77.リリという少女
「ふぅ……」
がらんとした部屋にため息が寂しげに響く。昨日の朝までわいわいと騒がしかっただけに、その響きはリリの沈んだ気持ちを一層締め付けた。
エイク達とクルティーヌで別れたリリは、出立の準備をするべく宿舎へと戻っていた。
パーティを解消するに当たり、エイク達のパーティランクはCから冒険者のランクと同じEへと下がってしまっており、リリの場合は更にソロ冒険者へ逆戻りとなっていた。
本来であれば宿舎の利用は出来ないランクだ。しかし受付に聞けば、明日の朝までは引き続き借りても良いと言う。
なのでリリは、今日も同じ場所に泊まるつもりでドアをくぐった。
そして、暖かさの失われた部屋を目にして、どうしようもなく沈んでしまった。
「一人、かぁ……」
ぽつりと呟く。
一人。その言葉が意味することに、リリはどうしようもない寂しさを覚えていた。
故郷である青龍族の集落を出てからはや一ヶ月半。初めて見る人族の暮らしは見るもの全てが珍しく、一人であることを意識する暇がなかった。
その中でも特にリリの興味を引いたのは食文化だ。故郷とは全く違う食事に、リリは心奪われてしまっていた。
”食事は美味しいもの”。それを初めて知ったリリは、すぐに必要の無い物は全て売り払い、セントベルに来るまでの道中、食事を楽しみながら足取りも軽くやってきた。
何もかもが新鮮で、寂しさを感じる時間など一切ない旅だった。道行きも順調で、何の問題も起きなかった。
だから気が緩んでいたのかもしれない。ここセントベルに来てから、そんな旅の風向きががらりと変わった。
食事を楽しみすぎてしまい路銀が心許なくなった彼女は、手っ取り早く稼げそうだと冒険者ギルドの門を叩いた。実力に自信があったこともあるが、半分以上は好奇心だった。
だが彼女は忘れてはならない大切な事を、浮かれ気分ですっかり忘れていた。自分が龍人族である、というその事実をだ。
いかに冒険者と言えど普通の人族の人間である。龍人族と知って腰を抜かす者、震えだす者、酷いときには悲鳴を上げながら逃げ出す者もいたほどだ。
その行動一つ一つが高揚していたリリの心を沈ませ、現実へと引き戻す。自分に対する人族の反応が、リリの浮かれていた胸に深々と刺さることとなった。
――人族と龍人族が分かり合うことは無い。
故郷で言われていた言葉が脳裏を過ぎる。リリはその言葉の意味を、故郷から遠く離れた場所でたった一人噛み締めていた。
ここより北東、ゼーベルク山脈にある霊峰の一つ、ドゥルガ山の中腹にリリの故郷はあった。
ドゥルガ山は非常に雪深い上凶暴な魔物が多く、人間が寄り付くことも無い、まさに魔境である。なぜ青龍族がそんな場所に居を構えているのかと言うと、ひとえに三百年前の聖魔大戦で敗走した彼らが、人族の目から逃れようとした故の結果であった。
それ以降、人族の動向を調査する間諜以外、山を降りる者はなく。青龍族は人族との関わりを完全に断ち、ずっと暮らし続けてきた。
”人族は信頼できない”。
これは青龍族の総意であった。それ故、彼らが山を降りようなどと思うことは一切無かった。
三百年の長い間も、そしてこれからも。誰も口にはしないが、ずっとそうであると、皆が心の奥深くで固く思い、またそうあるべきと信じていた。
しかし、これからも続いていくはずだったその指針は、五年前の事件によって大きく揺さぶられることとなった。第二次聖魔大戦である。
間諜より戦争勃発の報告を受け、青龍族は王都の近くに監視を送り、人族と魔族の動向に目を光らせた。人族が魔族によって滅ぼされるか。それともまた人族が魔族を退けるか。
ただ、行方を注視しつつも、結果がどうあれ青龍族は静観を貫くつもりだった。
しかしその一年後、またここで事態が動く。
白龍族が人族に手を貸し、聖魔大戦に参戦したのだ。
これには青龍族達の意見も割れた。同じ龍人族同士、手を取り合うのは必然。しかし人族が関わっている以上、白龍族が何らかの陰謀に巻き込まれている可能性もある。
年嵩の行った者は人族から白龍族を開放すべしと唾を飛ばし、若者はすぐにでも参戦すべきと青筋を立てる。
議論は白熱を極めたが一向に結論は出ず、堂々巡りのままで。
どちらにせよ情報は必要との意見が採用され、密偵を王都に潜伏させもしたが、結局結論を出せず、その間に王国の連合軍が魔族軍を押し返し魔王を再封印してしまった。
青龍族はもめにもめた。白龍族が関わっていることを知っていながら、それを見送ってしまった。それは彼らにとっては由々しき事態だった。
信頼というのは、龍人族にとっては重大な意味を持っている。それは同胞と認めるということ。必要となれば命すら投げ打つことも厭わないと宣言するのと同義であった。
恐らく白龍族は王都に潜伏させていた青龍族には気づいていただろう。と言うことは、青龍族は気づいていながら駆けつけなかったと認識されているはずだ。
これは龍人族同士の信頼に大きなヒビを入れるものであり、極論で言えば白龍族と袂を分かったことと同じ意味すら持っていた。
龍人族の中でも青龍族はのん気――いや、穏やかな気性であり、そのためか同族に対する仲間意識が非常に高かった。
しかし、穏健ゆえに石橋を叩き過ぎ、叩いている間に全てが終わってしまった。
この不始末をどうつけるかまたもや議論が白熱するが、それもまたすぐには決まらず、時間だけがいたずらに過ぎようとしていた。
これに激昂したのが、参戦すべきと主張していた若者達の代表として立つ、青龍族の当代の巫女である、青龍姫だった。
いつまでも遠回りばかりしようとする者達に業を煮やし、ついに強行手段に踏み切ったのだ。
「もはや一刻の猶予もありません! これ以上白龍族の心象を悪くする前に白龍姫様にお会いしなくては、申し訳が立ちません! 何より青龍族の沽券に関わります!」
そう言い残し、皆が引き止めるのを振り切って、青龍族の秘法水鏡乃杖を手にリリは故郷を飛び出してきたのだった。
だが結果はどうだ。腰の重い重鎮達に啖呵を切って杖を手に飛び出してきたはいいが、浮かれすぎてお金を使い込み、冒険者になろうと町に留まれば水鏡乃杖も盗まれてしまった。
しかも頼れる人もいない。青龍姫として慈しまれ育ってきたリリにこの状況は重くのしかかり、しっかりしなければと思う反面、その心は酷く塞ぎ込むばかりだった。
(やっぱり、人族と仲良くなるのは無理なんでしょうか……)
変な受付に何度目かのパーティを斡旋されながらそんなことを思い始めていた、そんな矢先。リリは彼らと出うこととなった。
「君、人族じゃないだろう」
その時出合った彼、カーテニアと言う変な名前の男の一言から、リリの心はまた変わっていった。
「それを言うなら信頼って言って欲しいところだなぁ」
人族でも、龍人族が信頼に足る人がいるのではないか。
「貴方様、そんなことよりも、今日はリリさんの歓迎をどこでやるか調べましょう?」
「さんせー! ねぇねぇリリちんは何が好き!?」
だって、こんなにも他の人種と仲が良く、信頼し合っているじゃないか。他の種族のことも思いやれるじゃないか。
「よっしゃ! まずは配膳ワゴン作って、それから戦車作るぞホシ!」
「おぉー! 戦車!? 面白そう! 作ろう作ろう!」
ちょっと変なところはあるけれど――
「……歳をとるとな、涙もろくなるんだよ」
他人の不幸を悲しみ、助けたいと手を差し伸べる。青龍族と何が違う?
彼らと関わり、気が付けば。いつしかリリの冷え切った心は温かさを取り戻していた。
彼らを仲間として認めると同時に、自分も仲間として認めて貰いたいと思うようになった。だからこそ、自分の実力が足りず、足手まといになりそうだとクルティーヌに残ったときは、自分の判断ながら悔しさに唇を噛んだ。
結局自分は彼らの仲間足りえたのだろうか?
そんな思いを抱えたまま彼らと別れることになったリリは、胸に去来する感情を整理できずに、また深いため息をついた。
「……まずは連絡しないと」
そう言いながらリリは杖を両手で握る。
「水の精霊よ、水面鏡に映りし現世、我が双眸の縁を再びここへ……”泡影の水鏡”」
落ち着いた声が部屋に響くと、水鏡乃杖の先端に着いた宝玉が柔らかな光を湛える。
そして――
《ひ、姫さまぁぁぁぁぁ!?》
けたたましい声が部屋全体を振るわせるほどに響き渡った。
「じ、爺、ちょっと静かにして――」
《姫様! 今までなぜ連絡して下さらなかったのです!? 爺は心配して――》
《おい! 姫様だってよ! こっちこっち!》
《姫様だとっ!? 見せろ見せろ!》
《どうしたどうした!? 何があった!?》
《姫ちゃん元気にしとるかー!? 儂ゃ元気じゃ! まだ死んどらんぞーッ!!》
《おいクソジジイ退け! 姫が見えん! テメェは心配しなくてもまだ死なねぇよ!》
《退くのはあんただよ! でかい図体して邪魔なんだよ! 向こうに行きな!》
《主らやかましいわーっ! 儂が話しとるんじゃ! 黙らんかバカタレめがーッ!!》
宝玉にはリリの世話役であった爺のどアップが映ったがそれも束の間のこと。すぐに押しのけられ、向こうは押し合いへし合い殴り合いの大混乱となった。
その状況に諦めたようなため息をつくと、リリはすうと息を吸う。そして、
「うるさーーーーいッ!!」
突如として騒がしくなった部屋にリリの一喝が轟いた。
《ひ、姫様……》
「連絡しなかったのはすみませんでした。でもそれにはちょっと理由があって……。説明するから。皆静かにしていて?」
《分かりましたじゃ。皆、よいな?》
《おうッ!!!》
「だから静かにしてって……もうっ」
結局静かにしない皆に文句を言うものの、言葉とは裏腹にリリの顔には笑みが浮かんでいた。
水魔法の最高峰、特殊魔法の一つ、”泡影の水鏡”。水鏡乃杖の宝玉を利用してのみ発動が出来る、青龍族の秘術である。
水鏡乃杖の宝玉には対となるもう一つの宝玉がある。この二つの宝玉には双方での会話を可能にすると言う特異な力があり、龍神に認められた者のみがその力を操ることができると伝えられていた。
なお発動時は会話のみならず映像も映し出すことが可能である。現在の技術では到底成し得ない貴重なものであった。
だがそれもそのはず。その宝玉の由来を知る者はもういない。だがそれは、太古の昔に龍神サリトゥーアが己の目をくり貫いて作り出した神石――神の力を内包する物質――である。神の御業によって作られし秘法が人間の及ぶところではないことは瞭然だった。
ちなみに風の神剣である”風神の稲妻”もまた、風の神フェーデルの左腕を引き裂いて作り出した物で、あの妙な俗っぽさはともかく、あちらも紛うことなく神石である。
つまりその宝玉は神剣と同等の、まさしく神に賜りし秘宝であったのだ。
右目と左目、二つの宝玉は、すでに世に無き世界樹、ユグドラシルの枝より削りだされた二本の杖にそれぞれ収められ、青龍族の秘宝として厳重に保管されていた。
なお、これは青龍族に限った話ではなく、龍神サリトゥーアの作り出した秘宝は、各龍人族に一種ずつ下賜されている。龍人族達はそれらを古より祀られし秘宝として、厳重に扱ってきた。
そして、その事実は龍人族であれば誰もが知っている話。つまり厳重に保管されるはずの秘宝を持ち出すことによって、己が間違いなく青龍族の代表であることと、白龍族への誠意と友好を示すという二つの意味を持っていたのだ。
そのため青龍族の秘宝を取り戻すということを差し置いても、リリはこの杖を取り戻すまでどうしても王都へ向かうことが出来なかったのだ。
「――と、言うわけなんです」
《おおおおッ!!》
リリはこの町に来てからのことを余すことなく皆へと説明した。
杖を盗まれたことを話したときは流石に騒然としていたが、とある人間達と出会い、森の魔物達を倒したり、町の薬不足解消のために薬草を集めたり、町を脅かす不届きな盗賊団を殲滅し杖を無事に取り返せたことなどを話すと、青龍族達はそれはもう一気に沸き立った。
娯楽がまったくと言っていいほどない彼らは、かぶりつく様にリリの話に夢中になった。
それに気をよくしたリリの口からは、壮大な盗賊討伐劇が紡がれていく。気付けば、百人を超える大盗賊団を完膚なきまでに打ち倒したという大団円になっていた。
青龍姫と言えどそこは人間。しかもまだ少女である。調子に乗って話を盛る、なんてことがあっても仕方の無いこと。
更に言えば、なぜあんなことをと、後で頭を抱えるまでが様式美だった。
《姫様。杖を取り戻せたのは大変宜しいのですが……迂闊すぎますぞ》
「そうですね……。それは反省しています」
《ジジイも興奮して聞いてたくせに何言ってんだか……》
《そ、それとこれとは話が別じゃ! 儂がお諌めしなければ誰がするんじゃ! お主らはいっつも姫様を甘やかしよって! 死ぬに死ねんわい!》
「わ、分かったから。爺、落ち着いて」
《むぅ……。まあ姫様も十分反省されておるようじゃし、もう申しませんわい》
そう言うと、爺の口調は柔らかくなる。リリのことを叱りながらも心配していることを隠さない彼の気持ちが、今のリリには嬉しかった。
《それでいつ白龍姫様とお会いになる予定ですかの?》
「ここから王都へは六日程度で着くようです。すんなり行けば一週間くらい後ですね」
《そうですか……。姫様、相手も姫様と同じ龍人族の姫。決して粗相の無いよう――》
「もうそれは分かりましたから! 大丈夫です!」
旅を始めてからと言うもの、話の終わりにはいつもこれである。気遣いは嬉しいが、流石に同じ話を何度もされては敵わない。
さっさと話を打ち切ると、リリは宝玉に込めていた魔力を離散させ、半ば無理やりに会話を終える。宝玉に映っていた、狭苦しく顔を寄せ合う人々の姿が、ふっと泡沫のように目の前から消えていった。
「ふぅ……」
少々話が盛り上がりすぎ、魔力も時間も使い過ぎた。しかしあんなに熱中されるとは思わなかったと、リリはくすりと笑う。
久々に感じられた故郷の暖かさに、リリの頬は優しく緩んだ。