63.暗中飛躍
警戒しながら静かに歩く。俺の存在を示すのは、草を踏むかすかな音。それだけだ。
だというのに、そんな少しの音がどうにもうるさい。そう感じてしまうほど、今この森は音というものに無縁だった。
日はとうに沈み、闇が周囲を覆いつくしている。青白い月の仄かな明かりも枝葉に拒まれ、森の中は昼にも増して濃い闇と静寂に覆われている。
だがそんな闇は、不気味さを感じるどころか、あまりにも静かで心地よさすら覚える。不思議と心は落ち着いていた。
つい緩めそうになる緊張感に気をつけながら、俺は一人ランタンの明かりを頼りに、闇を掻き分けるようにゆっくりと森の中を進んでいた。
ここは町を西から出て、十分ほど歩いたところにある森の中。
町から見て、採集に向かっていた北東の森とほぼ逆方向にあるこの森は、カリンから聞いた話では、魔物も殆どおらず比較的安全な場所なのだそうだ。
そのため、三人には部屋に残ってもらった。カリンだけ部屋に残すわけにもいかないし、一人のほうが人目を避けるのに都合がよかったからだ。
そのことにスティアは最後まで渋っていたが、どうやら杞憂だったようだ。
森に踏み入ってから五分ほど歩いたが、彼女が危惧するような気配はまったく感じられず、辺りは静かなものだった。
(この辺りでいいかな)
足を止め、再度周囲の気配を探る。そして静けさ以外に何もないことを確認すると、俺はトントンと地面を足で軽く叩く。
すぐに地面から湧き上がるように、五つの影が姿を現した。
五つの影は周囲の様子を確かめるように、きょろきょろと頭を動かしながらヒクヒクと鼻を動かしている。
そんな中、影の一つがゆっくりとこちらへと踏み出し、そして俺の目の前で足を止めた。
「エイク殿……」
その男――ガザは俺の顔をじっと見つめると、ゆっくりとその頭を垂れた。
「エイク殿のおかげで、こうして生き長らえる事ができた。改めて礼を。本当に……。本当に、感謝する」
その様子を見て、俺は驚きに目を丸くした。
ガザが意識を回復していることについては俺も知ってはいた。
だが自分の目で初めて確認してみて、彼が思っていたよりもずっとしっかりとしていて驚いたのだ。
自分の両足で地面をしっかりと踏みしめ、ふらつくこともなくすっくと立っている様子は、生命力に満ち満ちている。
ついこの間まで意識が朦朧としていた病人とは思えない。魔族だからこんなに頑健なんだろうか。
「……もう大丈夫なのか?」
「ああ、問題な――」
「いえまだダメです」
俺の問いにガザはコクリと頷きかけるが、それにロナが待ったをかけた。
「ガザ様にはまだ療養が必要です。少なくともあと一週間くらいは休んで頂かないと、また倒れてしまいますよ!」
「いや、大丈夫だ。この通りもう血も出て――」
「それはスティアさんの血止めが凄いからです! 治癒したわけじゃありませんからね!」
「う、うむ……」
「まだ痛みもあるはずです! 絶対にダメですよ!」
こういうときの女と言うのは非常に強いものだ。あの普段ぽやんと――いや、柔和なロナでさえ、舌戦でガザを圧倒している。
結局ガザの肩はしょんぼりと落ち、ピンと張っていた尻尾もしなりと垂れた。
ロナの圧勝だ。強い。
「大将」
二人の様子を見ていたところ、不意に声がかかる。そちらへと振り向くと、オーリ、コルツ、そしてデュポの三人が並んで立っていた。
彼らの姿は初めて会ったときのような野生児のような姿ではなく、ある程度文明を感じられる人間らしい見た目に変わっている。
伸び放題でボサボサだった髪の毛は、オーリとデュポは短めに。コルツは首元で切りそろえられている。先ほど声をかけてきたガザも短くなっており、ロナも肩にかかる程度までバッサリと切っていた。
服も人族の着る一般的なものに着替えており、ボロ布姿から卒業を果たしている。
最初は男も女も分からないような様相だったが、見た目を整えるだけで随分違うものだ。
ちゃんとした服装の今、ロナやコルツの体つきがガザ達とは違い、女性らしい丸みを帯びた曲線を描いてもいることも分かる。少なくとも今、彼女らを男だと間違う者はいないだろう。
さて。声をかけてきた三人の手にはまた、思い思いの武器が握られている。以前貸した時と同じく、オーリは槌、コルツは両手剣、そしてデュポは双剣だ。
声をかけたのは向こうなのだが、彼らは俺の言葉を待っている様子。なので俺は三人へと向き直り、彼らへと口を開いた。
「悪いが、この辺りの捜索を頼む。俺の≪感覚共有≫は切らないでおくから、見つけたら教えてくれ」
「承知した」
「任せて」
オーリとコルツが端的に返事をする。
「くれぐれも誰かに見つからないようにな。後、俺達は町から出られないだろうから、悪いが食い物は自分で調達してくれ」
「心配いらねぇぜ! なんせ森暮らしが長――」
「それ以上言わないで」
デュポの顔の前にさっと手を出して黙らせるコルツ。ギロリと鋭い視線を向けられ、ピンと張っていたデュポの耳と尻尾がしなしなと垂れ下がってしまった。
あの洞穴を出てからまだ二週間と経っていない。当時の生活を笑い話にするにはまだ時間が足りなさ過ぎるはずだ。コルツのこの反応もしょうがない。
見かねて俺がフォローしようかと思ったが、すぐにオーリがなだめ始めたため、特に悪い雰囲気になることも無く終わった。
元からか長い隠遁生活からかは分からないが、それぞれの役割分担が三人の間で自然にできているようだ。三人のまとめ役のオーリ。ムードメーカーのデュポ。コルツは……えっと……ツッコミ?
……うむ。まあそんなことはどうでもいいか。誰に見られるか分かったもんじゃないし、さっさと話を済ませてしまおう。
「そうだな、あとこれを渡しておく」
「これは?」
「もしお前達が誰かに見つかったときに使えそうな道具だ。えっと、これが――」
シャドウから受け取ったものをポンポンと彼らへ手渡してく。使い方を教えると、オーリとコルツは難しそうな顔をするが、デュポは面白そうに話を聞いてくれた。
意外だが、こういうのはデュポが向いているのか。とりあえず全部デュポに渡してしまおう。道具は背嚢に押し込んで、デュポに押し付けた。
「よし、それじゃよろしく頼む。ロナ、ガザ。そろそろ戻るから中へ入ってくれ」
「待ってくれ、エイク殿」
二人だけで話をしていたガザとロナ。帰ろうと声をかけると、ガザから待ったが入った。
「どうした?」
「捜索には俺も加わる。ロナだけ連れて帰ってくれ」
「ガザ様!?」
ロナはとんでもないと目を丸くする。そんな彼女に顔を向けることも無く、ガザは俺の顔をしっかりと見据えた。
こちらに恩義を感じているからこその発言だとは思う。だが、気持ちはありがたいが、流石に彼を看病し続けていたロナに意見を聞かなければ、安直に頷くわけにも行かない。
「俺としては手があるのは助かるが。ロナ、どうなんだ?」
俺が聞くと、ロナはへにゃりと丸い耳を垂らした。
「……私は反対です。ガザ様の体はまだ回復しきっていません。今無理をしたら、また倒れかねません」
「大丈夫だ。無理はしない」
「ガザ様。でも――」
「頼む、ロナ。俺は……もう後悔したくないんだ」
何やら真剣な様子のガザにロナも口を閉じる。どうも事情がある様子だが、なんだろうか。
不思議に思いつつも、口を挟める雰囲気でもなし。黙って見ていると、しばらくしてロナは小さく首を横に振り、そして俺に向かって頭を下げた。
「エイク様、よろしくお願いします」
「いいんだな?」
「はい、多分私では……。お姉ちゃんだったらきっと、ガザ様も聞いてくれるんでしょうけどね」
「おっ、おいロナ!」
ぼつりとロナが呟いた愚痴にガザが慌てる。魔族でもかみさんに頭が上がらないとかあるのだろうか。
「まあ何事もなきゃ体に負担がかかるようなことにはならないだろうから、リハビリだとでも思ってやってくれればいいさ」
「はい。……そうですよね? ガザ様」
「信用ねぇな……。大丈夫だ」
ロナが念を押すように言うと、ガザは鼻筋に皺を寄せて答える。頭が完全に狼だからどういう表情なのかちょっと分からないが、たぶん口調から想像するにあれは渋面なんだろうな。
牙も見えているし、威嚇されているような表情でちょっと怖いが。
「さっきオーリ達にも言ったが、何かあったら教えてくれ。声は、自分が聞こえてさえいれば皆に伝わる。誰かに話さなきゃいけないわけじゃないから、そこは心配しなくていい」
これが≪感覚共有≫の面白いところだ。普通話をするなら、誰か相手がいなければ会話などできない。
だが聴覚を共有している場合、自分に話しかけても皆に伝わるのだ。誰かに話しかけないと皆に聞こえない、と勘違いされることも多いが、実際はそんなことはない。
「ふむ……。便利なものだ。これが王国軍師団長の実力か……」
「元、な。後方支援なら使いようがあるが、前線には出れなかったから胸を張れる様なもんじゃないさ」
「しかし戦場であれば――」
「おっと。お喋りはまた今度にしよう」
肩をすくめる俺だったが、ガザがまた口を開こうとする。だが長話ができる状況でもないし、俺は手で制して会話を終わらせた。
何か言いたそうな顔をするガザ。だが俺は気にせずに言葉を続けた。
「頼みたいのは盗賊のアジトの捜索と動向の監視だ。くれぐれも連中と事を構えないように気を付けてくれ。お前達が見つかった場合を想定して、こっちも誤魔化せるように対策をするから、見つかったとしても早まらないようにな。さっきデュポに渡した道具も状況に応じて惜しまず使ってくれ」
「分かった」
ガザが皆を代表して返事をする。
「ガザが入って四人になったから、基本的に二人一組で行動してくれ。どう振り分けるかは任せる。ガザ、武器はどうする?」
「俺は拳闘士だ。特に必要ない。最も、拳闘士用の武具があれば別だが――」
「あるぞ。ちょっと待て」
「え? あ、あるのか……」
あるんです。体術を用いた格闘戦も、勿論向いているかどうか試してみたことがあるのだ。まあ結果はお察しの通りだが。
腕が鈍らないよう鍛錬は続けているが、やっぱりいつまで経っても強くなったような気がしないのは、他と変わらず悲しいところだった。
「サイズの問題もあるからな、着けてみてくれ」
シャドウに出してもらったグラブとレッグガードをガザに手渡す。これは武具というより、どちらかと言うと手足を痛めないようにするための防具に近い。
威力を高められるように鉄が入っている部分もあるが、入れすぎれば重くなってしまうため、それも必要最小限だ。
だがそれでも、あると無いとでは安心感がかなり違う。本調子でないガザには当然、あった方がいいだろう。
ガザは俺から受け取ると、慣れたように装着していく。そして動きや装着感を少し確かめた後、俺を見てこくりと頷いた。
「良く使い込まれているな。……エイク殿も拳闘士なのか? いつか手合わせしてみたいものだ」
「いや、俺は拳闘士じゃない」
ガザの疑問に対し首を振る。俺はこれって奴がないからな。ごちゃまぜのごった煮みたいなもんだ。
「だがそれなりに手解きは受けたつもりだ。機会があれば俺からも頼みたいが、まずはちゃんと回復してからだな」
「ふ、分かった。楽しみにしている」
俺の言葉にガザが挑戦的にニヤリと笑った。ガザから一瞬闘気が立ち上った気がしたが、気のせいだっただろうか?
「気になったことがあれば随時相談してくれ。それじゃよろしく頼む!」
『了解!』
俺の号令に返事をすると、四人は森の奥へと駆けて行き、その姿を闇の中に消した。心配だったガザの調子についても、あの後姿を見た限りでは問題なさそうだ。偵察くらいなら差し支えないだろう。
「エイク様、腕に自信がおありなんですね」
そんなことを思いながら彼らの後姿を見送る。すると、すぐ隣にいたロナからよく分からないことを言われた。
不思議に思いそちらを向くと、くりくりとした目をこちらに向け、俺を見上げているロナと目が合う。
「え? 何でだ?」
「だって、ガザ様に本調子になってから手合わせしたいって仰ったじゃないですか」
なんだそりゃ。ロナの言いたいことが分からず首をかしげる。ロナもロナで、そんな俺の様子を見て首をかしげた。
普通、怪我人を相手に手合わせなんてできないだろう。怪我を治してからだ、というのがそんなに変なことだろうか。
しかしそれを聞いたロナは、なぜか凄く複雑そうな顔をみせた。
「他意は無かったんですか?」
「他意も何も……そのままだが?」
「たぶん、本調子じゃないと相手にならないって言われたと勘違いしたと思いますよ。ガザ様は」
「……なんで?」
「私にもそう聞こえましたけど……?」
俺の疑問に対し、毛でふわふわの眉の辺りを、への字に曲げたような……難しい表情をするロナ。戦う力のないロナにさえそう聞こえたってことは、魔族的にはそういう台詞だったんだな、きっと。
なるほど。だからそう伝えたときちょっと剣呑な感じになったんだな。そうかそうか。はっはっは。
……なんだかボコボコにされる未来が見えるんだが。
「もしかして挑発したと思われてる?」
「何だかすみません」
「何とかならない?」
「えっと、私からは何とも……」
ロナは自分の至らなさを詫びるかのように丸い耳をへなりと垂らしたが、結局取り成してはくれないようだ。義妹補正でなんとかならんかね? 無理? そう……。
ウソダポンポコポン……。
「とりあえず帰るか……」
「わ、分かりました」
最後の最後、人種の違いによる相互不理解で何だか妙に疲れてしまったが、それを振り払うように俺達は踵を返して歩き出す。
「でも……”災厄の予兆”なんて、一体何が起きようとしているんでしょうか……?」
ロナがぽつりと呟いた言葉は誰に返されることも無く、森の闇へと静かに溶けていった