にも多くのさばるが、彼らは国にとっての癌のようなもの。宰相である彼にとって、不要な人間がいなくなったことは感謝こそすれ、見とがめるようなことではなかったのだ。
そんなことよりも、この羊皮紙の内容のほうが大事だ。そう言わんばかりの態度で、彼は二枚目に手を伸ばした。
そうして彼は涼しい顔で、次の内容に目を落とし始める。だがそこに、今度は看過できない内容が書かれており、徐々に険しい顔へと変わっていった。
(やはり動くか。ルートヴィッテめ)
それは、聖皇教会が王都を出奔した四人を指名手配し、手配書を各地へ配布するため動いているという内容だった。
(何を考えておるか知らんが、そうはいかん。貴様の思うようにいかせるものか)
デュミナスは羊皮紙を手に立ち上がると、苛立たし気に詠唱を始める。
「火の精霊よ、悪しき者を退け賜え。”火炎”!」
彼の手から立ち上った火炎は羊皮紙に燃え移り、瞬く間に広がっていく。
デュミナスは羊皮紙を宙に投げると、魔力を立ち上らせながら鋭い視線を炎に向けた。
彼の魔力を浴びた炎はたちどころに勢いを増す。かと思えば、わずかの間青に染まり、直後、バッと空中で四散し燃え尽きてしまった。
羊皮紙は一瞬のうちにキラキラと輝く火の粉に姿を変えた。
その輝きに目を向けながら、デュミナスは思い出す。
かつて殺された友のことを。秘密裏に惨殺された親友のことを。
その復讐のために教会と一時的に手を組んだが、これ以上は無意味だろう。
あとはどちらが手を下すのが早いか。それだけだ。
(この機を逃さぬのはこちらも同じよ。この時をどれだけ待ち侘びたことか。待っておれ。必ずや我が友の恨み、晴らしてくれようぞ……!)
彼の視線はいつしか憎悪に染まっていた。
第三師団長を追い出した今この時が、己の宿願を果たす絶好の機会。これをみすみす見逃すほど、彼の復讐心は萎えてはいなかった。
憎々し気に虚空を見つめるデュミナス。そこには、いつも余裕のある表情で政務を務める、老練な王国宰相の姿はない。
今そこにあるのは、貴族という皮を脱ぎ捨てた男の姿。
デュミナス・モルト・バージェスという一人の人間の、憎しみに心を捕らわれた、物凄まじい姿だった。