348.懐かしの我が家へ
空が茜色に染まり始めた頃、俺は自分が使っていた家――つまるところ、天秤山賊団の頭目が使う家の前までやって来ていた。
俺はドアを開けながら、顔だけ後ろを向いて言う。
「綺麗な所じゃねぇが、まあ上がってくれ」
「お、おおおおおお邪魔しますわっ!」
上ずった声を上げるのはスティアだ。何を緊張しているのかと苦笑してしまう。
なおここにバドはいない。ここに向かっていた際に、俺達の傍を夜の準備をしている連中が通りかかったのだが、それが食事担当の奴らだったため、バドが手伝うと言って付いて行ったのだ。
俺達の歓迎のための宴なのだから放っておけばいいと言うのに、律儀な奴である。とは言え思うようにすればいいと、彼とはその場で別れており、そのため俺はスティアだけを連れて、こうして家まで来たと言うわけだ。
この家は山賊共が集まって話し合いをするような事もあるため、他の連中の家より大きく作られており、一階は十人以上入っても余裕があるくらいの広さがある。
また他の家は平屋だが、この家は一応二階がある。……とは言えそこは屋根裏部屋みたいなもので、今は物置のようになっている場所だった。
まあ大きく作られていると言っても、王都に立ち並ぶ家と比べれば掘っ立て小屋の域を出ない、みすぼらしい家である。だが俺からすれば物心ついた頃から過ごしていた、生家のような場所である。思い入れは人一倍あった。
開いたドアから中へ入っていく。そこにあった光景は五年前と何も変わっておらず、俺は不覚にも感動を覚えていた。
部屋の隅に置かれた、少しがたついた大きな木のテーブル。そこにある八つの椅子は年季が入っていて、テーブル同様くすんだ色をしていた。
木と土の匂いが混ざり合う、野暮ったくも懐かしい匂い。よくここで皆が集まって、床に座り込んで夜通し話をしたものだ。
義理の息子や娘達も俺と一緒に暮らしていたが、今はいないようでがらんとしている。五年も経って、あいつらももう大人になった。アジト内にはいなかったし、大方縄張りを守るため巡回にでも行っているんだろう。時が経つのは早いものだ。
「ん? あれは――」
そんな事を思いつつ部屋の中を見ていると、部屋の一角、奥の隅に、見慣れないものがあるのに俺は気づいた。
それはぼろきれを集めて作った寝床と、小山になった草や木の皮、そしてその真ん中にでんと丸くなる、大きな一つの毛玉だった。
「ソエラ?」
俺がそう口にすると、そいつは耳をピクリと動かして、緩慢な動作でこちらに顔を向ける。顔の真ん中にある鼻が、返事をするようにヒクヒクと二回動いた。
こいつはソエラ。見ての通りホーンラビットだ。だが俺にとっては他の兎達とは違う、少々特別なホーンラビットだった。
「この子がここで飼育して……いえ、その。お飼いになられているホーンラビットさんですか?」
「なんだよお飼いになられてるって」
妙な言葉遣いをするスティアを笑いつつ、俺はソエラに近づいて頭を撫でる。ソエラはその場に丸まったまま、大人しく撫でられていた。
先ほどホーンラビット達がいる場所に行ったのは、俺にとってはこいつに会うためでもあった。だが姿が無かったため自分の家に帰る判断をしたのだが、道すがらアジトの連中を捕まえて聞いてみたところ、どうやらソエラは今俺の家へ連れて行っているとの事だった。
理由を聞けば、どうも最近はあまり動かず、じっと丸くなっている事が多かったとの事。エサはよく食べるため病気では無いようだが、最近寒くなって来た事もあって、心配になった奴らが連れ込んだらしい。
「連中どこか悪いんじゃないかって心配してたが、もう年かもなぁ。こいつ、もう三十超えてるから」
「さ、三十超えですか!? それはまた、何と言うか」
「驚くだろ? 俺もだ。こんなに長生きするとは思わなかったよ」
俺はその場に胡坐をかく。するとソエラはむくりと起き上がり、ゆっくり歩いて俺の足の間に入って丸くなる。
全く、あの暴れん坊がこんなに落ち着きやがって。体を撫でてやるとソエラは目を細くしてゴリゴリと小さな音を立てる。
そうしているとスティアが静かに近寄ってきて、俺の隣にそっと座った。
「そういう目で見た事はありませんでしたが……こうして見ると、結構可愛いですわね」
「普通のウサギより厳つい顔してるが、まあそれも見慣れれば愛嬌だな」
「まあ。まるであばたもえくぼですわね」
スティアが可笑しそうにくすくすと笑う。ホーンラビットは骨太なせいか、普通のウサギよりごつい顔をしている。ただ見慣れればそれもユニークで可愛く思えるから不思議である。
会話が途切れ、しばし無言の時が流れる。ただそれは居心地の悪い沈黙では無かった。
だがそうしていると、色々と思い出が蘇ってしまう。いつの間にか俺の口は勝手に動いていた。
「こいつは俺がまだガキだった頃、ここに連れて来た奴でな。ここにいるホーンラビットの、最初の一匹だったんだ」
「この子が? というか、貴方様が連れて来たんですの?」
「ああ。山賊団がウサギ飼ってるなんて、普通に考えりゃおかしいだろ? 最初はいなかったんだよ。三十年くらい前に俺と……サティラが持ち込んだんだ。オヤジ達に頼み込んでな」
オヤジの珍しく困ったような顔を思い出しながら、その時の事を話し始める。あれは俺とサティラがアジトの外で遊んでいた時の事だった。
ガキだった俺は探検だとか言って、秘密の通路――アジトを囲う柵の一部が朽ちて開いた穴の事を、当時俺はそう呼んでいた――を通り、嫌がるサティラを連れて無断で外に出たのだが、そこで見つけたのが弱ったソエラだった。
腹を空かせた俺は食い物になるかと思って近づこうとしたが、しかしサティラはソエラを殺す事を非常に嫌がった。そればかりか、助けられないかなんて言い始めてしまう。
「エイクちゃん、だって、この子、このままじゃ死んじゃうよ……」
「わ、分かったって。ああもう、しゃーねーなぁ」
泣きそうなサティラに俺は参ったと降参し、ソエラを担ごうとガキなりに注意して近づいたのだが――
「抱き上げた途端こいつ暴れまくってな。その角でザックリ、この通りよ」
「えっ! その傷、ホーンラビットにつけられた傷だったのですか!?」
俺が右頬の傷を指差すと、スティアは驚きに目を丸くした。
そうだろう、ホーンラビットに消えない傷をつけられた人間なんて、俺だって聞いた事が無い。いたとしても隠すだろうな。なんたってウサギに付けられた傷なのだから。
笑い者になるだけだ。俺みたいな山賊なら尚更である。
だから俺も、誰にも彼にも言うわけじゃない。普段なら隠しておきたい恥ずかしいエピソードだからな。
ただ、どうしてか今は口が軽くなっていた。それにスティアにだったら話したところで、別に構わないと思ったのだ。
「後で知ったんだが、こいつら抱き上げられるのが滅茶苦茶嫌いでな。しかも当時は俺らに慣れてもいなかったんだ。暴れて当然なわけだが、でもガキだった俺は他に方法も思いつかなくてな。結局暴れるソエラを担ぎながら何とかアジトに駆け込んだんだが、ホーンラビットは暴れるわ、腕だの肩だのあちこち噛みつかれた俺は血まみれだわ、サティラは号泣するわで大目玉を食らってな。怪我の治療した後、オヤジには思いきりブン殴られたわ」
「何とまぁ……」
はっはっはと笑う俺に、スティアは言葉もない様子である。当時の大人達も困惑したような呆れたような、そんな顔をしていたものだ。
当時はそんな奴らの気持ちは分からなかったが、今となっちゃあ十分分かる。全くガキの無茶ってのは心臓に悪いね。自分の事ながら笑えてくるわ。
「まあそんなこんなで、コイツとはもう三十年近い付き合いになったわけだ。まさかここまで長くなるとは思わなかったぜ」
俺がそう言うと、ソエラも全くだとでも言うように、鼻を二回、ふがふがと動かした。
「でもいくら弱っているとは言え、子供がホーンラビットに近づくなんて、なんて危険な事を……。今話を聞いていて、ぞわりとしましたわ。貴方様の御尊父様もきっと、同じ気持ちだったのだと思いますわよ」
「あー……まあ、そうかもな」
「なぜそんな無茶をなさったのです? いくら子供でも、魔物に近づくなんて危険だと分かりますでしょうに」
「あー……」
どうにも言いにくくて、俺は右頬の傷をぽりぽりと掻く。だがスティアは俺から視線を外してくれず、俺はついぽつりと言ってしまった。
「アイツ、泣き虫でなぁ。こう言っちゃなんだがちと理由があって……アイツに泣かれると弱かったんだよなぁ、俺」
あれは今からちょうど三十年前の事だった。このアジトに魔族が現れたと聞いた俺は、ガキながら危機感を覚えその場所に走ったのだ。英雄譚に聞く恐ろしい化け物がアジトを襲ったのかと、そう思って。
だがそこにいたのは俺が思ったような恐ろしい存在ではなかった。地面に蹲り、両拳と頭を地面にこすりつける、人間大の兎達の姿だったのだ。
話を聞けば、彼らの故郷は食うにも困る場所であったそうで、彼らはそんな故郷を捨てて新天地を目指したのだそうだ。だが終ぞ良い場所は見つからず、結局限界を迎えた彼らはどこから迷い込んだかこのアジトを見つけ、頼って来たというわけだった。
オヤジ達は困ったものの、骨と皮だけのようになった彼らを見捨てられず、迎え入れる決断をした。
とは言え俺達自身も日々食う物に困る生活をしているため、山賊達の意見は賛否半々に割れており、オヤジの決断に従った形であったものの、相手が魔族という事もあって、彼らに反感を持つ者も少なくなかった。
そんな状況は子供だろうと理解ができるもの。サティラもまた不安気に、俺へ聞いて来たのだ。どうして助けてくれたの? と。
「まさか。サティラさんって――」
「ああ。魔族だよ」
ここまで言えば流石に分かるだろう。俺の妻だったサティラは、魔族だったのだ。
「あんなに困ってる奴らを放っておけないだろって言ったらアイツ、ぼろぼろに泣きやがってな。『エイクちゃん……ありがとう……っ』ってよ。多分そん時からなんだろうが、あいつに泣かれるとどうも調子狂ってなぁ」
子供ながらに俺は、コイツは俺が守ってやらなければと思ってしまった。らしくもなく庇護欲でも湧いたのかもしれない。
それ以降俺はサティラとつるむ事が多くなり、そしてソエラとも出会ったわけだ。
懐かしさに思わず頬が緩む。だがスティアはと言えば顔を伏せ、覇気のない声でぽそりと言った。
「貴方様、以前仰っておりましたわよね。サティラさんとの間に子供がいなかったと。もしやそれは、そういう事だったんですの……?」
「え? ああ、そう言えばそんな話をした事もあったな」
何を思うのか、スティアの声は重い。まあ夫婦に子供ができなかったなんて、軽々しく話すような内容でない事は確かである。
だが俺としちゃ随分と過去の話だ、もう気にするような内容ではない。重苦しい雰囲気を漂わせるスティアへ、俺はふっと笑って見せた。
「どうもでき難いみたいだな。俺以外にも魔族と結婚した奴はいるが、子供がいない奴らの方が多いんだ。でも全く子供ができないってわけじゃないぜ。二割切るくらいか」
「……子供ができない可能性が高いのに、結婚するのですか?」
「おいおい、子供作るために結婚するなんて貴族みてぇな事言うなよ。夫婦になるって別にそういうんじゃないだろ。って、スティアも公爵の娘だったな」
「あ、いえ。そういうわけではなくてっ」
急に慌て始めたスティアを、俺はからからと笑い飛ばす。
「冗談だ、冗談。ただな、そうと分かってても結婚したい、って言う奴を他人が止められると思うか? そういう時の奴ってのは、簡単に人の話なんざ聞かないぜ」
無論言い聞かせはするが、そういう奴らが人の言う事を聞くわけが無いのだ。じゃなきゃあこの世に駆け落ちなんてものは存在しない。
なにせ俺だってそうだったのだ。全然人の事を言える立場じゃなかったわ。
「俺はどっちかっていうと、全然見た目が違うのに結婚するのか、って言われるかと思ったぜ。何せほら、こう言っちゃなんだが、魔族って顔がもう動物だろ? だからまあお互いに、そういう対象に見れないって奴の方が圧倒的に多くてな」
「……それだけ好き合っていた、という事、なのでしょうね……」
「まあ、そうじゃなきゃ夫婦になりたいなんて言わねぇわな。見た目なんざ気にならない程好き合ってると。良い事言うじゃねぇか」
ニッと笑いかけるものの、スティアの顔はどうしてか暗かった。一体どうしたと言うのだろう。彼女の感情を読めば、複雑で少々分かりにくいが、どうも落ち込んでいる様子だった。
……落ち込む要素が何かあっただろうか?
心当たりが何もなく俺が首を捻っていると、突然静かな声が耳に届く。それはノエルの声だった。
《若旦那様。お嬢様。ご歓談中恐れ入ります》
「ノエル? 今起きたのか」
《はい、少し前ではございますが。それよりも若旦那様、少々お話がございます。後で構いませんので、少し時間を頂戴したく》
何だろう。声だけだと言うのに、何だか妙な圧を感じるんだが。
……俺、何か悪いことしたっけ? う~ん、分からん。
「この後、歓迎の宴を開いてくれるんだと。そこで良いか?」
《若旦那様》
声の圧がより強くなる。どうも駄目っぽい。つまり誰もいないところで話をさせろって事だな。
なんだろう。ちょっと怖いんだが。
「あー……。じゃあ、その後でな」
俺は頭を掻きながらそう答える。その間隣に座るスティアと言えば目を床に落としつつ、沈痛な面持ちで黙っているだけだった。
ノエルの声が聞こえたはずなのに、まるで反応を見せないスティア。彼女の胸の内に渦巻く感情はあまにも複雑過ぎて、俺の貧弱な頭では、彼女の考えは欠片も想像できなかった。




