幕間.レイグラムとノエル
「おおおらぁッ!」
「その調子です、若旦那様」
右腕を真っすぐ伸ばし、レイピアを鋭く突き出す。だがノエルは軽やかにそれを避ける。ノエルの白髪とロングスカートがふわりと揺れ、かと思えば彼女を地を蹴り、するりと俺の懐へ入り込んで来た。
彼女の短剣が俺の胸元目掛け、滑るように飛んで来る。俺はそれを左のマンゴーシュで受け止めると、同時に彼女の踏み出した左足へ足払いをかける。
だがそれは完全に見切られており、ノエルはステップを踏むように体をくるりと回して軽やかに避けると、いつの間に取り出したのか左手に握る短剣を、俺の首もと目掛けて繰り出した。
俺はそれをレイピアで受け止めて――
「あっ、やべ。またやったっ」
思わずそんな言葉が口から出る。ノエルの短剣はレイピアに当たる事はなく、直前でぴたりと停止した。
「もう一番、致しますか?」
ノエルは微笑を浮かべて俺を見る。
「ああ、頼む」
「では」
そう言えば、ノエルはとんとんと後ろへ軽やかに跳び、密着した距離を適度に開いた。
再び構え合う俺とノエル。そうして一拍。
静かな森に再びキン、キンと、甲高い音が鳴り響き始めた。
ここはルーゼンバークより北の、名も無い森の中だ。クアッドラの町へ向かう道すがら、俺達はここで野営をしている所であった。
「はぁッ!」
「ふふふ、流石に筋がよろしいですね」
「そりゃどうもッ!」
今は夜。食事を取った俺達は、それぞれが自由に行動しているところである。
魔族達は食後の運動を兼ねて、もう暗いと言うのに食料探しに森のあちこちへ散って行った。
バドとロナは食事の後片付けと、明日の朝飯の仕込みを。
ホシは丸くなった腹を出して居眠り中で、スティアはそんな彼女に膝枕をしながら、父親であるレイグラムさんと一緒に俺達の様子を見ているところだった。
で、俺は一体何をしているかと言うとだ。
「おらッ!」
「剣先がぶれていますよ」
レイピアを突き出すも、ノエルに体捌きだけで軽々と避けられる。
「レイピアの最大の特徴は隙の少ない突きです。真っすぐ鋭く、空気を削ぐようなイメージで突いて下さい」
闇夜族達との戦いの際に見た、レイピアとマンゴーシュを使った戦闘法。それに興味があった俺は今、親父さんの屋敷に保管されていた一式を借りて、ノエルに指南を受けているところであった。
「シッ!」
切っ先をノエル目掛けて飛ばす。だがノエルはやはりひらりとかわす。彼女の口元には薄く笑みが浮かんでおり、自分の駄目さ加減がはっきり分かる。
そのまま懐に潜り込まれ、ノエルは短剣で連撃を繰り出してくる。マンゴーシュだけで捌くも苦しくなり、受けようとついレイピアを動かしてしまう。
そうなればまたもノエルはぴたりと動きを止めた。
「受けるならスウェプト・ヒルトで受けて下さいね」
「はあ~……っ」
もう一体何度目になるだろう。短剣を寸止めされ、俺は重苦しいため息を吐き出した。
「難しいもんだなこいつは。形は似てるが剣とは勝手が全く違いやがる」
右手のレイピアに目を落とす。軽い気持ちで使いたいと言ったこの剣だが、扱いの難しさに俺は翻弄されていた。
剣は普通重心が剣身にあるものだが、このレイピアは手元にあった。それだけでも妙な感覚だってのに、持ち方も剣とは全然違うのだ。
手の甲を上にして握るという持ち方なんだが、これがまたやり難くて仕方がない。
真っすぐ突くのも難しいとか、相当の慣れが必要そうだ。俺はもう諦めて、首を振りつつノエルに言った。
「付き合わせて悪かったな、ノエル。もう十分堪能したわ」
「そうですか。畏まりました」
持っていた短剣をぱっとどこかに隠し、ノエルがにこりと笑みを見せる。
まるで手品だ。暗器使いは伊達じゃなかった。
「ですが、流石若旦那様です。今日初めて使ったとは思えませんね。これならすぐにでも物にできるかと存じます」
「そう言われちゃ悪い気はしないが、だがもう俺は使わなくていいかな」
「なぜですか?」
「俺はこいつほど繊細じゃないからな」
このレイピアは剣身が通常の剣よりも細く作られているため、相手の攻撃を受けるのに全く適していない武器なのだ。受けられないわけじゃないが、何度も受けると剣身が脆くなり、いざ突いた時にその部分が折れる可能性があった。
だから攻撃を受けるのは基本的にレイピアのごつい鍔――スウェプト・ヒルトと呼ばれる部分と、左手のマンゴーシュという事になる。だが俺はいつもの癖で攻撃を剣身で受けようとしてしまい、その度にノエルに短剣を寸止めさせている始末だったのだ。
「気ぃ使って戦うのは性に合わねぇからな。でも良い経験させてもらったぜ。ありがとよ」
「それは残念です。それらは我ら闇夜族にとって伝統的な武器なのですが」
「無理強いする必要もあるまい。エイク殿にはエイク殿の戦い方がある。合わないというのであればそれを避けるのもその人間の戦略よ。人生は有限であるからな。人族は特にそうであろう」
俺とノエルが話していると、そこへ親父さんが近づいて来る。つい最近まで腰の曲がった老爺だった彼だが、今は初老くらいにまで若返っている。だが見る度に顔の皺が少なくなっているように見えるのは、果たして俺の気のせいだろうか。
「それに伝統と言ってもとうに古錆びたものだ。今では闇夜族の中でも高位の、そのまた一部の者しか修めていないではないか。なあノエルよ」
「それでも伝統は伝統でございます。旦那様ともあろうお方が、まさか軽んじるおつもりで?」
「いやそんなつもりは無いが。だが不要なものが廃れて消えるのは人の倣いよ。いずれこの武器も不要となる未来が待っておろう」
二人の話は小気味よく続く。詳しく聞いていないが、彼らの付き合いは少なくとも三百年以上になる。ノエルはメイドで親父さんは雇用主だ。一応主従関係にあるはずなのだが、目の前の二人がまとう空気には、そう言った堅苦しさは微塵も感じられなかった。
「しかし若旦那様はアーリンアッドに名を連ねる方でございます。闇夜族の伝統ですから、習得して頂けるならそれに越した事はございません」
――無かったはずだったのだ。ここまでは確かに。
「……それは少々気が早すぎるのではないか、ノエルよ」
「お言葉ではございますが、若旦那様はもう良いお年です。お世継ぎの問題もございますので、遅いくらいかと存じます」
「世継ぎだと!? それこそ早いわ馬鹿者!」
二人の間に突然剣呑な空気が生まれ、俺はじりと後ずさる。どうしてこうなった。俺、別に何も悪い事はしてねぇぞ。
あ、そりゃあ山賊だから昔は数えきれん程やったけど。でも今は本当に何もしてねぇ。
助けを求め、俺は離れた場所にいるスティアに目を向ける。しかしスティアは俺が見た瞬間、勢いよく顔を背けやがった。
くそ、我関せずというわけか。そんな耳まで真っ赤にしやがって、良い度胸していやがるぜ。
「お、おいおい。勝手に盛り上がるなよ。まだそうと決まったわけじゃねぇだろうが」
放っておくわけにもいかず、俺は仲裁に入る。確かに俺は昔スティアにプロポーズをし、最近その返答を迫った。
だがスティアからの返答は未だに無いのだ。当然、再び否という結果もありえた。
「それはありえません」
「なっ、なんでだよ」
だがそんな考えもノエルにぴしゃりと否定され、俺は更に一歩後ずさった。
いつの間にか俺を若旦那と呼ぶようになったノエル。普段柔和な彼女であるが、今放つ圧は圧倒的だった。
「お嬢様が若旦那様の求婚を断ろうはずがございません。ご覧下さい、あの姿を」
すっと指を向けるノエル。その先を追えば、そこには真っ赤な顔を両手で隠したスティアがいた。
前は逃亡したスティアだが、今はホシに膝枕をしているため動けない。だからあれで抵抗しているつもりなんだろう。
可愛いかよ。ふざけんな。
気づけばその奥にいるバドとロナも、一体何だと手を止めてこっちを見ていた。まあこれだけ騒げば当然か。
「ぬぅぅぅぅうっ!」
「何がぬぅぅですか。旦那様、いい加減諦めて下さいませ。子供でもあるまいし、いい大人が恥ずかしいとはお思いにならないのですか」
憤る親父さんもノエルにぴしゃりと言われ形無しである。
このメイドさん強ぇぞ、と親父さんを見れば、親父さんもまた、うむ……! とこちらを見る。
いやうむじゃねぇし。騒いでんのはお前らだよ、同意を求めてねぇで何とかしろ。
「思えば旦那様は幼い頃からそうでございましたね。ご自分の手元にある物を人に譲るのがお嫌で、よくぐずっておられました。あれはいつの頃でしたか――」
「な……!? お、おい待て、一体何百年前の話をしている!?」
そうして始まったのは親父さんの過去話。親父さんが慌てるが、時は既に遅かった。
「お嬢様はお聞きになりたいですか?」
「是非!」
すっとスティアに近寄るノエル。すると顔を覆っていたスティアが、今度はキラキラした目で食いついてきた。
代わりに今度は親父さんが両手で顔を覆う。
何だよこの似た者親子がよ。仲が悪かったとか絶対嘘だろ。
「旦那様は特にカエルさんのぬいぐるみを好んでおりまして。あちこち痛んできたため繕おうとすると、『ノエル姉とっちゃヤだーっ!』と大泣きをして、困らされたものです」
「ふんふん!」
ノエルは親父さんがまだ幼児だった頃の話を嬉々としてスティアへ語っていく。スティアも興奮気味に頷いてその話を聞いており、話は暫く続きそうだった。
その一方で、俺は親父さんとノエルの関係がどんなものか、今までのやり取りで薄っすらと察していたが、その話を聞いてここでやっと合点がいっていた。
ノエルは親父さんの側仕えであると同時に、姉のような存在でもあったんだな。
だからあの屋敷で、自分一人になっても親父さんに仕え続けていたわけだ。
そりゃ強固な関係だわ。三百年以上そうしてずっと一緒にいたんだからな。
そう思いつつ彼女らを見ていると、不意に一つの疑問が湧き上がる。
親父さんは今初老程度の見た目だが、ノエルはまだ三十台くらいの落ち着いた頃合いの女に見える。
……ノエルって一体、今いくつなんだ?
「――何か?」
「ひょいっ!?」
突然振り向かれてわけの分からん声が出た。
だがこいつはヤバい。俺は知ってるんだ。
女に年を聞くって事は、同時に死を意味するって事を。
「い、いや、何でもねぇよ」
「そうですか。それは結構」
結構とか言ってるし! 絶対分かってただろ、このメイドさん怖ぇよ!
親父さんをチラリと見れば、親父さんもまた、うむ……! とこちらを見ている。
いや、だからうむじゃねぇんだよ。お前の身内だろうが、なんとかせい!
「そ、そう言えばよ。ノエルって名前、何か意味があるのか?」
「はい?」
俺は話題を変えるため、とりあえず適当な話題を振ってみる。
ノエルは今度はきょとんとした顔で、俺の顔を見つめてきた。
「いや、ノエルって男の名前じゃねぇか。何か意味あるのかと思ってな」
それは初めて聞いた時から思っていた事だ。ノエルという名前の男は聞いた事はあるものの、女は聞いた覚えがなく、名前を聞いた時から少し引っかかりを覚えていたのだ。
「貴方様、流石に失礼ですわよ」
「え、そうか?」
俺としては軽い質問のつもりだったのだが、スティアに怒られてしまった。
そんな失礼な事かと思うものの、確かに俺もエリザベスとかいう名前だったら触れられたくなかったかもしれない。
「悪い、特に悪気は無かったんだが。気に障ったんなら謝る」
「いえ、構いませんよ」
思い直して謝る俺。だがノエルは特に気にした様子もなく、首を横に振った。
「私は生まれる前から旦那様の護衛として生きるよう決められておりました。ですので男女どちらでも通じる名前を付けられた、というだけの事ですよ」
「え、生まれる前から決まってたのか?」
「はい。闇夜族の慣習として、派閥の領袖が婚姻した際、その後最も早く生まれた派閥に属する者を領袖のお子の護衛とする、という決まりがあるのです」
「領袖って何だ?」
「失礼致しました。派閥の指導者の事でございます」
派閥の指導者か。今ノエルが言ってるのは親父さんの父親の事だよな。つまりスティアの爺さんだ。
で、その爺さんが結婚したからそのうち子供が生まれるよね、だから今度生まれた派閥の子供をその護衛にするぞ、って事か。
随分と珍しい風習だ。何か意図でもあるんだろうか。そう考える俺を見つめながら、ノエルは説明の続きを話す。
「その子供は生まれる前から役割が決まっておりますので、どちらとして生まれても良いような名前を付けるわけでございます」
「ふーん……。けどよ、男女どちらでもって、ノエルって名前は女でもいるのか? さっきも言ったが俺は聞いた事ねぇぞ」
「貴方様、聖王国には女性でノエルという方は結構おりますわよ? 確かにこの国や帝国では珍しいですけれど」
「あ、そうなのか? じゃあ俺が知らなかっただけか。悪いな、変な事言って」
スティアの言によれば聖王国では別段珍しくもないらしい。住んでる場所の違いって奴か。なら別におかしくもないか。
「だがそうとなると、アンタは生まれてからずっと親父さんの側でメイドやってんだなぁ。……嫌になったりしないのか?」
俺はノエルの人生に思いを巡らせる。恐らくだが、彼女は四百年近くを親父さんの側で生きてきたはずだ。
そんな長い間一緒にいたら、嫌になった事の一つや二つあるのではないか。そう思って聞いてみるが、ノエルは口に手を当てて楽し気に笑った。
「特に嫌と思った事はございませんよ。それにメイドは戦争が終わって百年程してからやり始めた事でございますし、まだまだ道半ば。飽きるには研鑽が足りておりません」
「は?」
「え?」
スティアと困惑が被る。戦争が終わってからやり始めたって、一体どういうことだ。
目を丸くする俺達に、親父さんが呆れたような声を出す。
「先程も言っておったろう。ノエルは護衛だぞ。つまりは戦士だ。昔はメイド服なんぞ着ず、髪を短く切ってずっと武装しておったぞ」
「懐かしい事でございます」
穏やかに笑うノエル。だが、メイド姿が堂に入る今のノエルからは、武装した姿が全く想像できない。
スティアも困惑しているのだろう、
「じゃあどうして今はメイドなんてやっているんですの?」
と声に出すものの、
「趣味です」
「趣味……」
と笑顔で返され、何とも言えない声を出した。
「全く、最初は私も驚いたぞ。あのノエルがこんなメイドの恰好なぞして出てきおったのだからな。夜に日が昇ったのかと思ったわ」
親父さんはしみじみとそう口にする。だがそんな彼の顔のすれすれを、何かがゴウと通り過ぎる。
少し離れた木の幹に突き刺さったそいつを見れば、それは金属製のチャクラムだった。
「何をするノエル!? 危ないであろうが!?」
「失礼致しました。旦那様の近くを蛾が飛んでおりましたので」
「白々しい嘘をつくな!」
しれっと言うノエル。見ればいつの間にか、彼女は頭にしていたヘッドドレスを外していた。
すたすたと歩いて来たノエルはチャクラムを木から引っこ抜くと、円月状のそいつを半分に折り畳み、フリルを被せて頭に戻す。
……ヘッドドレスの中にも暗器を仕込んでいるのかよ。見抜けなかった、この俺の目をもってしても。
つーかそんなもんノータイムで投げて来るんじゃねぇ。ノエルはいつものように笑顔だが、今はそれが怖すぎる。
「装いが変わっても、やはりお前は昔からちっとも変わらんな! もう少し敬え、私を!」
「お褒め頂き光栄です」
「褒めておらんわっ! ああもう、私が老いてからは少しは丸くなったと思っていたのに……!」
「若返ったので無効です」
親父さんは頭を抱えつつ声を荒げるが、ノエルは至って涼しい顔だ。親父さんの言うように昔は見た目が違ったのだろうが、きっと二人の関係性は、昔からずっと変わらないのだろう。
「ん~……何~?」
「何かあったのか?」
あまりの騒がしさにホシが起き、更に声を聞きつけたガザ達が仕留めた狼などの獲物を肩に担いで戻って来る。
彼らは珍しく騒がしい二人に不思議そうな目を向けていたが、それでも二人は暫くの間、息がぴったり合った漫才を繰り広げていた。
「仲、良さそうだな」
「ええ」
スティアに近づきそっと話すと、彼女は二人を見ながら頷いた。
「ノエルがいてくれて……本当に、良かったですわ」
俺はそっとスティアの横顔を見る。
その目はゆるりと、優し気な弧を描いていた。