340.いざ東へ
紆余曲折あって、滞在予定日を一日伸ばした三日の後。一行は早朝、代官屋敷の正門前に集まり、代官ヘルブラントと向き合っていた。
「もう少し滞在して頂いても一向に構わないのですがねぇ」
ヘルブラントはリリュールを見ながら残念そうに言う。彼は一行が屋敷に滞在している間、下にも置かない扱いをしてくれた。
無論それはリリュールがいるからであって、それ以外の者はただのおまけに過ぎない。
しかしそれでも、ここで彼の協力を得られた事は幸いだった。
そう思いながら、カークは笑顔で代官の前に一歩踏み出した。
「閣下。色々と手配下さりありがとうございました」
カークが胸に右拳を当てて軍人式の敬礼をすると、ヘルブラントは途端につまらなそうな顔になった。
「フン、こちらにも利があっての事だからな。お前の言う事を聞いたわけでは無い。その点は勘違いをするなよ」
「はい、もちろん承知しております」
冷たい態度は変わらずだ。しかしこの数日間代官と何度か会話をしていたカークは、もう慣れたものだった。
人好きのする笑顔を顔に浮かべて頭を下げるカーク。それを見て代官はもう一度不機嫌そうに鼻を鳴らす。だがその音は普段よりもほんの少しだけ、柔らかいものであった。
カークは皆に話をした翌朝早々に、執事を捕まえヘルブラントに面会を申し出た。ただの面会であればヘルブラントも応じなかったろうが、リリュールの事で話があると言われれば彼に断る理由は無く、カークはすぐに呼び出される事となった。
そうしてカークとヘルブラントはそこから互いの腹の内を探りつつ、己の要求を相手に飲ませるべく対話を始めて行ったのだ。
カークがヘルブラントに要求したのは三つの事だった。
一つ、馬を二頭譲って欲しい事。
一つ、自分達の馬車をマイツェン領の東端にある町、バイゼルで預かるように、その町の代官へ働きかけて欲しい事。
そして最後の一つは、五人分の保存食を二か月分、至急用立てて欲しいという事だった。
カークの考えはこうだった。オーレンドルフ領ではなるべく目立たず、襲われても素早く逃亡でき、そして食べ物に困ることが無い。
そうして上げた三つの要求。彼らが抱える問題は多くあった。
その中でも特に問題だったのは、フィリーネの父親である伯爵が用意してくれた馬車の事であった。
ハルツハイムの紋章こそ入っていないが、明らかに貴族のものと分かるそれは、野盗に狙われるのに十分な要素となり得たのだ。それに馬車はスピードが遅く小回りも利かないため、急に逃げるとなっても難しかった。
その問題点を解決するべく考えたのが、馬車を捨て、馬での移動に変えるというものだった。
馬も金になるため狙われる要素になり得るが、いざとなれば走って逃げられるし、何より荷物を大量に持たせる事ができるため、多くの食料をマイツェン領で用意してからオーレンドルフ領に臨む事ができる。
オーレンドルフ領は貧しく、食料の現地調達は非常に難しい。なので食料を持ち込めるというメリットは計り知れない程大きかった。
幸い今使っている馬車は二頭立てだ。馬車を外せば馬二頭は用意できる。
ハルツハイム伯爵が用意しただけあって非常に良い馬だ、人を乗せる訓練もされており、騎乗するのにも問題は無かった。
問題としてはリリだけが馬に乗れない点だが。しかしカークはこれを、二人乗りにするしかないと考えていた。
一般的に馬が乗せられる重量限界は、馬の体重の二、三割と言われている。つまり百キロ程であり、男女の二人乗りはそれを超えるため、馬にとってかなりきつい重量となる。
基本的に馬の故障にもつながるため避けた方が良いが、これを解決する方法が一つだけあった。それはフィリーネの存在だった。
フィリーネとリリ二人なら、装備を外せば百キロを超えることは無い。幸いフィリーネは拙いながらも乗馬の訓練を受けており、数日集中して訓練すれば、何とか二人乗りをこなせるだろうと思われた。
馬を外した馬車に関しては荷台代わりにもなるため、ここでなく東のバイゼルまで行ってから降ろせば良い。
そんな諸々の事を考えて、カークは代官へ三つの要求をしたのであった。
代官はこれを問題ないと飲み、彼の要望通り二頭の馬を用意すると約束した。そのためカークはとりあえずは一安心と息をついていたのだが。
そこで思わぬ事態が発生するとは、カークも夢にも思わなかった事だろう。
「うむ……やはり良い馬だ。これほどの馬、王都だとしても中々目にする事はできんだろう」
しみじみと独り言を言うのは隣の馬を撫でるオディロンだ。徒歩の旅から始まり馬車を経て、彼は今初めて自分の馬を得たのである。
ヘルブラントが用意した馬は非常に毛づやの良い穏やかな馬で、怯えた様子も無く尻尾をゆらゆらと機嫌良さそうに振っていた。
オディロンはこれでも騎士である。馬の世話はお手のものであり、馬もそれを感じ取ったのだろう。特に騒ぐことも無く、彼を相棒と受け入れていた。
騎士であるオディロンは自分が馬に乗っていない事を非常に不満に思っていた。そのため良い馬を得た彼は、今誰が見ても上機嫌であった。
それは良い。カークの思った通りである。
が、問題はその隣だった。
「よしよし。良い子ですね」
今リリは一頭の馬の隣に立ち、すり寄ってきた顔を軽くぽんぽんと叩いている。その馬は普通の馬より一際大きい黒い馬だった。
だがその馬は非常に筋肉が発達した威圧感がある風貌をしており、一般的な馬と違う事が一目で分かる。
そう、代官が用意した二頭のうち、一頭はただの馬では無かったのだ。
それは魔物である馬――魔馬であったのだ。
「ブルルル……」
黒い魔馬は機嫌良さそうに鼻を鳴らしている。この魔馬という呼び名は通称であり、本当の名前はレナホースと言った。
今は帝国の一部となっている南部、レナ地方にある草原地帯、レナステップで、ある騎馬民族が乗っていた事からそうつけられた名前である。
その力強さと速さは普通の馬を軽く凌駕すると言われており、単純に馬としてのみならず、権威の誇示や戦力としてなど、魔馬を望む声はかなり多い。
が、普及は殆どしていないのが現状だ。馬を戦力とする軍なども、確実に十割が普通の馬である。
理由としては、魔馬を訓練する調教師が殆どいないという点や、一頭金貨十枚はかかるという価格もあろう。
しかしそれ以上の理由として、プライドの高さと気難しさが魔馬にはあった。
主と認めた者以外が乗ろうとすれば振り落として踏み殺してしまう程、魔馬は気性が荒かったのだ。
そんな馬を代官はどこからか一頭仕入れて持ってきた。威圧感のあるその姿にカークは当初、どうしてこうなったと文字通り頭を抱えてしまった。
確かに馬が欲しいとは言った。しかし誰が魔馬を持って来いと言ったのだ。
こんな馬を乗りこなせる奴がいるものか。そう思いつつも代官にやるだけやってみろと言われ、カークはまず実際に乗る事になるリリを魔馬の前まで連れて行った。
魔馬はそれまで非常に太々しい態度で、カークの事も完全に下に見るような態度を取っていた。だから穏やかなリリなら尚更無理だろうと、カークは半ば諦めていたのだが。
「可愛い馬さんですね。これに乗るんですか?」
そうリリが龍眼を向けたところ、状況は一変した。その魔馬は突然威圧感を引っ込めて、何とチューイング――口をもぐもぐさせたり舌をぺろりと出したりする行為だ――を始めたのだ。
この仕草は馬がリラックスしている時にする行為だが、一方で相手へ服従した時にも見せる行為である。つまり魔馬はあの一瞬でリリを主と認めたのだ。
まさに龍に睨まれたカエル。本能で自分よりも強者であると悟ったのだろう。
そうして魔馬の問題は一瞬で解決したのだが、しかしこの事で新たな問題が浮上する事となる。それは、魔馬にリリと同乗するのは誰かという問題だった。
魔馬は非常に頑強で、人間が三人乗っても走るスピードが全く落ちない。なので魔馬がいるなら、騎手は誰でも良くなった。
なのでフィリーネが乗る必要は無くなり、二人乗りの訓練も不要となったのだが、如何せん騎乗するには魔馬に認められなければならない。無理やり乗れば待つのは死である。
なので昨日は、魔馬が主賓の面接会のような事を行った。結果、オディロンとベルナルドは激しく威嚇され、フィリーネは馬に鼻で笑われ酷くショックを受ける結末をたどった。
唯一乗せてもらえそうなのはカークだけだったが、とは言え彼も一人では乗せてもらえず、リリがいる場合のみの恩情措置のようだった。
とは言えこれですぐに出発する事が可能となった。そうして一行はすぐにでもという事で、早朝から代官屋敷を発とうとしていたわけであった。
今はまだ馬車があるためリリが馬に乗る必要はない。が、騎乗とはただ馬に乗れば良いというものではなく、心身共にかなり疲労するものである。
なので馬車を置くバイゼルまでは、リリとフィリーネで交代で馬に乗り、移動と共に少し騎乗に慣れさせる訓練も行う予定としていた。
今日はリリが騎乗する番である。だがリリは今までスカートを履いていた。
流石にスカートで馬に乗るわけにいかない。なので彼女は今代官が用意した、女性騎士用のかっちりとした紺の制服の上にいつもの白のローブをまとっていた。
この女性騎士用の服はフィリーネも受け取っている。ただ彼女は今日は馬車移動であるため、いつもの令嬢がお忍びで使うような比較的控え目なコートを着て、カークと代官が会話をする様子をベルナルドと共に黙って見つめていた。
彼女は学んだのだ。何か口にするからヘマをする。だから代官の前ではもう口を開かないと、張り付けた笑顔を武器にしっかりと口を閉ざしていた。
そうして一行が見つめる中、一通の手紙を取り出した代官は、それをカークへ不愛想に差し出した。
「バイゼル代官にはもう早馬を出した。だからお前達が町に着くまでには奴も承知しているだろうが、手違いがあってもつまらん。持って行け」
「わざわざすみません。ありがたく頂戴します」
それはバイゼル代官へ馬車を預かる旨を記した封書であった。
随分と用意の良い事である。カークは丁寧に礼を言い、それを受け取った。
さて、あと残るは食料の問題だが。
実はこの件はもう、昨日の時点で終わっていた。
「沢山の食料品も、ありがとうございます。ヘルブラントさん」
「いやいやいや! 何をおっしゃいますかリリュール様! この程度何という事もありませんぞ! うぇっへっへっへ!」
彼らの馬車には既に沢山の食料品がこれでもかと積まれていたのだ。二か月分の保存食と言ったのに、中には足の短い野菜や未加工の肉なども入っており、馬車の後方に設置された荷台はもう飛び出そうな程パンパンであった。
なのでオディロンとリリが馬車から出て空いた分のスペースにも積まれている状態で、無邪気に喜んでいるリリに比べて、フィリーネは荷物と一緒に椅子に座るのかと内心げんなりとしていた。
色々と予想外の事はあったものの、こうしてカークが要求した事を全て、ヘルブラントは用意をして見せた。
魔馬の用意、バイゼル代官への働きかけ、そして大量の食糧。
一体金貨を何枚使ったのだろうか。かなりの出費をさせてしまった事に、ベルナルドも貴族としてヘルブラントへ丁寧に礼を口にする。
「閣下、私からもお礼を申し上げます。此度はお力添えを頂きまして、感謝に耐えません。この件は後程、必ずやお返し致します」
ベルナルドが礼を言うと、フィリーネも黙って丁寧なカーテシーをする。その仕草は完璧であったが、しかし今彼女はハルツハイムの代表のようなものだ。それが無言で礼のみは流石に無いと、ベルナルドはまたお説教をする事を心に決めた。
「これは此度迷惑をかけた分でもある。あまり気にするな男爵」
「は。それでしたら、もし今後何か私共で役に立てる事がございましたら、どのような事でもご相談下さい。ヴェーゲナー男爵家の名にかけて、必ずや力になりましょう」
「うむ」
ルーゼンバークでの珍事は、そうして幕を下ろしていく。
仲間が次々に投獄されるという異常事態には遭った。しかし皆無事に事を終えられたのはきっと良い結果だったのだ。
「それでは閣下。我らはこれにて失礼させて頂きます」
そう思いたいと考えながら、ベルナルドは別れを切り出す。
が、彼は知らなかった。
カークがヘルブラントに三つの事を要求したように。
逆にヘルブラントがカークに要求した事は、まだ終わっていなかったのである。
「……おい」
「はい」
小さな声で促すヘルブラントに、カークも小声で応える。
カークはリリへ顔を向けると、頼まれていた通りの助け船を出した。
「その前に。リリュール様、閣下がリリュール様の旅の無事を祈って、わざわざ用意して下さった物があるそうですよ」
「え? 本当ですか?」
リリに丸くした目を向けられて、ヘルブラントはそっと一つの箱を取り出した。
その箱は手の平よりも少し長いくらいの細長い箱だったが、何かの革を黒く染めて作られており、見るからに作りが安物ではない。
リリは不思議そうに首を小さく傾げる。そんな彼女の目の前でヘルブラントは箱の鍵をカチリと開け、そして蓋を丁寧に開いた。
「どうぞこちらをお持ち下さい」
そこにあったものを見て、リリの両目は零れんばかりに見開かれた。
「こ――これはっ!」
そこにあったのは深海のように深い青の、宝石がついたネックレスだった。
「ラピスラズリのネックレスです。リリュール様の旅の無事を祈って、どうかこれをお贈りさせて下さい」
「ネックレスは旅の無事を祈る相手に贈る事があるんです。それにラピスラズリは幸運を招く石とも言われています。閣下がわざわざリリュール様のためにご用意下さったそうですよ」
ヘルブラントをフォローするようにカークがリリへ説明する。これもまたヘルブラントに頼まれた事であった。
ヘルブラントは何とかリリの心象を良くしようとしていたが、金で懐柔する方法しか知らない彼は、あまり物欲の無い――と言うか、贅沢品に興味が無い――リリに、どうしたら良いか悩んでいた。
そんなところに面会を申し込んできたのがカークだ。ヘルブラントはカークの要求を呑むのと交換条件として、リリが何を贈れば喜ぶのか聞き出していたのだ。
青龍族は青と名がつく通り、青い物に価値を見出す。それが特に貴重な物であればある程、彼らは目の色を変えて欲しがるのだ。
旅の途中、白龍族の姫ヴェヌスにホワイトオパールを贈ったという話をリリから聞いていたカークは、その理由も同時に聞いていた。
ラピスラズリは深い青が特徴の宝石だ。リリの話が確かであれば、青龍族ならば目の色を変えるはずだとカークはヘルブラントへ情報を提供していたのだった。
結果、その想像は確信へと変わる。
「ほ、ほほほ本当に!? これを私に!? 良いんですかっ!?」
リリは猛烈に食いついてきたのだ。眼を大きく見開いてヘルブラントとの間合いを急速に詰める。彼女の両手は既にネックレスの入った箱を両手で握っていた。
その圧は今までのリリとは思えない程強いものである。これは効果があろうと内心ほくそ笑んでいたヘルブラントも、思わず引きつってしまう程だった。
「も、勿論ですとも! このような物で恐縮ですが、どうか贈らせて下さい」
「こんな物だなんてとんでもない! これは良い物です! 私が保証します!」
珍しく興奮しているリリはよく分からない事を言って首を激しく横に振る。ヘルブラントは豹変した彼女に多少面食らってはいたものの、カークにちらりと笑うような横目を向けられて、ごほんと一つ咳ばらいをした。
「そのように気に入って頂ければ用意した甲斐があるというものです。ではこちらをどうかお納め下さい」
再び静かに蓋をして、ヘルブラントは箱をそっとリリへと押す。手元へやってきた箱を見て、リリは嬉しそうに頬をほんのりと染めた。
「……もう一度、見ても良いですか?」
そして代官をちらりと見て、相手が頷いた事を確認した後に恐る恐る蓋を開けて。
その中身が本物であると再確認したリリはと言えば、
「えへへ……嬉しいです」
と、年相応の嬉しさを口にしたのだった。
実のところ、このネックレスは魔馬程高くはない物だ。だから魔馬を贈った時点で金銭的にはもう十分リリへ贈っていたのだが、しかしヘルブラントの意識では、女性が馬を贈られて喜ぶわけが無いという思いが強かった。
魔馬程度では十分と思えなかったのだ。
女は身を飾る物を強く好む。そんな思いから彼は、このネックレスも用意した。
そしてリリの喜ぶ様を見て、やはり用意して正解だったと、彼はエイクとの約束を果たせた事を確信できた。
金の分の仕事をしない者は彼にとって排除すべき敵だ。だがそれは自分の身においても例外ではなかった。
彼はエイクに金貨百枚を優に超える金品を受け取った。自分の首がこれでやっと繋がったと、彼は一行が去る直前に、やっと安堵の息を吐いたのであった。
こうしてヘルブラントの願いは成就した。これはリリ達一行にはさほど関係がない願いであったが、しかし一行にとってもオーレンドルフ領に向かうために必要な物をただで用意できた事もあり、悪い結果にはならなかった。
予想外にもこの町に一か月近く滞在する事になった一行。彼らはまた東を目指し、町を旅立って行く。
その先にあるのは探し人の故郷、オーレンドルフ。王国でも最悪といっても過言ではない、治安の悪い領となる。
そこで本当にエイクを見つける事ができるのだろうか。彼らの胸には期待や不安、心配など、様々な感情が渦巻いている。
そんな彼らの顔を冷たい空風が撫ぜて行く。眼前に広がる空はどうしてか、今冬一番の澄んだ青をしていた。