幕間.ディルクの追想
ふと目が覚めた時、部屋はしんと静まり返っていた。
ずっとベッドに寝たきりであり、最近は時間の感覚すら分からなくなってきた。
今は一体いつだろう。そう思い体を起こそうとするものの、男の体は満足に動いてくれなかった。
少しもがいてみたものの、ただベッドが乱れるだけだ。結局男はどうにもできず、諦めの息を吐きながら、再びベッドに体を預けたのであった。
男の名はディルク・エッダ・アルヴィン・プリンセン。闇夜族の中ではプリンセン侯爵として名が知れた男である。
かつてプリンセン侯爵家は、闇夜族が誇る騎士団――月光騎士団に一族を多く輩出し、騎士団長を任ぜられる事も少なくない、武勇に優れた騎士の家系として高い権力を有していた。
その名残として、その家系の男児は皆、レイピアを用いた伝統的な戦闘法の習得を義務付けられている。ディルクも当然習得しており、また剣の才もあって、闇夜族の中での剣の腕は随一と目され、自身もそう思っていた。
だがつい一週間ほど前。彼は自身よりも強い者と初めて対峙をした。
結果がこの有様である。
失った左目がまだズキズキと激しく痛む。まるで脳を抉られるような痛みに手を当てようとしても、左手は全く動かず、右手も満足に動いてくれない。
彼は命を取り留めたものの、体の自由を失ったのだ。そのためあの一件からずっと、こうしてベッドに寝たきりだ。
かつてあった月光騎士団は、闇夜族の人口減少や迷いの森の強力な守護、そして乱世の終焉と言った多くの事情により解体を余儀なくされ、今はもうごく少数の有志からなる自警団に形を変えてしまった。
しかし過去の栄光はディルクに騎士としての気高さと誇りを持たせてくれた。
だが。
(こうなってはもう、我らプリンセン一門も終わりだな)
自分はもう戦えない。
そして自分の全てを叩き込んできた息子も、もうこの世にはいない。
侯爵家を継ぐ者は、もうこの森のどこにもいないのだ。
(あの忌み子を生かして逃がした事……。あれが間違いであったのか)
諦めか、それとも自嘲だったのか。
ディルクの口から吐き出された息は部屋の暗闇にふわりと漂い、そして音もなく消えて行った。
彼が思い出すのは今から六十年程前の事だった。
あの日、敵視するアーリンアッド家から一人の娘が逃げ出したと連絡を受けたディルクは、取る物もとりあえずレイピアだけを握りしめ、この屋敷を飛び出したのだ。
忌み子であり、かつ光の精霊の子でもあるアーリンアッドの長女――ラスティを始末するために。
それはプリンセン侯爵家と友好関係にあるキールストラ侯爵家の大望であり、かの一族はこの機をずっと待っていたのだ。
ディルクもそれに手を貸す事は吝かではなく、剣を取り走る事に何の躊躇もしなかった。事実彼は他の追っ手よりもずっと早く、その娘の背中を捉えた。森の中を転がるように必死で走るやせ細った娘の姿を、彼の目は確かに見たのである。
それは森から出るにはまだ遠い場所であり、相手は女児で、ディルクは全盛期とも言える青年だった。女児が逃げおおせられる状況では無く、そのままであれば女児はそのまま彼のレイピアに貫かれ絶命していたはずであろう。
――だが、現実はそうはならなかった。
「何? 森の外へ逃げただと!?」
キールストラ侯爵家の当主、オズヴァルドの前で、ディルクはそう報告をした。
彼は忌み子を見逃したのだ。はっきりとした理由があったわけでは無い。
しかしその必死に逃げようとする女児を見た時に、忌み子として生まれたため自分の手で葬った長女を思い出してしまった事は、否定できない事だった。
「あれほどまでに追っ手を放っておいて、一人もあれを殺せなかったと言うのか!? 子供一人殺せぬ程、貴様らは無能なのか! どうなのだ侯爵!?」
忌み子を森の外に逃がした事を知り、オズヴァルドは大層立腹していた。だが、それは予想できた事だった。
ディルクは平静を取り繕いながら、激昂する男へもっともらしい嘘を付いた。
「キールストラ卿。我らがこの森で滅びを迎えるまで、一体どの程度かかると予想されている?」
「……何?」
「この森から出られぬ我らには、森の外に干渉する術がない。ならば森の外に出られる者に、その役割を持たせれば良い。私はそう考える」
闇夜族の数は緩やかな現象傾向にあった。このままでは滅びの定めが待っており、彼らはそれを何とか打開したいと常々議論を交わしていた。
とは言え妙案は何もなく、無為に時間が過ぎるばかりだった。
だからディルクは言ったのだ。忌み子だろうと使えるのならば、使ってみようではないか、と。
「あの者を生かしておくと言うのか? 忌み子だぞ。呪われし子だぞ!? 卿は一体何を考えているのだッ! 到底正気の沙汰とは思えんッ!!」
しかしオズヴァルドの怒りは全く収まる様子を見せなかった。白い肌を真っ赤に染めて、ディルクを怒鳴りつけるように叱責したのだ。
ディルクも頭では、彼の言い分が正しいと思っていた。しかし心のどこかで、本当に正しいのかと言う疑問も僅かに持っており、素直に頷く事ができなかった。
自分がこう思い始めたのは一体いつの頃だったろうか。
自分自身を訝しむ自分が、心の中にもう一人いる。
だがそんな思いとは裏腹に、彼は更に言いわけを続けていた。
「レイグラム卿。我らには今、手段を選んでいられる時間はないのではないか。奴は私が責任をもって監視する。ここに来る前にフクロウを飛ばしてきた。すぐに奴を覚えて戻って来る」
闇夜族はフクロウを調教し、遠くの仲間と連絡を取り合う術を持っていた。これはかつて離れた森に住む仲間との連絡手段であったが、騎士団同様今ではもはや機能していない手段であった。
だがディルクはプリンセン侯爵家の当主として、この方法を習得していた。
フクロウと任意の誰か――今回はプリンセン侯爵家の執事を選んだ――に闇魔法、”心象憑依”をかける事で、フクロウの見聞きしたものを遠くのこの地でも知る事ができるのだ。
フクロウは忌み子の姿を覚えて戻って来る。そうすれば今後も忌み子を監視役する事で森の外の情報も得られるだろうと、ディルクはオズヴァルドを諭したのだ。
それは確かに利のある策であろう。しかしオズヴァルドはそう簡単に首を縦には振らなかった。そこには闇夜族としての大きな理由があった。
「馬鹿者め、あのような者を生かしておく事事態が問題なのだと言っている! ルピナス様の寵愛を受けなかった者なのだぞ! 奴を生かしておけば、我らもルピナス様の怒りに触れるかもしれん! そんな事も分からんのかと私は言っているのだっ!」
忌み子とは、闇夜族の特徴である白髪赤目を持たない者達の総称だった。
一族の特徴を有さない者達は、彼らが称える月の女神ルピナスの寵愛を受けなかった者である――。
そう目する彼らにとって、そんな存在を生かしておくこと事態がルピナス神への冒涜であると、オズヴァルトは激しく攻め立てたのだ。
当然ディルクも知っていた。だが、もはや賽は投げられたのだ。
「あの者を二十年も生かしておいて、アーリンアッドは何もないのだぞ。それにもうあの娘は外に逃がしてしまった。この件、私に任せてくれまいか」
「くっ……! もし何かあれば、卿が全ての責任を取るのだな!?」
「無論。私の命にかけて誓おう」
「そこまで言うか……。分かった。だがこの件は当面の間、卿と私だけの秘密とする。一族に混乱をもたらすのは必至だからな……。その内時を見て公表する事とする。異論は認めんぞ」
「ああ。承知した」
そうして半ばなし崩しにオズヴァルドを説き伏せたディルクは、アーリンアッドの娘ラスティの監視役として、長い間彼女を監視し続ける事となったのだ。
そうして彼は屋敷に戻ったのであるが、しかし流石に彼も思っていなかったはずだ。オズヴァルドを納得させた翌日に、早速監視役としての責務を果たさなければならなくなる事を。
「旦那様。実は――」
「……何だと?」
何と逃げたはずの娘が、すぐに迷いの森へと戻って来たのだ。
”心象憑依”をかけていた執事から事の次第を聞いたディルクは、誰にも悟られぬよう屋敷を出て、森の外程近くへと足を運ぶ。するとそこで目にしたのは、引き裂かれたようにぼろぼろの衣服を着た女児が、顔をくしゃくしゃにしてこちらに歩いて来る姿であった。
あまりにも無残な姿だ。流石に哀れに思ったが、この森へ娘を返すわけにはいかないと、ディルクは持っていた衣服を乱暴に、ラスティ目がけて放り投げた。
「何をしに戻ってきた。お前はルピナス様の加護無き忌み子。この森に戻れるなどと思ってもらっては困る。それはくれてやる。着替えたらさっさとここから立ち去れ。でなければ、例え子供だろうと容赦せん。お前を斬る」
執事から聞いた話だ。ラスティは森を出てすぐ南にあるルーゼンバークという町に辿り着いていたらしい。
そこで町に入った彼女だが、当然無一文であり、何かを買うという事が出来ない。加えて、長い間軟禁されていた事で、他人に対して持つべき危機意識もあまり育っていなかったのだが、これが災いした。
彼女は寝る場所を提供すると言って近寄って来た優し気な男に、半ば強引に家に連れ込まれ、乱暴される事になったのだ。ただそれは事に及ぶ前、半狂乱になったラスティに魔法を全力で放たれて、男は火だるまとなり死亡し事なきを得たが。
ただ女児にとってはトラウマものだ。彼女はぼろきれのようになった衣服で体を隠しながら、必死に森へと逃げ帰ったのだ。外にあるのがこんな地獄なら、軟禁されていた方がマシだったと思いながら。
しかし現実は彼女を受け入れない。受け入れるわけが無かったのだ。
「ど、どうかっ、どうかお父様にお伝え下さい……っ。ラスティはもう我がままを言いません。あの部屋で大人しくしております。だから、どうか、どうかっ」
「ならん。お前はこの森を出たのだ。その選択はもう覆せない。この場所で私に切られて死ぬか。それとも森の外で生きるか。今すぐ決めろ」
「う、うぅぅぅ……っ! うぁぁぁぁぁ……っ!!」
額を地面に着け、声を潜めて号泣する女児の姿を、ディルクは黙って見降ろしていた。
女児にとってディルクは処刑人である。頼りにできる人間ではないと、彼女もすぐに分かったようだ。ディルクにそれ以上何を求めることも無く、ひたすらにそこで号泣していた。
それを眺めるディルクも己の立場を分かっていた。これ以上自分は何かをすべきではないと分かっていた。
ともすればオズヴァルドに目をつけられる事になる。そんな事も重々承知していた。
だが、どうしてか彼の口はその考えとは裏腹に、小さな声を発していた。
「強くなれ」
「ぇ……」
「強さは自分を裏切らない。外の世界で生きるなら強くなれ。体だけでなく心も。今は弱くとも……強くあろうと努力しろ」
騎士ならば強くあれ。体のみならず心までも。鋼の如く錬磨せよ。
それは代々騎士を輩出してきた、プリンセン侯爵一門の家訓であった。
ディルクはそう言い残して、ラスティに背を向けてその場を去った。彼とラスティの邂逅はたったの数分であり、すがる女児を追い返したという事実は変わらなかった。
しかし彼の一言はラスティに一つの決意を促した。
強くなる。強くならなければ自分は生きてはいけないのだ。
今はまだそんな気にはなれないけれど。しかし生きていくための方針も持たなかった彼女には、その言葉は大きな救いとなった。
投げつけられた服を這いつくばって拾い、いそいそと着替えたラスティは、もういない彼にぺこりとお辞儀をした後に迷いの森を去った。
その後、彼らが直接顔を合わせる事は無かった。しかしラスティの動向は彼女も知らないところで、常にディルクに監視をされていた。
「はぁ!? ランディは私と付き合ってるの! 人の彼氏に色目を使うなって言ってるのが分からないの!?」
「え……わ、私はそんな事していません……けど」
「しらばっくれるつもり!? 誰もパーティを組んでくれないからって、折角厚意で入れてやったのに! アンタみたいな寝取り女と一緒のパーティなんて、もうまっぴらよ! 出て行きなさい、このアバズレ女っ!」
魔法使いとして冒険者となったラスティが、このような痴情のもつれから度々激しく罵倒されてた姿も知っている。
「こ、こいつ……魔物だ! ヴァンパイアだぁっ! 見たんだ俺は、あいつの牙が伸びている所を! あの目だって、見ろ! 瞳孔が異様に縦に細長くて――俺達と全然違うじゃねぇかぁっ!」
彼女目当てでしつこく言い寄ってきた男を手酷く撃退した時に、人族と違う特徴をまるで凶悪犯のようにあげつらわれて、周囲から嫌悪と疑惑の目を向けられ、町から出て行かざるを得なくなった事もあった。
「おいおい、そう怒るなや。お前、誰も味方がいねぇんだろ? 俺達と一緒に来いや、たっぷりかわいがってやるからよぉ」
「へっへっへ……俺達は仲間には寛容なんだ。お前がなんだか知らねぇが、役に立つなら歓迎するぜぇ」
「抵抗しても無駄だぜ。こんな場所、お前以外来ねぇからなぁ」
体目当ての男達に騙され町の外へ連れ出された挙句、十人以上に囲まれて脅されるなんて事も珍しくはなかった。
「この者達は慈愛の神ファルティマール様を排さんとした邪教徒の一味である! 民のため、国のためにと、その奇跡を惜しみなく振るって下さるファルティマール様を俳そうなどと、まさに神をも恐れぬ所業! 許しがたき蛮行である! よってこの者達は磔の上、石打ちの後に火炙りの刑とする! 民よ、ファルティマール様が愛する神民よ! この者達をファルティマール様に代わり、罰するのだッ!」
『殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せっ!!』
親しくなった者達が邪教徒に仕立て上げられた挙句、惨たらしく民衆の前で公開処刑されるなどという事もあった。
どんな時も彼女はディルクの言った強さでもって、苦難を乗り越えて来た。しかしそれは乗り越えられただけであり、彼女にとっての救いとはならなかった。
彼女の人生の半分以上を監視し続けてきたディルクは、彼女の心が擦り切れて行くのを、誰よりも良く理解をしていた。
そのため、そんな人間をもう監視する必要もないかと、内心思い始めたのだ。
(あの時、あの場所で始末しておいた方が、あの娘にとっては幸せだったのかも知れんな……)
監視を続けて五十年近くになると、もうオズヴァルドも口うるさく言って来なくなっていた。何をしても報われない娘の生涯に、溜飲が下りたのかもしれない。
そしてディルクも思った。やはり忌み子とは生かしておく価値はないのだ。それならきっと、あの時己の娘に手をかけた事もまた、間違いでは無かったのだと。
これ以上彼女の人生に目を向け続けるのは、あまりにも情けが無い。ならばこの辺りが潮時かと、ディルクはそこからラスティの人生を追う事を止め、哀れな娘の生き様に目を閉じる事を決めた。
そして自分の意識からも彼女を消し去り、数年間過ごす事になる。
だが突然、初めてオズヴァルドの方から監視の状況を聞かれたディルクは、仰天する事となった。
まさか本当に彼女を、森の外で任務を行うための駒とする事となるとは、思ってもいなかったからであった。
「ふぅ……。あの時あの娘を始末していたら……。今頃私はどうなっていたのだろうな……」
ベッドの上で独り言つディルク。もしかしたら自分はまだ健勝で、息子と共に一族の未来を憂いていたのかもしれない。
「いや……。詮無い事だ。私はあの娘を逃がし、そしてその結果得た強さでもって打ち破られた。それが全てだ」
だがそんな過程は無意味なのだ。己の責務を果たすため、彼は率先してあの娘と対峙した。
だが力及ばず息子は死に、自分もこうして死に体となっている。
ディルクにとっては認められない結果のはず。しかしどうしてか彼の口調には恨みや悔しさなどは無く、ただ結果だけを認める感情だけがあった。
聞く所によればオズヴァルドも何か思う事があったようで、今までの気難しさが一転、憑き物が落ちたように落ち着いたそうだ。
あの一件がどう影響したかは分からない。しかし停滞だけがあった一族に、何かの転機が訪れた事は確かであった。
「あの娘を生かした意味……。それがもし一族のためとなったならば……私は……」
ディルクはぼそぼそと小さく何かを溢した後、ゆっくりとその目と口を閉じた。
寝室にはまた静寂が戻り、深い暗闇だけがある。
彼の言葉の続きを知る深い闇は、まるで彼を見守るかのように、眠るディルクを優しく包んでいた。