39.パン試食
なんだかんだと予想よりも時間を食ってしまい、クルティーヌに戻ってきたのは二時間以上経った後だった。
店に入る際になんて言えばいいかちょっと迷ったが、無難に、戻りましたと少し大きめに声をかけて店内へと入る。
フードを脱いで待っていると、程なくして奥から駆けて来る足音が聞こえ、ユーリちゃんが慌てた様子で飛び出してきた。
「あっ! 戻ってきたぁ! 早く早く! こっちこっち!」
しまった、もう作業が始まっているみたいだ。真っ先にユーリちゃんの後を追って行ったホシの後に続き、俺もメモ帳を懐から出しながら駆け足で奥へと続く。
奥の部屋に入ると、作業台にはバドとシェルトさんが向かい合っており、丸めたパン生地に人差し指を差し込んでいるところだった。
「すいません、遅れました。どんな状態ですか?」
「大丈夫ですよ。今始めたところです」
シェルトさんはそう言いながらパン生地から指を引き抜く。ここから出た時よりもふんわりと丸く膨らんだ生地に、指を突っ込んだ跡がくっきりと付いてしまっている。
「これは何をしてるんです?」
「これは生地の状態を見ているところなんです。この穴がすぐ戻らなければよく膨らんだってことなんですって。この様子なら大丈夫だと思いますが……?」
シェルトさんがバドの様子を伺うと、ちょっと悩んだ様子ではあったものの、バドもこちらを向いてこくりと頷いた。
シェルトさんはそれを見てホッとした様子を見せたが、すぐに次の工程に入るため準備をし始めた。
ただ、シェルトさんの言葉にバドがすぐに反応しなかったのがちょっと気にかかる。たぶん何か気にかかることがあったんだろうが、まあ今それは置いておこう。
次に、二人はせっかく綺麗に膨らんだ生地を何故かまた潰してしまうと、何かの器具を使って十等分くらいにさっと分けてしまった。
その分けた生地を今度はまた丸め始め、丸くなった生地が二十個ほど出来上がった。
「さて、これを窯で焼いて……あ、あら? これも駄目?」
シェルトさんが窯へ向かおうとすると、またしてもバドからバツを喰らう。
バドは用意してあった布を手に取ると、少し水で湿らせて絞り、パンの生地にかぶせるようにふんわりと優しくかけた。
「これは何ですか?」
シェルトさんの質問に何とか答えようとするバドだが……改めて思うが、バドはジェスチャーが上手くないな。全然分からん。ボディランゲージに至っては怪しい動きを見せておりもはや不気味としか言えない。
一生懸命なのは伝わるんだが、肝心の意思が殆ど伝わってこないんだよなぁ……。
結局あまりの伝わらなさにふて腐れたのか、バドは仰向けで床に寝転がってしまった。しかし真顔なのがちょっとシュールだ。
「あ、もしかして生地を寝かせるってことですか?」
シェルトさんがはっとして口に出すと、バドが跳ね上がり頭上に大きく丸を作った。なるほど、やっと分かった。バドのあれは、人が寝ている様子だったんだな。ふて腐れているわけじゃなかったみたいだ。
しかし、シェルトさんもバドの扱いに慣れてきたような気がする。ここにバドを置いて出たのは、結果的には良かったみたいだ。
そのあとも作業が色々と続いた。
寝かせた生地をつぶしてまた丸めたかと思えば、今度はお湯を入れたカップをパン生地の中央において、パンごとカップに布をかぶせたバド。
どうやらパンの温度を上げるためらしい。その状態で二、三十分待つそうなのだが、俺はそろそろ外の様子が気になり始めていた。
「バド、これの次はまだかかるのか? もう夕方になりそうなんだが……」
思えば昼過ぎにパン作りを開始して、もう四時間以上経つ。もうそろそろ日が暮れてくるような時間だ。
実際にパンをいじっている時間はそう無いが、こういった待ち時間が結構あって時間がかなり取られてしまっている。まだかかるようだと日が暮れてしまうかもしれない。
そういえばまだ宿も取っていなかった。先ほど出たときにどこか予約して置けばよかったと今更だが後悔していた。
宿泊先について心配する俺に対して、バドは首を横に振ると、部屋の壁に設置された窯を指差す。ここでやっとパンの焼きに入るようだ。
ということは、パンを作るのには四時間半くらいかかるってことになるのだろうか?
宿はそれからでも多分間に合うだろうから、そちらは一先ず安心だが。
しかしこれは、一日の売り物を朝から出すためには何時に起きれば間に合うんだろう。日が昇る前から起きないといけないような気がするぞ。
大丈夫なのかと心配になり横を見ると、シェルトさんはそんなことなど気にした様子もなく、ただただ緊張した面持ちで窯の方を見ていた。
……うん。確かにこれで駄目だったら店の存続が危ういからな。結果がどうなるか考えると、自然と強張ってしまうのも無理は無い、か。
だが俺は、その心配がきっと杞憂に終わるだろうと信じて疑っていない。その証拠に、バドに視線を移すと彼は力強く頷いていた。間違いなく大丈夫だ。
軍の猛者達を教育してきたバド先生の実力は確固たるものなのだ。決して侮ってはいけない。その瞬間ダストボックスにぶちこまれるからな。
俺の信頼を感じ取ったのかバドは俺から視線を外すと、窯に火をくべて暖め始めたシェルトさんの後ろに立ち、その一挙手一投足を確認するかのようにじっと見つめていた。
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「そ、それじゃ開けます!」
パンを窯に入れ暫く経った今、窯の前でシェルトさんは誰に向かってかそう宣言した。
彼女も緊張が最高潮なんだろう。俺達は茶々を入れることも無く、黙って後ろに控えていた。
ユーリちゃんは祈るように手を組んでぎゅっと目をつぶっている。その様子をシェルトさんはちらりと見ると、ごくりと唾を飲み込んでから、意を決したように窯に手をかけた。
シェルトさんは中の様子を確認すると、オールのような長い棒状の木の板を中に入れ、それにパンを乗せて一つ一つ取り出していく。
取り出されたパンはふっくらと焼きあがっていて、言っちゃ悪いが昼に食べたパンとは別物のように輝いて見えた。
「ふぁ~っ! いい匂い!」
「本当、いい匂いですわ!」
「ああ、美味そうだ!」
「凄い! まん丸! 美味しそう!」
取り出されたパンを囲んで、美味そうとの歓声が次々と上がる。
特に自分が作ったわけでもないが、立ち会ったせいか嬉しさがこみ上げてくるな。この美味そうな良い匂いも後押ししているのかもしれない。
突然、くぅ~っと気の抜けるような音が響く。何かと思えばユーリちゃんの腹の虫だったようで、当の本人が恥ずかしそうに俯いていた。
この匂いを嗅いだら腹の虫が騒ぎ出すのもしょうがないか。
シェルトさんが窯に入れた全てのパンを出し終わる頃、ふとバドがいないことに気づいた。目で探すと、部屋の外から彼が手招きしているのが見えた。
不思議に思いそちらに行ってみると、昼に俺達がついていたテーブルに、スープらしきものが人数分、トレイに用意されているのが目に入った。昼に出された豆のスープのように見えるが同じものだろうか?
「皆さんが冒険者ギルドに行っているときに、スープの作り方も教わったんです。そのときに作ったものですが、良かったらこれと一緒に」
スープを見ていた俺に、奥から出てきたシェルトさんが疑問に答えてくれた。
彼女は手にトレイを持っており、その上には先ほど焼かれたばかりのパンがこれまた全員の分乗っている。
「リベンジ、というわけですね」
「は、はい。試食をお願いします。本当は粗熱を取ったほうがいいのでしょうけど、焼きたてですし、よろしければ是非」
先ほどから焼きたてのいい匂いが鼻をくすぐっているのだ、是非もなしというものだ。むしろありがたいくらいだろう。
ホシなんかユーリちゃんと歓声を上げながら小躍りしているもんな。その申し出は快く受けさせてもらうことにしよう。
シェルトさんがトングで各人のトレイにパンを配っていく。俺達四人分のほかに、シェルトさんとユーリちゃんの分、合わせて六人分だ。
「熱いと思いますから、気をつけて食べてくださいね。では……!」
皆が席に着いたのを見計らい、シェルトさんが最初にパンへ手を伸ばす。
それを見て、ユーリちゃん、ホシと続き、バド、スティア、俺が手を伸ばしたのはほぼ同時だった。
パンを手に持った感触はかなり柔らかく、力を込めればたやすくぺしゃんこに潰れるのが分かるほどだ。
ただ、焼きたてだからかなり熱い。そのままかぶりつくと火傷しそうだ。
少しでも冷まそうと手で割ると、中から湯気がぶわりと噴き出し俺の顔にふわりとかかった。
不意打ちに思い切り吸い込んでしまったが、これまた非常にいい匂いで、かすかに甘い香りもした。
匂いに我慢ができなかったのか、早くくれとでも言うかのように、きゅうと耳の下に痛みが走る。
俺は火傷しないようそこから更に小さくちぎると、少し息で冷ましてから口の中へと放り込んだ。
昼に食べたパンはずっしり重くぱさぱさとした、お世辞にも美味しいとは言えない物だった。奴は、お世辞を言いながら生まれてきたと言われたこの俺ですら無言になるほどの凄まじい難敵だった。
だがしかし、これは――
「おいひい!」
「うん! おいひい!」
ホシとユーリちゃんが、熱いだろうに口いっぱいに頬張り目を輝かせた。
美味い。少しさっくり感があるが柔らかさは十分あり、中もしっとりとしていてパサつきは全く無い。
それに先ほども感じた仄かな甘い香りが口の中に広がり、かみ締めるごとにふわりと香るのもまた非常に良い。
「美味いな。うん、月並みな感想しか出せなくて何だが、凄く美味い」
「本当に美味しいですわ。この甘い香りはリンゴですわね」
スティアの指摘にバドは頷いて肯定を示す。ああ、あの謎のイーストとか言うものにリンゴを使っているんだったか。この甘い香りはそれか。
気がつくと既にパンを殆ど食べてしまっていたため、スープで喉を潤す。こちらも豆と芋の甘さが出ていて、えぐみも全く無く非常に美味しい。
うん。これなら十分店のメニューとして出しても問題なさそうだ。これならまた食べたいと思わせる美味さがある。
「シェルトさん、これなら大丈夫だと――」
声をかけながらシェルトさんの方を見ると、彼女はパンを両手で持ちながら深く俯いていた。
肩がわずかに震え、ポタポタと雫が滴っている。声をかけた俺が言葉を飲み込んだからか、皆がシェルトさんの様子に気づき、先ほどまでわいわいと騒がしかったのが嘘のようにしんと静まりかえった。
「バドさん、皆さん。本当に、なんて言ったらいいのか――」
そこまで言うと、シェルトさんはエプロンで顔を拭い顔を上げた。こちらを向いた顔は、それでもまだ目に涙を湛えている。その表情も、込み上げてくる感情が溢れないように懸命に我慢しているように見えた。
ああ、駄目だ、このシチュエーションは。シェルトさんは下唇を軽く噛み懸命に堪えているが、俺の方が堪えられなさそうだ。
「い、いやっ、いいんですよ! こちらからおせっかいを焼いたわけですし! なっ、バド!? これなら大丈夫そうだよな!?」
ちょっと空気が読めないかもしれないが、シェルトさんの言葉を遮ってバドに振ってしまおう。バドも、えっここで振るの? と言った様子で俺にパッと顔を向けたが、頼むから助けてください。
本人が堪えているのに第三者のおっさんが堪えきれず泣くとか、絵面的に汚すぎるから。
俺から無茶振りを受けたバドは形のいいアゴに手を当てて少し考えた後、シェルトさんの方をゆっくりと向いた。
その視線を受けたシェルトさんも、緊張した面持ちでごくりとつばを飲みこむも、それを正面からしっかりと受け止める。
あれだけダメ出しをくらいながら作ったのだから、どんな評価がくるか確かに不安だろう。でも、これだけの出来のパンであれば店に置くには何の問題も無いと、少なくとも俺は思う。
それにこう言ってはなんだが、ダメ出しをしながらもバドの指摘のもと直しながら作ったわけであるし、ここでバツを出すと自分の指導に至らない点があったと認めるということにもなるのだから、バドもバツは出せないだろう。
そう考えればマルが来るのは間違いなかった。
さてその判定であるが、俺のせいでバドに注目が集まる中、しかしてバドの出した結論はというと――
サンカク!
「さ、サンカクっておま……はぁっ!?」
予想外にもそれはサンカクだった。予想していなかった評価に、つい机から立ち上がり素っ頓狂な声を上げてしまった。
しかしそんな俺にも、バドはビシッと両手で作ったサンカクを突きつける。
「この出来に納得がいってないってのか……?」
俺の問いにバドはこくりと頷く。ということは、何か?
「まだやろうって言うのか?」
またしてもこくりと頷く。
えぇ……と、すかしっ尻みたいな情けない声が出てしまった。
これだけ美味いのに首を縦に振らないなんて、こだわりが過ぎるだろうが。
シェルトさんなんて石みたいに固まっちまったぞ。
そんな俺達を尻目に、バドは俺の手元に置いておいたメモ帳をすばやい動きでさっと取ると、もはや決定事項と言わんばかりに早速その工程を確認し始めた。目が凄いスピードで左右にきょろきょろと動いているのが見える。
どうやらバド先生の指導はまだ続くことになるようだ。この調子だときっと、明日明後日では終わらないだろう。
火が付いたバドを止められる者は、今この場には誰もいなかった。