幕間.光と闇とお茶菓子と
神聖アインシュバルツ王国の栄華の象徴として、王城ファーレンベルクは三百年以上前から今日に至るまで、その姿を惜しげもなく衆目に晒し、王国の権威を誇示し続けてきた。
しかしその煌びやかな外観とは裏腹に、内部は人間の謀略渦巻く混沌そのもの。まるで底なし沼のように人間を引きずりこみ、権力闘争に敗れた者達を歴史の闇に葬り去ってきた、悪魔の巣窟でもあった。
しかしそんな場所も、今は戦後間もないと言うこともあって、珍しく落ち着きを取り戻していた。普段であれば女性の戦いの舞台となることが多いこの庭園も、その例外ではなく静かなものである。
そのため最近は、普段使用することは無い人間達が我が物顔で居座っていた。
庭園の中ほどに置いたシックな白い丸テーブル。そこには一人の女性が座っていた。
周囲にはお付きと思われる女性が二人ほど立っていたが、席についているのはその女性ただ一人である。
まるで作り物のように整った顔立ちをしているその女性は、手に持ったカップをおもむろに口へと運ぶと、ほうと溜息を一つ漏らし顔を上げる。
丁寧に編みこまれ、後頭部でまとめられている美しいプラチナブロンドが、太陽の光を浴びて黄金色にキラリと輝いた。
その女性の名はヴェティペール・フォヴァニ・クルエストレン。彼女は森人族――人族にはライトエルフ、または単にエルフと呼ばれている――の元首である女王その人である。
その証左であるかのように、その耳は森人族の特徴を有し、横方向に長く突出している。
以前は第三師団の第一部隊に配属され、客将扱いであったエルフ達。だが戦争が終わった今、王国にとっての大恩人である彼らは賓客の扱いを受けている。
故にこうしてのんびりとお茶を楽しむことも誰に咎められるものでもなく、毎日のように庭園で寛いでいるのだった。
「すまぬ、ちと遅れた」
ヴェティペールがお茶の香りを楽しんでいると、不意に横から声がかかった。ヴェティペールが顔を向けた先には、動きやすいと言うには少々扇情的にすぎる衣装を身にまとった女性が、こちらもお付を二人伴い、ゆったりと歩いてくる姿があった。
「いえ、大して遅れたわけでもありませんし、気にしないでください」
「ふふ、そう言ってくれると助かる」
ヴェティペールが柔らかく笑いそう告げると、その女性もそれに対してふわりと笑みを返す。形の良い唇が三日月のように緩い曲線を描くと、ヴェティペールも上機嫌に目を細めた。
ヴェティペールの前に現れた女性の名はドロテア・ラヌス・ジェドライゼ。彼女もまた王城に留まる客将だった者の一人であり、ヴェティペールと同じく森人族の女王でもある女性だった。
同じ森人族の女王である二人。しかしその見た目は、全くの別種族かと見間違うほどに異なる。
ヴェティペールは透き通るような白い肌にプラチナブロンドという外見である一方、ドロテアはしっとりとした褐色の肌にシルバーブロンドというものである。
そう。ドロテアは森人族と言ってもヴェティペールとは違い、ダークエルフと呼ばれる種族であった。
ライトエルフとの共通点としては、その突出する耳と端整な外見のみであろう。向かい合う二人の姿は、まるで相対する敵同士かと見紛うほどだ。
実際に数年前までは、お互いに顔を付き合わせれば、闇だの光だの、白だの黒だのと暴言が飛び交うほどにいがみ合うような間柄であった。
しかし彼らは、多少の文化の違いはあれど同じ森人族だった。ある時を境にしてその仲が好転してからと言うもの、趣味趣向に合うものが多かった彼らは、今まで生じていた軋轢はどこへ行ったのかと言うほど瞬く間にその溝を埋め、手を携え、肩を組み、フォークダンスでも踊り出しそうなほど友好的な関係となってしまった。
そんな関係を築くに際し、一番槍となり、かつ旗振り役となったのがこの女王二人だった。
彼女達は殊の外馬が合ったらしく、ここのところ毎日のようにこの庭園でお茶会を開き、会話に花を咲かせながら甘味に舌鼓を打っており、もはや習慣にすらなっていた。
流石はバド先生にダストボックスにぶち込まれ、雁首揃えた仲である。その絆は紛うことなく本物であった。
ドロテアはヴェティペールと言葉を交わしながら悠々とテーブルへ近づくと、その手に持ったバスケットを見せるように、少し持ち上げつつ苦笑した。
「出来が思いのほか良くての、少々はしゃぎすぎた。気づけばこんな時間じゃ。いやはや参ったわ」
「あら。貴方がはしゃぐほどなんて、それは楽しみですね。どうぞ席について下さいな」
「うむ、失礼する」
促されたドロテアは、女王自ら持っていたバスケットをテーブルの中央へ置くと、お付きに引かれた椅子へと腰掛け、ヴェティペールの真正面に座った。
すると間をおかず目の前にティーカップが静かに置かれ、ゆっくりと紅茶が注がれる。ふわりと漂う芳香が、彼女の鼻をくすぐった。
爽やかな香りを楽しむように静かに目を閉じたドロテアは、一呼吸分ゆっくりと堪能すると、ヴェティペールへと視線を送りその頬を緩ませる。
「ふむ、よい香りじゃ。……これは?」
「美味しくできましたので貴方にもどうかと思いまして。お口に合うと思いますわ」
「そうか。では早速頂こうかの」
誘われるようにティーカップへと手を伸ばすと、たおやかに口へと運ぶ。すると、すぐに少し酸味のある爽やかさが口一杯に広がり、するりと鼻へと抜けていく。
その香りを楽しみながら喉へと流し込むと、口の中は爽やかさと若干の甘みだけが残り、彼女の舌を大いに喜ばせた。
ドロテアはティーカップを静かに戻しながら、ヴェティペールへと笑顔を送った。
「これはレモンじゃな?」
「ええ。良いレモンが手に入ったので作ってみようかと。いかがです?」
「美味いの。酸味と甘みのバランスがよい。流石ヴェティペールじゃ」
飾り気の無い賛辞だが、それが心からのものだと理解しているヴェティペールは満足そうにふわりと笑った。それを見たドロテアは、視線をバスケットへと向ける。
「これなら儂が持ってきた菓子とも合うじゃろ。最近焼き菓子に凝っておっての、一つお主からも感想を聞かせてくれんか?」
誘われるままにヴェティペールが覗き込んだその先には、いくつもの小麦色のマドレーヌが入っていた。
普通、女王ともなれば毒見係がいる。本来であればお付の一人が口にしてからヴェティペールに出されるのが正解だろう。先ほどのドロテアに関しても然りだ。
しかしドロテアと同じく、ヴェティペールもそんなことを気にする素振りも見せない。躊躇なくバスケットの中へ手を伸ばしマドレーヌを手元に持ってくると、小さくちぎって口の中へと放り込んだ。
ふわふわとした食感と共に、小麦の甘みと果実の爽やかな風味がふわりと香る。更にかみ締めると、コリコリとした食感の小さなものが歯に当たり、甘みがじゅわりと口一杯に広がった。
見る間にゆるゆると緩んでいくヴェティペールの頬。それを見てドロテアも満足そうに頬を緩ませた。
「これは美味しいですね。皮の砂糖漬けも食感が面白いですし、非常に美味です。それにこの爽やかな香り。……これはレモンですね?」
ヴェティペールに問われ、ドロテアは肩をすくめて返す。
「うむ。よいレモンが手に入ったから、作ってみようかとの」
どこかで聞いたような言葉に、ヴェティペールもドロテアも、たまらずころころと笑い出す。
「奇遇ですね」
「奇遇じゃの」
おかしそうに笑う二人の姿に、立場から口を開くことの無いお付の四人の間にも、和やかで柔らかい空気が流れた。
レモンの爽やかな香りと柔らかな日差しが周囲を温かく包み込む。そこにはいがみ合う二つの種族の姿はどこにも無い。
たわいも無い話に花を咲かせる二人の顔には常に、自然な笑みが浮かんでいた。
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「そう言えば聞きましたか? ドロテア」
「うむ?」
「どうやら王子が何やら面白そうなことを画策しているそうですよ」
「む――ふふふ、あれか。やはりお主の耳にも入っておったか」
手ずから作った紅茶と焼き菓子の話が落ち着いたところで、ヴェティペールがドロテアへと新しい話題を振った。
一瞬何かと思うドロテアだったが、すぐに言わんとするところに思い至ったようで、肩をすくめながら苦笑して見せる。
「本人がいなくて出来るものなのかの? 人族の考えることは分からん」
「全くですね。そもそもこのような事態になる前に対処していれば良かったものを」
「その通りじゃな。王子もわかっていただろうにのう」
女王二人はそろって呆れたように眉尻を下げる。
「効果があったことは嬉しい限りなのじゃが、直接影響があるとなるとバド様も巻き込まれてしまうかもしれん……。大丈夫かの?」
「バド様はエイク殿に心酔しておられますから、致し方無いでしょうね……」
「それはそうじゃろうが……。厄介なことにならねばよいがの」
ドロテアは自分の懸念を独り言ちたが、しかしそれに答えを返す者はいない。ヴェティペールも眉をひそめるのみで、それに対して言葉を返そうとしなかった。
ドロテアは何も答えを求めたわけではない。心配がつい口をついて出てしまっただけだ。
しかし返ってきたのが沈黙であり、空気も重くなってしまったことに居住まいの悪さを感じ、焦ったように取り繕う。
「と、とにかく、儂らはこのまま”すとらいき”とやらを続けるのみじゃな」
「そうですね。エイク殿の偉業を人族に認めさせることがきっと、バド様帰還の近道になることでしょう」
「何やらヴェヌスの奴は追っ手を放ったようじゃが」
「我慢ができなかったのでしょうね。バド様に追っ手をかけるなど、私達森人族にとっては不敬極まりないことではあります。ですが――」
「気持ちは痛いほど分かる、か……。そうじゃのう」
渋い顔をするヴェティペールに、ドロテアは頷いてその気持ちを肯定した。
この二人、趣味趣向のみでなく考え方も非常に似通っていた。そのためお互いの気持ちは手に取るように分かる。
ヴェティペールの浮かべる渋面に思うところがあるドロテアは、悩ましげに溜息を一つ漏らした。
本来であれば、二人は戦後落ち着いた時を見計らい、バドを連れて里へと凱旋するつもりだったのだ。
しかしエイクの行動が早すぎたことで、完全に機を逸してしまうことになってしまった。
それ故に、躊躇なく追っ手を放ったヴェヌスの胸中を、彼女達はまるで我が事のように共感できてしまっていた。
その一方で、数年ではあるがエイクの部下として戦列に加わっていた森人族達は、彼に情が完全に移ってしまっており、この度のエイクを排斥するような騒動を面白くないと考えている者が非常に多かった。
そしてそれは、この女王二人もまた同様に抱く不満でもあった。
そのため、エイクの汚名返上とバドの帰還、そのどちらも果たすことが出来る可能性のあるストライキに踏み切ったのだ。
「まあ効果は出ておる。じゃからこそ王子も決断したのじゃろ。我らはしばしの間、機を待つことにしようぞ。何、バド様やエイク殿のことじゃ。多少のことではどうともならんのは明らかじゃ」
「不安を煽るようなことを言ったのは貴方でしょうに……もうっ」
「す、すまぬ。お主の前じゃとつい口が軽くなってしもうての。許せ」
「……ふふっ。ええ、許しましょう。その代わり明日も何か、お願いしますね」
ヴェティペールの視線の先を追えば、マドレーヌを入れていたバスケットが映る。しかしその中にはすでに何も残っていなかった。
食べきったことに気づかなかったドロテアは空っぽのバスケットを見て目を見開いた。
そのままの表情で対面の彼女にも視線を移すが、にこにこと満面の笑みを浮かべるヴェティペールに段々と笑いが込み上げ、ついには肩を揺らし始めた。
「やれやれ、ヴェティには敵わんの。承知した。楽しみにしておれ。次も腕によりをかけようぞ」
心配事はあるものの、既に行動を起こしている森人族らは動かず王都にて時を待つ。
そして雑談に花を咲かせながら、今日もこうしてお茶を楽しみ時間を潰すのであった。
「エイク殿に爵位を授けることが、吉と出るか凶と出るか。……願わくばトゥドゥカス神のお導きがあらんことを」
ドロテアはポツリと信仰する神への祈りを口にする。
その呟きは今度は誰に届くこともなく、レモンの香りと共にふわりと空へと溶けていった。